面倒な人の面倒な人による面倒な人のための物語 その6
逃げ出せたのは良かったけれど、方向音痴が夜の森に飛び込むってどうなんだろう――と冷静になった今、自分に呆れている。
咄嗟に唱えた魔術は持っている魔力を全てつぎ込み威力を最大限にした『目くらまし』だった。
でもあれが一番簡単で一番無難だと思った。
たとえそれが自分に危害を加えようとしている者だとしても魔術で傷つけることにはまだ抵抗がある。
それに強力な魔術は詠唱に時間がかかる。唱えている途中で口を塞がれたら意味が無い。
だから相手の視力を奪って逃げ出した。威力を強くしたので回復するのには時間が掛かるだろう。
けれど魔術の効きにくい人や効果の薄い人もいるとレオナールさんから聞いていたので、とにかく後ろを振り返らずに逃げた。
そして気が付けば、森の中だった。
手に触れた木に凭れ、座り込んだ。
全力で走り汗ばんだ肌に冷たい空気が今は心地よい。けれどそのうち寒くなるだろう。
静かな森に響くのは草の葉擦れや動物の鳴き声だけ。
人の足音や話し声は聞こえない。
それだけでも安心する。
安心するとあちこちがヒリヒリと痛みだした。きっと逃げている最中に草や枝で剥き出しになっている手や足や顔を切ったみたいだ。
恐怖が薄れると今度は寂しくなった。心細さでネックレスを触れようとして
それがないことに気付いた。
何度も触ってもいつもの感触はない。
血の気が失せる。
微かに残る魔力を振り絞り、魔術で小さな光を出して辺りを探したけれど、白銀の輝きはどこにもなかった。
来た道を戻ってみたけれど、そのうち魔力が底を突き、光のない暗闇に戻ってしまった。ネックレスを探すどころか、今の場所さえもさらに分からなくなっていた。
もしかしたら馬車の荷台かもしれない。
絶望感でその場にしゃがみ込む。寒さと疲労と喪失感で動けなくなってしまった。
自然と涙が浮かんでいた。
誰もいないから泣いてもいいよ――と慰めるように夜風が頬を撫で、その瞬間に堪えきれずに溢れ出てしまった。
朝、レオナールさんとあんな別れ方をしてしまったことを酷く後悔した。
私は何も彼に伝えていない。
自分の気持ちを何も言わない癖に、「何も言ってくれない」とレオナールさんばかりを責めていた。
そんな私に彼を責める資格はないのに。
好き――その一言が何で言えなかったのだろう。
気持ちを伝えられれば、彼が私を好きでなくてもこの想いに区切りをつけて前に進めたのに。
会いたい。
レオナールさんに会いたい。
会って謝って、そしてちゃんと言いたい。
寒さで震える膝を両腕で抱いて身体を縮こませる。
真っ暗な森の中で目を開けていても、瞼を瞑っていてもそれほど視界は変わらない。
そのせいか急に眠たくなってくる。
眠ったら駄目だと分かっているのに、意識が薄れると寒さや痛みが薄らいでいく。
真っ暗な中で目の前に誰かの背中がある。顔は見えないけれど私にはそれが彼だと分かった。
彼は後ろにいる私には気付かず、どんどん歩いて行ってしまう。
待って!
必死に腕を伸ばすと、レオナールさんの姿は煙のようにかき消えた。
驚いて目を開けた。
当然レオナールさんの姿はなく、先ほどと何も変わらない森の中だった。
夢ですらレオナールさんの顔が見えなかった事が悲しかった。
置いて行かれた寂しさに、冷えた両膝を腕に抱えた。
お婆ちゃんからネックレスを貰う前は、寂しくなるとよくこの格好をしていたことを急に思いだした。
どこかで草擦れが聞こえた。咄嗟に息が止まる。
静かな森でそれは足音を伴いこちらへ近づいてくる。
逃げなければ。
慌てて立ち上がろうとしたけれど足に力が入らない。
自分がかなり疲れている事に今更ながら気付いてしまった。
音はどんどん大きくなり、やがて目の前の草むらが大きく揺れる。
自分の心臓の音が太鼓のように激しく打ち鳴らされる。
怖い!
身体をできるだけ小さく縮こまらせ、目を固く閉じた。
「トーコ!」
名前を呼ばれて目を開けた。ぼやけた視界が鮮明になっていく。
白金の髪と青灰色の瞳が青白い小さな光の中で輝く。
目の前で一番会いたかった人が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
本物か確かめたくて、冷えた指を伸ばして彼の頬に触れる。レオナールさんは一瞬驚いたような表情を見せた。
触れても彼は消えなかった。
「本物だ」
嬉しくてつい頬が緩む。
「はいはい、正真正銘の本物ですよ」
レオナールさんは苦笑しながらもその手を払わずに、自分の来ていた上着を私の両肩に掛けてくれた。
彼の体温の残るそれはすごく温かかった。
「どうしてここが?」
「素直じゃない道案内のおかげらしい」
そう言うと彼は私の方へ身を乗り出してきた。
な、何?
端整な顔が遠慮なく近づいてくる。
震えるような寒さはどこかへ消え、途端に身体が熱くなる。
でもレオナールさんの顔はあっさりと下を向いた。
何を期待しているんだろう、私。
残念さを滲ませた私の瞳もつられて下を向く。
彼は私に掛けてくれたポケットの上着に手を入れて何かを取り出した。
彼の掌の上にあった物は、もう見つからないと諦めていたネックレスだった。
青白い光を浴びて、白銀の鎖と薄青色の石が輝いている。
「これ――」
どこにあったの?
誰が持っていたの?
襲われたこと、知っちゃったかな?
あんな男に触れられた自分が妙に汚らしく感じて、思わず視線を落とした。
「留め金が壊れたみたいだから、明日直しに行こうか」
彼の声は普段と変わらない。
「直せますか?」
自分の声が少し震えていることに気付く。
「アレ――君のお爺ちゃんがこれを買った店がまだあるから、そこなら直せると思うよ」
「ありがとうございます」
私はそれしか声を出せず、俯いたまま大きく頷いた。
しばらくしてぽんぽん、と頭を撫でられた。顔を上げるとそれはレオナールさんの掌で、彼は優しく微笑んでくれていた。
きっと私の身に何があったか知っているだろう。けれど何も言わないでくれたことで救われた気がした。
その瞬間、涙や感情が我慢できずに彼の胸に顔を埋め背中にしがみついた。
レオナールさんは私の涙が乾くまで、頭を撫でて優しく抱きしめてくれた。




