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11、心のうろ

11、心のうろ



普段の教室群がある階層の、ひとつ上には、普段使われていない教室群がひとつ階層としてある。

普段授業など行われないし、ほとんど誰も出入りしない。

いつかは使われて、授業が行われていた時代があったのかもしれないが、少なくともチルトたち生徒は、そんな時代を知らなかった。

使われない教室の中は、どこにしたところで静寂に、机や椅子をがらんとさせていた。

生徒の中では、そこをがらんの教室と呼ぶものもあるが、そう言った場合、特にその内のあるひとつが示されることが多かった。

何故そうかと言うに、そのひとつの教室だけは、斜塔の外に面した壁硝子が変わっているからだ。

変わっているゆえに、象徴的に示された。

どこの教室も青や碧の色硝子が使われているのに、そこだけは、外側に向かって透明な硝子が使われている。

教室群の中にぽっかりと穴が空いているように、そこからだけは、はっきりと塔の外の様子が見えるのだ。

ただこの階で、そんな外の風景に興味を示す生徒は、ごく少数だった。

朝食を終えたチルトは、その教室にいた。

授業を控えた中で、さび色の眼をほとんど閉ざして、逆立てた髪に癖をつけたエルアが、眠そうに机の上に横たわっている。

「朝食、食べないと、身体に悪いよ」

チルトが声を掛けると、エルアが気付く。

「朝はのらない、お腹が空かないんだよ、朝は」

エルアは普段から朝食を食べず、大食堂に行かない代わりに、朝早くからこの教室に来てくつろぐの常だった。

そんなエルアに、チルトは制服の内から、ナプキンで包んだ堅焼きパンを取り出した。

「そう言うと思って、エルア、今朝はきみの分も持ってきた」

堅焼きパンにはレタスや茹でて輪切りにした卵何かが挟まっている。

近付いたチルトは、エルアの傍らに置いた。

「、サンキュ」

仰向けに寝そべりながら、もしゃもしゃと租借し始めるエルア。

行儀が悪い。

持ち出し厳禁だから、盗ってきたの間違いだろうけどよ、と飲み込む合間に呟いた。

チルトは、教室の、外向きの壁へと向かった。

がらんの教室の、透明の硝子を覗き込む。



 “どうしてぼくたちは、重さを持っているのだろう?”

当然のこと過ぎて、子どもでも疑わないことを、チルトは疑う。

楽しいこと、嬉しいこと、不満なこと、悲しいこと、好きなこと、嫌いなこと。

全部をコントロールすることなく、我慢することも躊躇することもなく、余さずに表現できる。

あの外に見える街での昔が、なんだかチルトには懐かしかった。

重さをなくすことが、自由になることだと唱うヒトはたくさんいるが、チルトには、どちらが本当に自由なことなのかは、分からないことだった。

みんな“幽霊”というものに憧れるけども、チルトは思う。

尊いヒトは重いヒト。

この透明な硝子の向こうに見える、地に足を着けて住むヒトたち。


〈昔々、感情のもっとも重かったと言われる、王様がいました。

重さというものを、ヒトはごまかすことができません。

その家系、その王族(ロイヤルファミリー)は、みんな重たい方でしたが、その王様の重さは、硝子などでは到底支えることができず、城の大理の敷石を砕くと言われたほどだったのです。

王様は、真に、国のヒトビトを愛していたか、または極度の、淋しがりやでした。

城によく、ヒトビトを招いた王様は、国のヒトビトにも当然愛されていました。〉


子供の頃に聞いたそんな昔話の王様は、今では異端の王様だ。

近年になって、蒸気機関というのが発明され、世界はより速く、機能的に回るようになり始めた。

斜塔まで、直通の機関車もあるくらいだ。

斜塔の最下層は市民にも開かれており、“無感情”を崇拝する礼拝堂と、全ての市民手続きと統括する、“中央”とも言える役所になっていた。

“無感情”教徒は、軽さを志して、いずれ重い世界から解放されることを望む。

この考え方は、この国にすでに深く根付いており、もちろん、信仰に個々の熱心さはあれど、逆に重さを重んじることは、この国では異端になる。

争いの種というものだ。

“蒸気機関”という“機械”の登場は、「冷たく機能的」になることが、もっとも効率よく国の繁栄に繋がることを、証明したようなものだった。

外観を整えた石造りの街は、焦げ茶の煙突と屋根を地平線まで絨毯にしていた。

斜塔が高すぎて、細かなものは何ひとつ見て取れないのだが、そのどこかに見知った場所があるような気がして、チルトは自然に眼をきょろきょろとさせながら、チルトはこの透明な硝子の向こうに広がる街に、いつの間にか惹かれていた。

そんな時、何故この斜塔が、外の望めない色硝子に阻まれているかが、分かった気になる。

チルトは硝子の外に落っこちそうな錯覚に陥って、ふと眼を逸らした。

この場所を、あの優等生の女の子は“心のうろ”だと言っていた。

うろという、彼女の感覚は分からないが、そんな外の世界から、こうして眼を背ける時のような、ぽっかりと胸に穴が空くような、そんな感覚を言うのではないかと、チルトはふと思った。

