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10、サントマルテ先生の木函

10、サントマルテ先生の木函



彼女が華奢な手でノブを回すと、扉が開く。

そこには、ひとつの部屋があった。

部屋に入るつもりで入った“504”から、チルトはようやく部屋らしい部屋に辿り着いた。

帽掛けや机、本棚などの調度品があり、机には二組の椅子の上にまでかけて雑然と資料が積まれたり、崩れたりしていた。

扉をくぐった先にあるものとしては、妙な配置だった。

背もたれには上着まで掛けてある。

近付いて見ると、教師の上着だった。

奥からはいびきが聞こえてくる。

そこは生徒に割り当てられている部屋よりも、少しばかり奥行きがある部屋だった。

二人は足をひそめながら(彼女の足音は、元から本当に静かなものなので、そうするともう消え入りそうなくらいの足音だった。)部屋を奥まっていく。

開け放たれたままの扉があって、先の寝室にはランプの灯りが漏れていた。

壁一枚をくぐったところには、小さな灯りを置く台が先にあり点けたままになって、青い硝子の内からゆらゆらと透過した。

その傍らに、ヒトひとり、毛布を被って眠るベッドがあった。

胸元の部分で、布が呼吸にあわせて上がったり下がったりする。

毛布の上からでも、お腹の出方が分かった。

出ている顔は、もちろん丸い。

「サントマルテ、先生、」

チルトは小さく呟いた。

ここは、教師であるサントマルテ先生の部屋だった。

チルトが見ている間にも、女の子は別の場所をもう何かを歩き回って見ていた。

そして部屋の隅、ベッドの傍らの付近にあったものを、掴みだして来た。

それは、サントマルテ先生が常々持ち歩いている、木函だった。

硝子でも支給品でもなさそうなそれは、彼の” 私のもの(マイン)”なのだろうと、前々からチルトは考えていた。

ルビーが持ち出してきた手紙も、この木函に針で留めてあったものである。

木函は上に取ってがついた、トランクのようになっている。

授業にまでいつも持ってきて、たまに教卓の上で開けるが、席から見えるのは蓋ばかりで、そういえば、チルトは中身を覗いたことがない。

かと言って、別に気にしたこともない。

その木函を、女の子は重そうにチルトのところまで持ってくると、前でずしりと横たえさせた。

何をするのか訊ねようとすると、彼女は口の前に人差し指を立てる。

チルトは、何だか分からないまま覗き込むと、女の子が横に屈んでならんだ。

そのまま木函の留め金を外す。

こんなことをして、大丈夫なのかとチルトは思うが、いたずらでないことも確かに思えたので、彼女の行動をひやひやしながら見ていた。

鍵の外された木函の上蓋に手を掛けて、女の子はとうとう開いてしまった。

中には、色とりどりの、丸みを帯びたものが、幾つもの仕切の間に収まっていた。

チルトは一瞬、眼を奪われた。

何か授業で使うものや大事な資料が収まっているものだと思っていたのが、実際の中身は鉱物をならべた標本のように、輝くものだった。

女の子がひとつ、手に取った。

青いそれは、石ではなく硝子のようだった。

女の子は、しばらくその硝子を、眼を細めて見つめていた。

硝子と彼女の眼は惹かれあうように同じ色をしている。

「それで、そのひとつをどうするの、」

チルトは小さい声で訊ねた。

先生が起きてこないか心配で、声早く言った。

彼女は焦った様子もなく、ゆったりと言った。

「このひとつを、壊すのよ。」

チルトは、顔をしかめた。

「いたずらじゃないよね、」

彼女は言った。

「いたずらよ。」

チルトは、おいおいと思った。

「あなたを呼んだのは、この青い硝子を壊してもらうためなの。私じゃもう、どうにも壊せそうにないから、私は何だかもう、ひとつの硝子ですらくだけないの、」

「いけないよ、そんなこと、」

エルアと一緒なら、チルトはやりかねなかったが、ヒトが大事そうにしまっていたものを勝手に壊すのは、幾ら嫌みばかり言うサントマルテ先生のものでも、気が引けることだった。

