EP 10
【新たなる日常】レジ横のペットと、キュウリの味
アルクス城下町に、再び平穏な朝が訪れた。
昨日の夕方、街を消し飛ばすほどの暗黒の雲と瘴気で覆い尽くした巨大怪人の騒動は、今や完全に過去のものとなっていた。
市民たちは「あれはタローソンの新しいアトラクションだったらしい」「店長が消臭スプレーで浄化するマジックショーだったんだろ?」と、すっかり平和ボケ(タローソンへの異常な信頼)した会話を交わしながら、いつも通りの日常を送っている。
そして、その震源地であるタローソンの店内もまた、完璧な清潔さと平穏を取り戻していた。
芳香剤の爽やかな香りが漂うレジカウンターの奥で、店長の佐藤太郎は、コーヒーを啜りながら清々しい表情で新聞(異世界の羊皮紙のタブロイド紙)を広げている。
「ふぅ……。やっぱり、健康な胃腸と綺麗な空気って最高だね。当たり前の日常こそが、一番の幸せってもんだ」
太郎がしみじみと呟くと、隣でレジ打ちの準備をしていたリーザが、「店長が一人でニンニクをバカ食いして、勝手にトイレに籠っていただけではありませんの」とジト目でツッコミを入れた。
「まぁまぁ。結果的に僕の『スッキリ感』が世界を救ったんだから、細かいことは気にしないの。……それより、そっちの『新入社員』の調子はどうだい?」
太郎が顎でしゃくった先。
レジカウンターの一番目立つ場所――普段なら大福やチロルチョコが置かれている特等席に、100均で調達された『特大サイズのプラスチック製昆虫飼育ケース(透明クリアタイプ)』が鎮座していた。
ケースの中には、ふかふかのクヌギのマット(腐葉土)が厚く敷き詰められ、登り木として『カブトムシ用の止まり木』が綺麗に配置されている。さらに、水飲み場兼エサ皿として、葉っぱの形をした可愛らしい小皿までセットされた、まさに至れり尽くせりの『高級物件』であった。
そして、その止まり木の上に、しょんぼりと力なくしがみついている黒い虫――かつて世界を滅ぼすために次元の底からやってきた、アビス怪人の姿があった。
『……ミィィ……。ミィ……』
アビス怪人は、もはや威嚇することすら忘れ、死んだような目でプラスチックの壁越しに外の世界を見つめていた。
昨日の夕方、太郎の放った『100均消臭スプレー(森林の香り)』によって、彼の力の源泉である深淵の瘴気は完全に中和(除菌)されてしまった。
今や彼の体内には、世界を滅ぼすような魔力は一滴たりとも残っていない。ただの、ちょっと背中から触手が生えている、珍しいフォルムのカブトムシ(?)に成り下がってしまったのだ。
「ふふふ。大人しくなりましたわね、この黒光り。昨日の暴れっぷりが嘘のようですわ」
リーザが飼育ケースの蓋をコンコンと指で叩く。
『……やめろ、小娘。俺様にはもう、怒る気力すらないのだ……』
アビス怪人は抗議の言葉を紡ごうとしたが、口から出るのは悲しげな『ミィ……』という鳴き声だけであった。
「よしよし。この子は今日から、タローソンの公式マスコットキャラクター『アビスくん(仮)』として働いてもらいますわ! 昨日のような野外での見世物小屋は危険だと分かりましたから、これからは安全なレジ横で、お客様に愛嬌を振りまいて募金(お賽銭)を集めてもらうという、極めて平和的なビジネスモデルにシフトしましたのよ!」
リーザが虫かごの横に『マスコットのアビスくんです。エサ代のカンパにご協力ください(※強制ではありませんが、払うと私が喜びます)』と書かれた手作りの募金箱を設置する。
『……俺様が、マスコット、だと? 世界の破壊者が、コンビニのレジ横で愛嬌を振りまけというのか……。ふざけるな、いっそひと思いに殺せ……!』
屈辱のあまり、アビス怪人は止まり木から腐葉土の上へとボトリと落ち、丸まってすすり泣いた。
次元の底で、何百年もかけて蓄えた魔力。世界を絶望に染め上げるという、壮大な野望。その全てが、ただの『100均アイテム(殺虫剤と消臭スプレー)』によって無に帰したのだ。
彼の心は、完全にへし折られていた。
「あらら、いじけちゃいましたわ。お腹が空いているのかしら?」
リーザはバックヤードから、お弁当の仕込みの余りである『キュウリの切れ端』を持ってきた。
彼女は飼育ケースの天井の小窓をパカッと開けると、その瑞々しい緑色の野菜を、エサ皿の上へとポイッと投げ入れた。
「ほら、お食べなさい。しっかり栄養をつけてツヤツヤにならないと、お客様からお金を巻き上げられませんわよ」
『……ふん。ふざけるな。俺様は深淵を統べる者。人間の食うような、水分ばかりの安っぽい植物など口にするか……!』
アビス怪人はそっぽを向いた。
昨日、スイカの皮の甘さに感動してしまったという失態を、彼は深く恥じていた。もう二度と、人間の食べ物などに屈しはしない。餓死してでも、破壊神としての最後のプライドを守り抜いてみせる。
そう固く決意した、はずだったのだが。
『……キュルルルルルッ』
またしても、彼のお腹が極めて正直な音を立てて鳴った。
魔力を失い、完全に物理的な肉体(虫サイズ)となってしまった今の彼は、エネルギーを食事から摂取しなければ生きていけない体質に変化していたのである。
しかも、目の前にあるキュウリからは、青臭くも極めてフレッシュで、瑞々しい香りが漂ってくる。
(……一かじり。一かじりだけだ。生命を維持するために、あくまで義務として口にするだけだ……。決して、美味そうだから食べるわけではない……!)
