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本社勤務になってから、時間の流れが変わった気がする。店舗にいた頃のように、目の前の売上や接客に追われるのではなく、人を見て、人を育てる仕事。それでも、忙しさは変わらなかった。
各店舗を回って研修を行い、スタッフ一人ひとりの癖や課題を見て、言葉を選んで伝える。気を抜く時間は、ほとんどない。どうやったらもっとスタッフの理解が深まるか、考えを巡らせていたら、気づけばもうすぐ昼休みだった。
デスクに戻ったタイミングで、私用のスマートフォンが震える。差出人は、水瀬蒼真。
『お疲れさまです。 もしご都合が合えば、本日お昼をご一緒できませんか』と、書いてある。一瞬、手が止まる。え、……私に?思わず間違いじゃないかと、宛名を見ると、しっかり私の名前が書いてある。
確かに忘年会で名刺をいただいて、メール下さいと言っていたなと思って、お世話になったお礼と電話番号を入れてメールを送りはしたけれど。まさか本当に食事に誘われるとは思ってもいなかった。
少し考えてから、画面に指を置く。
『はい、大丈夫です』
送信して、ほんの数秒後。
『ありがとうございます。では、12時に「辻」という店の前で。地図もあわせて送ります。』
短く、無駄のない文章。さすが水瀬さん、仕事が早い!と驚きながら、水瀬さんの顔を思い出す。落ち着いた表情で、いつも冷静で。フロアのスタッフの憧れだった。背が高くて、あの冷たい表情がまた素敵!と、謎なことを言っている子もいたな。などと思い出しながら、せっかくのランチなのに気が重いな、とひとつため息をつく。
果たして約束の時間となってしまった。とりあえず、メイクは直したし、服装もスーツでおかしくないよね。と、鏡を見て気合を入れる。地図を見ながら店へ向かうと、水瀬はすでに店の前で待っていた。双葉を見つけると、ほんの少し口角をあげる。
「お疲れさまです」
双葉が笑顔で軽く会釈すると、眩しいものでも見るかのように、目を細めて水瀬も会釈をする。
「お疲れさまです」
自然なやり取り。それだけなのに、やっぱりなぜか少し緊張する。
「辻」は、駅から少し歩いた場所にある和食店だった。派手さはないが、落ち着いた佇まいだ。こんなお店があるの、知らなかった。席に通されると、自然と向かい合う形になる。メニューを開きながら、魅力的なランチばかりで悩んでしまった。
「苦手なものはありますか」
「何でも美味しくいただけることが特技なので、全部食べたくて悩んでいます。」
と、答えると、不意に水瀬が笑った。あ、ちょっと面白かったかな、良かった。
「この店は、卵焼き定食がとても美味しいんです。もし、苦手でなければいかがですか?」
「では、卵焼き定食にしてみます!」
料理が運ばれてくるまでの、少しの間。何を話そうかと考える前に、水瀬が口を開いた。
「トレーナーのお仕事は、いかがですか」
仕事の話。水瀬さんと仕事の話をするととても落ち着く。必要な答えを、いつもくれるから。
「まだ慣れないことも多くて……。人を見る仕事なので、難しいなと感じることも多いです」
「そうですね。人材の育成は、正解がありませんから、とても難しいですよね。」
水瀬さんのその一言に、少しだけ肩の力が抜ける。ああ、この人はいつも、欲しい答えをくれる。緊張していたけど、何だかとっても安心する。
料理が運ばれてきた。ツヤツヤに光る卵焼きに、付け合わせの大根おろし。ご飯も粒が立っていてふっくら美味しそうだし、お味噌汁も美味しそうな香りがする。大好きな切り干し大根の煮物の小鉢と、デザートに小さなわらび餅も乗った、文句なしの定食。
手を合わせて小さくいただきます、と呟くと箸を手に取る。静かな空気。けれど、なんだか不思議と安心する。
「実は、入社時の研修を担当することになりまして、正直、かなり緊張しています。」
「責任のある役割ですね。」
「そうなんです……。正直、少し不安で。」
口に出してから、少しだけ驚く。なんで、こんなこと……。話しても困らせるだけなのに。
「初めて経験することは、何事も不安にはなりますよ。私もそうです。」
双葉は思わず笑ってしまった。とてもそうはみえないのに。
「ですが。任されるべき人に任されているだけだと、私は思いますよ。藤宮さんは、店舗にいた時から育成力がある。スタッフの良いところをしっかり見て、伸ばすことができる能力というのは、実は貴重なんですよ。」
水瀬さんのその言葉が、静かにじんわりと温かく双葉の心に広がる。そうだ、水瀬さんはいつも見ててくれていたんだった。
「何か、気分転換はされていますか。趣味、のようなものでも。息抜きも大切でしょう。」
「本を読むのは好きなのですが、最近は忙しくて全然読めていなくて。」
本当は大好きな作家さんの新作が出たし、仕事の帰り際に本屋さんで面白そうな本をジャケ買いを何冊かしていて。でも読むのが追いつかなくてたくさん家に溜まっていっている。少し気持ちに余裕ができたら、少しずつ読みたいな。トレーナーの仕事に役立つような本も探してみようかな。などと思いを巡らせる。水瀬は一度だけ視線を落とした。
「でしたら」
静かに、鞄に手を伸ばす。取り出されたのは、一冊の本。革のブックカバーがかけられている。それを、そのまま差し出された。
「小説なのですが、仕事の際に参考にしたものです。」
「何冊か揃えた中で、ちょうど一冊読み終わったところなので、よろしければ、お貸ししましょうか」
「……いいんですか?」
「もちろん」
受け取ると、手にしっくりと馴染む感触があった。
「カバーも、素敵ですね」
「ああ、そのカバーは、以前一ノ瀬百貨店でフロアを回っているときに見つけて、手にすごく馴染んだので思わず即決してしまいました。」
淡々とした説明。けれど、どこかだけ柔らかい。
「よろしければ、カバーもお貸しします。」
そう言って、静かに本を言葉を差し出す。断りきれない、絶妙な距離。
「……ありがとうございます」
気づけば、そう答えていた。革の手触りが、やけに印象に残る。
食事が終わって店の外に出る。昼の光が少し眩しい。
「今日は、ありがとうございました。ご馳走になってしまって、すみません。」
「いえ、とても楽しい時間でした。お誘いしたのは私ですので、お気になさらずに。また、お時間が合ったときは、ぜひ、お昼ご一緒しましょう」
何気なく、そう言われる。特別な言い方ではない。それなのに。喜んでいる自分がいる。ごはんだけなら、いいよね。
「……はい。楽しみにしていますね。」
自然と、そう答えていた。話していて心地よかったし、本もお借りしたから返さないといけないし、などと言い訳じみた思いを頭で巡らせながら、また水瀬に会えるのを楽しみにしている自分に、双葉はまだ気づいていなかった。