うろ、これは、感覚だけれども、感情ではない。

たぶん、硝子でもうちやれない、そんなものに思った。

「チルト、」

 ふいにエルアの声がする。

寝そべりながら、チルトを呼ぶ。

「チルト、お前の肩っていうのはさ、丁度俺の腕が伸びきった位置にあるのよ。お前の肩に俺が手を置くのに、俺は腕をたわめたり持ち上げたりする必要が、少っしもないわけなんだよ。ただちょっと、ぶれるような動きで手を動かせば、お前の肩にするっとのるわけ。」

「何が言いたいのサ」

「別に。だから何っていうわけぢゃないんだけどよ。もし、もしだ。お前がこの先どっか行っちゃうことがあってもよお、いつも着ていてそれは明日も着るもんだと思って脱いだ制服をベッドに置いたまま、それ以来動かすことなく残ったままぱったり消えちまうことがあったとしてもよお。」

エルアはぶっきらぼうに続けた。

「俺はお前の背後に突然忍び寄って、お前がその時誰といようと、ちょっとした、動作にもならない動作ですっとお前の肩の上に手をのせるんだよ。授業終わったからこれから大食堂でも行って、腹ごなししようぜっていうような気軽さでよお。ちょっと頭をひねって、悪巧みにも似たちょっとしたいたずらを、二人でするのさ。いいか、お前がどこにいて、誰といようともだ、絶対だ。いいか、分かったかコラ、チルト」

エルアは荒げた語調で、意味不明な苛立ちとともに、脈絡もなく言った。

チルトは得心のいかないまま頷いた。

「よしよし、」

エルアは満足げに頷いて、机の上に寝そべった。

チルトが外をずっと眺めていてチルトが斜塔を下りるとでも思ったのだろうか。

しかしヒトのうちこそ、分からないものはない。

他に思い当たることもなく、机の上で行儀悪く怠惰するエルアをぼうっと眺めた。

必要とされるのは嬉しいことだが、しかし勝手な約束をするエルアだった。

なにが「よしよし」なのか。

「エルア、次の計測っていつだっけ、」

 それはそれとして、チルトは気になって訊ねた。

「一、二週間先じゃなかったか、」

「そっか、ぼく、今体重が増え気味何だよね。また、この前の実験みたいにさ、硝子に感情をやって、いらない感情を整理しようと思うんだ。」

「チルト、」

 そうしてまた、エルアの荒げた声が飛んだ。

「いいか、絶対にお前はそんなことをやってはいけない。」

「不安定になるから、?」

 サントマルテ先生の言うことを思い出すが、エルアの眼は揺らがない。

「いいか、絶対だ。急にそんなことをしたら、癇癪を起こすぞ。リラシーラだって、最近そんな手に出ようとしたのを見て、ルビーが止めたって話だからな。いいか、それをするのは、下の世界で言うなら危ない薬に手を出すような暴挙だぜ。絶対に、そんなことをしてはいけない。」

珍しくエルアの眼には、真摯な色が宿っていた。

そんな真っ直ぐとチルトを捉えたエルアに、チルトは少し気圧されていた。

チルトは頷くと、エルアはまただらしなく寝そべる。

チルトはそんなことを強く言われるとは思いもしなかったので、少し動揺していた。

 ふいに、声が聞こえる。

“涙を知ってる?”

声の方を振り向くと、いつのまに女生徒が、席のひとつに腰掛けていた。

“涙を知ってる?”

女生徒は、机の上に手を掲げていた。

うちには小壜があって、ひとつ、ふたつと、中の水を雫にして垂らしていた。

机の上が円く濡れ、波紋が脈打っていた。

“ヒトはいろんな時に涙を流すわ”

“それは、感情が極まった時”

“どの感情にも、涙は、感情が溢れてこぼれるの、”

一滴(ひとつ)二滴(ふたつ)、と紋様が連なって上を塗り重ねた。

硝子机の円い水溜まりが、そのたびに大きくなっていく。

“涙を知ってる?”

“涙を知ってる?”

“涙は感情のひとつの形”

“だけど、 硝子の斜塔(グラス・バベル)には似合わない。”

“だけど、”

“だけど、かたどろうしているの、”

硝子の斜塔(グラス・バベル)は、かたどろうとしているの、”

 ふいに女生徒が立ち上がると、気配も確かに軽快に足踏みして教室を出ていった。

「何だ、」

エルアが、怪訝そうに見送った。

チルトは女生徒の机に駆け寄ると、雫の溜まった机に眼を落とした。

「今のヒト、見たことがある気がする、」

「そうか?」

「たぶん、」

「あいまいだな、」

エルアは鼻で笑った。

チルトは机の上に手をやると、水溜まりにそうっと触れた。

水はほのかに暖かく、ぬるく硝子にぬかるんだ。

波紋が後を引いていく。




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