理由があれば別だが、まるで事情も読めない。

チルトは自然と後ずさっていた。

「お願い、」

彼女は、青い硝子を見つめながら言った。

憂いにも似た眼が細まって、彼女の眼が苦しそうに見えた。

チルトはその眼に、ゆらいでいた。

迷いながら、改めて函の硝子に眼を落とす。

よく見ると、それらの硝子石には見覚えがある。

姿形は、あの天秤授業で使ったものとそっくり同じだった。

チルトははっとして、右手と左手に、それぞれ函の中から硝子石を掴んだ。

比べてみると、重さが違う。

チルトはそのことに眼を丸くしながら、女の子に向き直った。

「もしかしてそれは、誰かの感情なの、きみが壊して欲しい、誰かの感情なの、」

女の子は、頷くことも首を振ることもしなかった。

ただやはり、丸い硝子の石を見つめていた。

「お願い。」

彼女はただ、繰り返した。

彼女は何も言わない。

どんな想いなのかは知る由もなかったが、普段無表情の彼女の顔に、ほんの少しだけ現れた、何とも言えない表情だけが、想いを知るための少しの手段だった。

彼女にはきっと、ほんの少ししか感情がないのではないかと思わせる表情であったし、実際にそうなのだろうとチルトは感じていた。

しかしどんなに少しでも、チルトをここまで連れてきて、“お願い”をする彼女の内に、チルトに対する感情があることを、チルトは確かめることができていた。

ただそれが嬉しかったから、チルトは“お願い”を受けることに決めた。

「分かった。貸して、」

女の子から、また表情が消えた。

硝子を持っていた手を差し出して、彼女はチルトに静かに手渡した。

それを手にして、さてどうやって壊そうかと、チルトは改めて考えた。

何か壊せそうなものを、チルトは特に持っていなかったし、こんなところで壊しては、サントマルテ先生が飛び起きることだろう。

どうするかてのひらで転がして、ふいに力を入れて握ってみると、ぴしりと、表面にひびがいった。

チルトは驚いた。

硝子というのは、こんな手の力くらいで、ひびの入るものではない。

紙のように薄いものならまだしも、これは丸い形の硝子だ。

“たくす感情によっては、硝子も脆くなってしまうことが、硝子の性質にある。”と、授業で言っていたことをふと思い出した。

チルトはそれが、こんなにもやわなものなのかと、てのひらで感じていた。

卵を握るようにして指を表面にあてがい、もっと力強くぎゅっと握りしめると、硝子石は弾けるように崩落して、破片は散りぢりになり、粉や欠片が霧散した。

チルトの子ども分の手からこぼれ落ちて、小さな欠片が床に冷たい音を立てて積もった。

チルトは、しまったと思った。

硝子がこんなにも脆く、ここまで粉々になってしまうとは、思わなかったのだ。

寝台を反射的に振り向く。

サンントマルテ先生が起きていやしないかと、胸が鼓動を大きく打った。

そして、チルトは眼を疑った。

いびきをかいて胸を上下させながら眠っていたはずのサントマルテ先生が、消えていた。

毛布は跳ね上げられ、お腹の丸いでっぱりもなく、ただ静な寝台になっていた。

「やあ、チルトくん。」

サントマルテ先生の、いやらしい声が聞こえる。

またチルトは焦って、反射で振り向いた。

見ると、灰色の寝巻き姿のサントマルテ先生が、女の子の口を塞いで、後ろから手を押さえていた。

彼女が、少し呻いて抵抗すると、サントマルテ先生は逃さず押さえつけた。

「先生、」

「どういうことかな、きみたちは、こんな夜中に私の、このサントマルテの部屋へ、まずは説明してもらおうじゃないかね」

偉そうな口調のサントマルテ先生の言葉がのしかかって、チルトの額に汗が流れた。

気づかぬうちに、サントマルテ先生は起きていて、女の子の背後まで回っていた。

「まあ、大体予想はついているがね、このサントマルテに、きみはいたずらをしに来たのだろう。そんなに硝子板の上に届かないのが、頭に来たのかな、ん?」

サントマルテは、相変わらずにやにやとしながら言う。

予想が当たっているのかいないのか、チルトにはよく分からない。

「彼女を放せよ、」

「おいおい、このサントマルテは、きみの教師なんだよ、そんな言葉使いはいただけないな。そして、私は教師なんだ。こんなことをして、この階層でこれ以上生活はできないよ、分かっているね、ん? この子が共犯していることは意外だが、この子もいれなくなる、きみのせいでねえ。」