アビス怪人は周囲をキョロキョロと見回し、リーザと太郎がレジ業務に気を取られている隙をついて、そーっとキュウリの切れ端に近づいた。
そして、小さなアゴを開き、その端っこをシャクッ……と齧った。
『…………ッ!!?』
その瞬間。
アビス怪人の全身の細胞に、衝撃的な電流が走った。
『な、なんだこれはぁぁぁっ!?』
パリッとした皮の心地よい歯ごたえ。そして、その中からジュワッと溢れ出す、圧倒的なまでの水分。
スイカのような暴力的な甘さはない。しかし、この『キュウリ』という野菜には、乾ききった体を優しく潤す、清涼感の極みとも言える大自然の恵みが凝縮されていた。
次元の底のヘドロのような環境では絶対に味わうことのできない、透き通るようなみずみずしさ。
『う、美味い……! なんだこの、シャキシャキとした食感は……! 噛めば噛むほど、口の中に清流のような爽やかさが広がっていく……!』
アビス怪人は無我夢中だった。
シャクシャクシャクシャクッ!! と、凄まじいスピードでキュウリの切れ端を貪り食う。
プライドも、世界征服の野望も、もはやどうでもよかった。
今、この瞬間、この美味い緑色の棒を腹一杯に詰め込むこと。それこそが、彼の新たな生きる目的となっていた。
「あははっ! 店長見てくださいませ! あの黒光り、キュウリをものすごい勢いで食べてますわよ! 意外と可愛いところがありますわね!」
リーザが腹を抱えて笑う。
「ホントだ。やっぱり生き物は、美味しいご飯を食べると幸せになるんだよ。……ほら、アビスくん。これも食べな。100均の『昆虫ゼリー(黒糖風味)』だ」
太郎が飼育ケースの小窓から、茶色いゼリーの入った小さなカップを差し入れた。
『……シャクシャク……ん? なんだ、その茶色いプルプルしたものは。……舐めてやろう。ペロッ』
アビス怪人が昆虫ゼリーを一口舐めた瞬間、彼の小さな瞳がカッ! と見開かれた。
黒糖の濃厚な甘みと、ゼリーのツルンとした食感。
キュウリの清涼感からの、この極上のスイーツへのコンボ。
『あまァァァァァァいッ!! なんだこの至高の食べ物は!? 人間どもは、こんな神々のごとき美食を毎日食っているというのか!?』
アビス怪人はゼリーのカップに顔を突っ込み、一心不乱にゼリーを吸い始めた。
もはや、彼の心の中から「憎しみ」や「絶望」といった負の感情は、完全に消え去っていた。
(……世界征服? そんな面倒なことをして、何になるというのだ)
ゼリーを舐めながら、アビス怪人は悟りを開き始めていた。
(ここには、外敵もいない。ふかふかの土がある。そして何より、毎日こんなに美味いものがタダで提供されるのだ。……ならば、俺様はここで『マスコット』として、一生ダラダラと養ってもらう生き方を選ぼう。それが、真の勝者の生き様というものだ!)
世界を滅ぼすはずの破壊神は、こうして完全に牙を抜かれ、『タローソンのペット(ヒモ)』としてのスローライフを心の底から受け入れたのであった。
ウィィィン……。
そこに、タローソンの自動ドアが開く音がした。
「ガーッハッハッハ! 太郎よ、いるか!」
入ってきたのは、巨大な竜王・デュークであった。彼の顔には、昨日と同じような、料理人としての狂気に満ちた笑顔が浮かんでいる。
「おっ、デューク。いらっしゃい」
太郎がレジから顔を上げる。
「うむ! 実はな、昨日の『ニンニクマシマシ豚骨』をさらに改良したのだ! 今度は、ニンニクの量を倍にし、さらに『激辛の魔界唐辛子』をブレンドした、真の――」
「二度と来るなァァァッ!!」
太郎の顔色が一瞬にして夜叉のごとく変わり、彼はレジの下から100均のハリセンを光の速さで引き抜いた。
「バシィィィィィィンッ!!!」
「あべぼぁぁぁっ!?」
太郎の渾身のハリセン・フルスイングがデュークの顔面にクリーンヒットし、三メートルの巨体がタローソンの店舗の外まで綺麗に吹き飛ばされていった。
「いいかデューク! 今後、このタローソンの半径五十メートル以内に『ニンニク』を持ち込むことは、国王権限で固く禁ずる!! 破った奴は、アビスくんと一緒に虫かごの刑だ!!」
太郎の怒号が、平和なアルクスの街に響き渡る。
「ヒィィ……! て、店長、目がマジですわ……!」
リーザがカウンターの隅でガタガタと震え、飼育ケースの中のアビス怪人も、ゼリーを舐める手を止めて『ミィ……』と怯えた声を上げた。
世界を滅ぼす怪人の襲来よりも、致死量のニンニクがもたらしたトラウマの方が、太郎にとってはよほど恐ろしい『深淵』だったのだ。
タローソンの前を通りがかった市民たちが、「今日も平和だな」「店長、元気だね」と笑い合いながら歩いていく。
レジ横では、かつての破壊神がキュウリを齧りながら、そんな平和な光景をケースの中からぼんやりと眺めていた。
強者たちが集い、そして誰もが少しずつ毒気を抜かれていく不思議なコンビニエンスストア。
アルクス城下町の中心にある『タローソン』は、今日も混沌と笑い、そしてほんの少しのニンニクの香りの名残を漂わせながら、異世界に温かい日常を提供し続けているのだった。
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