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次のランチは、なかった。入社時研修を担当するようになって、一気に忙しくなり、タイミングが合わなくなったから。本社に来る時間帯もばらばらで、昼に余裕がある日も少ない。
まあ、そんなものだよね。
忙しい日々の中で、水瀬さんにお借りした本を少しずつ読んでいるが、とても参考になっている。これも、返さなくてはいけないのに、次はいつ会えるかな。そんなことを考えていたら、水瀬さんからのメールを受信した。
『明日、本社にいらっしゃいますか?ご都合よろしければ、お昼をご一緒にいかがですか。』
ちょうど水瀬さんのことを考えていたときだったので、思わず心臓が跳ねる。また、誘ってくれた。でも、残念ながら明日は店舗を巡回した後、15時に会議があるため14時くらいに本社に来る予定だ。ああ、残念だな。でも仕方ない。
『明日は14時に本社に行く予定で、お昼の時間帯は不在でして。せっかくお誘いいただきましたのに、申し訳ございません。』
『承知しました。』
それだけ。あ、終わりか。本と、あの素敵なカバーだけでも、どうにか返さなくては。何か手立てはあるだろうか。そう考えて、一度スマートフォンを伏せた。その直後、もう一度スマートフォンが震える。
『では、明日の夕食はいかがですか。この間、同僚に美味しい店を教えてもらったのですが、まだあまり周りに知り合いも多くなくて。』
いつもこういうことを言っているけれど、絶対そんなことないのに。そう思って思わず笑ってしまう。そして、少しだけ考えて、返信する。
『夕食でしたら、ご一緒できます。お誘いいただきありがとうございます』
『良かった。では店を予約しましたら、またご連絡いたします。』
それだけの返信。なのに、なぜか少しだけ、胸が落ち着かない。理由はわからないけれど。
木のカウンターに、やわらかい灯りが落ちている。仕事終わりの金曜の夜。店の中は静かで、外の喧騒が強く感じられた。
一貫、また一貫と寿司が置かれていく。静かな時間が流れる。
「あの、先日お借りした本なんですけど、読み終わりました。」
「そうですか。いかがでしたか。」
「すごく、よかったです。自分の選択に自身を持てなくなる瞬間って、あるじゃないですか。でも、それも含めてその人の人生なんだって。そういうことを改めて考えさせられて。」
「特にどのあたりが一番印象に残りましたか。」
「主人公が、「あの時、違う選択をしていたら」って思い続けていたところ、ですかね。すごく共感してしまって。」
「そうでしょうね。藤宮さんは、そういう方だと思っていました。」
「それは、どういう、意味でしょうか。」
「今の選択を大切にされながらも、別の可能性もきちんと見ている。だからこそ、迷うことがある。」
「そんなふうに、見えますか。」
「ええ、ですが。それは弱さではありません。むしろ、数多の選択しにしっかりと向き合っている証だと思います。その本は、判断に迷ったときに、必要になる本だと思います。」
「水瀬さんでも迷うことが、あるんですね。」
「もちろん、あります。」
「水瀬さんの、判断の基準はどこにあるんですか。」
「そうですね、自分にどれだけ必要か。その選択を、今しないと、後で取り返しがつかなくなるかどうか。」
「取り返しがつかない、ですか。」
「ええ。そういうものは、絶対に逃がさないようにしています。」
視線が双葉へまっすぐに向けられる。一瞬、言葉の意味を考える。けれど、どこかでそれ以上踏み込んではいけない気がして。
「すごいですね。」
「いえ、ただの性分です。」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。それ以上は何も言わない、けれど、その視線だけが、妙に離れなかった。
温かいお茶が出されて、食事がひと段落する。静かな時間が、少しだけ流れる。
「少し、お願いがありまして。」
「お願い、ですか。」
「はい。来週、パーティーがありまして。身内が主催者なので呼ばれていまして。ただ、同伴者が必要なのです。私、こう見えて人見知りなので、お誘いできる方が、あまりいなくて。ご迷惑は承知の上なのですが。」
淡々とした声のまま、そんなことを言う。また、そんなことを。思わず、少しだけ笑いそうになる。絶対、そんなことない。水瀬さんがパーティーに行く同伴者を募ったら、その辺の道端でも行列ができるに違いない。
「もし、ご都合がよければ。」
言葉が、柔らかい。押していないのに、逃げ場もない。一瞬、考える、仕事関係、というわけでもない。でも、完全にプライベートとも言い切れない。断る理由も思いつかないし。
「私でよろしければ。」
気づけば、そう答えていた。