サントマルテ先生は、チルトを下級生にできることがよほど嬉しいらしく、それに加えて、全てをチルトに突きつけるつもりだった。

「これは、授業のものなんですか、」

チルトは床の木函に屈むと先生に訊ねた。

先生は眼線を落とすと、表情を変えた。

「ああ、そうさ、それは私の、このサントマルテの大事な“標本”、今までの授業でも、より選った硝子石を集めた、私の収集物。その中には素晴らしいものもある、美しいんだ、独特の重さを持った、脆さを持った硝子石はね。何せ感情を宿してる。向かい合った、ヒトに対しての感情をね。そう、ヒトに対するものは、特に素晴らしい。妬みや恨み何て感情はひどいものだが、恋人や親友といった者に対したのは、宝石よりも価値があると、このサントマルテは見ているんだ。返して欲しいと、せがむ生徒もいたものさ、それは大事なものだからと。しかしこのサントマルテ、哀れみや同情といったものは、一切持ち合わせていないのさ。そんな生徒のものは、今も“標本”として、その木函に飾ってある。」

「そうですか、」

それを聞くと、チルトは木函の蓋を閉めた。

「ところで、もう一度だけ言う。彼女を放せよ。」

「きみこそ、その木函に触れてくれるなよ、チルトくん、下級どころか、この斜塔から出ていくことになるよ。さあ、こっちに、私の手の届くところに、」

チルトは、木函の取ってを握りしめた。

チルトは彼女を守りたかった。

「放さないなら、」

チルトは、強く握った木函を振り上げた。

「下まで取りにいけ」

チルトの様子に気付いた、サントマルテ先生が驚愕して、わめき叫んだ。

チルトは、木函を思い切り床に叩きつけ投げた。

硝子が盛大な音を立てて飛び散った。

ひび割れて粉々になって生じた穴に、木函のトランクが落ちていく。

蓋が開いて、硝子石が色とりどりに散りばめられていく。

サントマルテ先生は、必死に手を伸ばしていた。

先生の踏み出した床が、ひび割れる。

木函に手が届いて、少し触れたと思ったが、そのまま前のめりになる前に、床が自分を支えられなくなっていた。

感情が露になった先生を、硝子は乗せることに耐え切れず砕け散った。

先生は、かつてないほどに必死な形相をしながら、木函とともに、できた穴に落ちていった。

穴の底は暗闇で満たされている。

硝子の音がどこか遠く木霊した。

部屋にできた空洞を挟んで、チルトと女の子は淵に佇んでいた。

女の子は無表情なようで、少しだけ眼を細めていた。

また、甘く、焦げた匂いがチルトの鼻をかすめた。

チルトは、翠色の煙の筋を、眼の前に捉えた。

「サントマルテは、落ちたのね、」

れいとした高い稜線からの声だった。

艶やかな唇から深く息が吐かれると、翠の煙が空中で霧になった。

その橋に触れたかと思うと、チルトは匂いに呑まれた。

壁にもたれて、細く背の高い女性が、いつのまにかに立っていた。

ミルキーグリーンのひとつづきが、落ち着きを払って、翠煙の中で色を絶やさずにいた。

チルトはゆっくりと振り向いた。

チルトは今度は何だか驚かなかった。

翠煙に囲まれた、ミルキーグリーンの“幽霊”。

“展覧会”で垣間見た、女性。

綺麗な相ぼうには、蒼白な白さがあった。

女性はその眼を、憂いにも取れてしかしそれが普段のものだとも見える曖昧な眼を、チルトの傍らに積もった、粉々の青に向けていた。

「粉々になった青の硝子石、確かに見届けたわ、」

そう言ってまた、煙草をくわえたかと思うと、ミルキーグリーンはすまし顔で壁を離して寝室を出ていった。「彼女は、」

不思議に思って、また訊ねようとした。

すると女の子が、すっと、そんなチルトの横を、接するほど近くにすり抜けた。

不自然な歩みに振り向くと、女の子もまた、寝室を出ていく。

チルトは追った。

翠の女性はすでにいない。

机の向こうに扉がひとつあったが、それが自分たちがくぐってきた扉だと、チルトはどうしても確信が持てなかった。

もはや何を訊ねる気にもなれず、だんだんチルトは寝惚けた気分になって、女の子と扉をくぐった。

「あれ、」

チルトは辺りを見回して、首を傾げた。

そこは、怪しげな薄暗いお屋敷ではなく、教室群外れ階にある、教師用の寄宿舎だった。

廊下には灯りの漏れる窓などひとつもなく、ただ連なって夜灯用の華輝石炭の小さな太陽発光が、蛍火のように薄明るく、それが、他の廊下と同じく、青や碧色の硝子を映えさせていた。

「おやすみなさい、」

気付いた時にはもう、女の子は後ろ姿だった。

もう、頼みごとは済んだらしい。

歩み去っていく背に向けて、チルトも応じた。

「おやすみなさい、」




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