26、眠り時計
26、眠り時計
トラスが落ちていった痕を擦り抜け、チルトは螺旋回廊の大きなうねりを上っていく。
チルトはトラスの落下を目の当たりにして、何故だか喪失感を感じていた。
あんなに嫌な奴だなあ、と思ったのに、失望して落ちていく彼をみて、チルトは胸にまたひとつ、ぽっかりと穴が空いた気分になっていた。
そのことは、チルトを小さく驚かせていた。
ふと見上げると、透明な水色の硝子が透けて、生徒が幾人か階段の途中で伏しているのが見える。
不気味に思いながらも、チルトは歩んでいく。
すると、静寂の中に自分の靴音と、そして一定間隔に刻まれる音を聞いた。
チルトが上へと上ってゆくと、音は段々と近付いて、はっきりと秒針が時を計っているのだと分かった。
生徒の隣を通り過ぎようとする。
症状が気になってチルトは顔を覗き込もうとする。
その時、鈍い鐘の音が回廊に響いた。
ゆっくりと滑らかに、打ち鳴らされ続ける音は、夜を告げているようだった。
「何、」
チルトは驚いて振り返ると、柱に硝子の古時計があった。
針は11時47分を指していた。
鳥の鳴き声。
古時計の上部には森と木の上の家が硝子で形造られ、その扉から梟が顔を出していた。
鐘の音に合わせて姿を見せては暗闇へ引っ込み、また姿を現しては鳴く。
聞いているうちに、チルトはまぶたが落ちてきた。
急速に眠気が増していく。
首が傾くのを頑張って直すが、やはり傾いた。
身体が重たい。
穏やかなようでいて、海が月に引かれていくかのような感情だった。
倒れかける。
不意に生徒を覗き込む。
倒れかけていた生徒は、ぐっすりと眠っていた。
それを認めて、チルトも意識を失った。
倒れる瞬間、チルトは黒い影が覆って通るのを見た気がした。
チルトは眼を覚ました。
身体は相変わらず重い。
まどろみのけだるさから、意識をようやく起こすと、回廊とは別の場所にいることに気付いた。
小さな部屋だった。
薄暗く、内装はよく分からないが、壁に一つだけ、円い穴が空いていた。
回廊の遠くなのかと初めは思ったが、耳を澄ますと、しっかりとあの時計の針が音を立てていた。
「起きたか、」
部屋の中で声が響いた。
チルトは身体を小さく震わせて驚いた。
「誰、」
姿を見つけようとするが、見回す必要もなく、声の主は現れた。
突然チルトに肩組みしてきたのだ。
「離せよ、」
チルトは強い口調で言うが、押しのけようとする態度もそのままに、チルトは円い窓のような穴へ、促されるというよりも連れていかれる風にして歩かされた。
明かりで見えるようになると、黒い衣を着た男だった。
「あれを見なさい、」
チルトに無理矢理肩組みする男は、穴の外の柱を示した。
少し上を見ると、回廊の真ん中にあの時計があった。
「あれは“眠り時計”と言って、一種の梟時計なんだねえ。」
「梟時計、?」
チルトは聞いたこともないような言葉を反芻した。
「何、あちらの大陸じゃ、そんなに珍しくもないサ。あちらの人はみんなあの時計の音を合図に寝床に着くんだ。あの鐘の音と梟の声を聞いていると、自然と眠気が襲ってくる。」
あちらの大陸のことなど、チルトはまるで知らなかったが、男の言葉を聞いてチルトはどこか納得していた。
睡魔と闘う時のように、コクリコクリと頷いていた。
何しろチルトは、あの眠気をすでに体験している。
「どうすればいいの、」
「まあ見ていなよ、」
男は再び、柱の“眠り時計”を見るように促した。
円い穴から眺めていると、鐘の音が響く。
また梟が顔を出し、鳴き始めた。
再び眠ってしまうと思ったチルトは、男の腕を掻い潜って眼を逸らし、耳を塞ごうとするが、男に止められる。
「ここは大丈夫だから、さあ。」
言われて、平然と眺めている男に気付き、チルトは有耶無耶な心地で視線を戻した。
「眠る眠るこの塔は眠る。きみも眠気で落ちぬように気をつけて。それよりも、今時計は何時を指しているかな、」
訊ねられて、チルトは眼を凝らして時刻を読み取る。
「4時32分、」
読み上げて、チルトは驚いた。
「確か、さっきは11時47分だった、」
一瞬だと思っていたが、チルトは五時間近くも眠っていた。
もう試験など、とうに終わっているのではないかと不安に思われたが、男の言葉に意識が戻される。
「そう、問題は時間ごとじゃなくて、なくて一分おきに鐘がなるってことサ」
男は淡々と指摘した。
言われてみれば、確かに半端な数字で鳴り響いている。
34分になって、再び梟が姿を現した。
「ぼくはここを通り抜けたい。」
「俺もねえ。」
しかし、見る限り回廊は果てしない。
どうにも一分という時間では、ここを走り抜けるには短すぎる。
途中でまた時刻が訪れ、眠ってしまうだろう。
そうすれば次に起きるのは、また五時間後だ。
回廊を抜けるのは、明日になるか明後日になるか、はたまた一週間後か、いつになるか分かったものではない。
「そこでね、」
男は黒い上着のポケットに手を入れて、何かを取り出す。
明るいところでチルトに見せる。
それは黒い、墨で浸したような色の羽だった。
一枚の羽は、しかし硝子ではない。
この男の“私のもの”であるのかもしれないと、チルトは感じた。
「これを君に渡す。これで眠くならないんだ、」
言って、男は羽を手渡した。
チルトは優しく掴む。
羽毛の揺籃のような柔らかさが、身に染み入るようで、状況も忘れてしばらく両手で触れていると、気付いた時には男はいなくなっていた。
不思議に思って部屋を見回しても、男を見つけ出すことはできない。
いつのまにか回廊を行ってしまったのかと思うが、あまりに唐突すぎた。
円い穴から外を眺めると、ちょうど梟が家の中に戻ったところだった。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
隙を見て、チルトは穴から飛び出す。
羽を握り、バケツを提げて、チルトは回廊を駆け出した。
上へと上ってゆく。
やがて一分が経って、“眠り時計”が鐘を鳴らした。
しかし全く眠気は訪れない。
それどころか、身体が少し軽くなったかのようだった。
眠りこける生徒を過ぎて、チルトは長い回廊を飛ぶように駆け抜けた。
息が切れて、回廊の終わりにようやく辿り着く。
その間、何度も梟は鳴いていた。
回廊の終わりには扉があり、急いで開けようとすると、手の中の羽が零れ落ちた。
しっかりと握っていたはずなのに、まるで逃れるようだった。
行方を追って探すが、見つからない。
また鐘が鳴る前に、仕方なくチルトは扉を開けた。
開くと、風が吹き抜ける。
驚いて振り返ると、先の回廊の床に黒い羽が吹き溜まっていた。
傍らには硝子ペンが転がり、白いインクが零れて、幾つか羽を染めていた。
床に直接文字が書かれていた。
“I appreciate you”
“眠り時計”が鳴らないうちに、チルトは扉を閉めた。




