EP 9
【賢者モード】スッキリした太郎の無双と消臭スプレー
タローソンの店舗前。
空を覆い尽くす暗黒の雲と、周囲の石畳を溶かすほどの禍々しい瘴気を放つ、完全体のアビス怪人。
その巨大な両手の間には、アルクス城下町を跡形もなく消し飛ばす超高圧縮魔力球『深淵の獄炎』が、バチバチと紫色の稲妻を散らしながら臨界点に達しようとしていた。
絶体絶命の危機。
誰もが死を覚悟し、恐怖に顔を歪める中、タローソンの自動ドアから現れた店長・佐藤太郎だけは、全く異なる次元の空気を纏っていた。
「……あー。そよ風が気持ちいい。空って、こんなに青かったんだなぁ」
首にタオルをかけ、100均のサンダルを履いた太郎の顔には、一切の焦りも恐怖もない。
それどころか、彼の瞳はまるで凪いだ水面のように穏やかで、全てを許容するような慈愛に満ちていた。
致死量の『ニンニクマシマシ豚骨』がもたらした地獄の腹痛。数十分にも及ぶ便座の上での孤独な死闘を乗り越え、体内のあらゆる毒素を排出しきった太郎は、今、心身ともに完璧に浄化された状態――すなわち【賢者モード】へと至っていたのである。
『……正気か、貴様。この期に及んで、空の青さだと?』
アビス怪人は、眼下に立つ無防備な人間の姿に、逆に薄気味悪さを感じていた。
先ほどトイレのドア越しに殺虫剤を噴射してきた時は、般若のように顔を真っ赤にして怒り狂っていたはずだ。それがなぜ、今は聖者のような微笑みを浮かべているのか。
『ふん、恐怖で頭がおかしくなったか! ならば、その間抜けな笑顔ごと塵にしてくれるわ! 消え失せろォォォッ!!』
アビス怪人が咆哮と共に、両腕を振り下ろした。
凝縮された『深淵の獄炎』が、轟音を立てて太郎とタローソンに向かって撃ち放たれる。
直撃すれば、店舗はおろか、後方の城壁までが蒸発するであろう必殺の魔法。
しかし、太郎は慌てなかった。
彼は「よっと」と、まるで散歩中に水たまりを避けるような、極めて自然で軽い動作で、半歩だけ右へ横跳びした。
『ズドォォォォォォォォォォォォンッ!!!』
太郎の鼻先わずか数ミリを通過した暗黒の閃光は、タローソンの真横をすり抜け、遥か彼方の無人の荒野に着弾し、巨大なキノコ雲を発生させた。
暴風が吹き荒れ、太郎の前髪と首のタオルがフワリと揺れる。
『な、なにっ!? 今、俺様の最大魔法を……避けた、だと!?』
アビス怪人の目が見開かれる。
「……危ないなぁ。せっかくお腹がスッキリして、最高のリラックスタイムを満喫してるんだから、あんまり大きな音を出さないでくれない?」
太郎はタオルで顔の汗(冷や汗ではない、爽やかな汗だ)を拭きながら、穏やかなトーンで文句を言った。
『ば、バカな……。偶然だ! あのような回避、人間の動体視力と運動神経で可能なはずが――』
「いや、偶然じゃないよ」
太郎は自分の足元をポンポンと叩いた。
「今の僕は、最高に『軽い』んだ。致死量のニンニクチューブ十本分と、胃袋の限界を超えた豚骨スープの質量……その全てを大地の底へ解き放ったことで、僕の肉体はかつてないほどのフェザー級(羽のような軽さ)に仕上がっている。……今の僕には、重力すらただの優しいアドバイスに過ぎない」
『何を言っているのか全く分からんが……舐めるなァァァッ!!』
激昂したアビス怪人が、背中から生える無数の触手を、鞭のようにしならせて一斉に太郎へと放った。
空気を切り裂き、音速で迫る数十本の漆黒の刃。
しかし、太郎の体はまるで柳の枝のように、あるいは風に舞う木の葉のように、ひらり、ひらりと触手の隙間をすり抜けていく。
「シュッ、シュッ! うん、ステップが軽い! 腸内に滞留物がないって、こんなにも素晴らしいことだったんだね!」
太郎はボクサーのように軽快なフットワークで触手を躱し続けながら、健康の尊さを噛み締めていた。
右へ、左へ。時にはバク転まで交えて、アビス怪人の猛攻を完全に無力化していく。
その動きには、一切の無駄も、力みもない。ただ『腹がスッキリしている』という圧倒的な快感が、彼の身体能力を限界突破させていたのだ。
『当たれェェ! なぜ当たらない!? なぜ俺様の触手が、ただのコンビニ店長に触れることすらできないのだァァァ!』
アビス怪人はパニックに陥っていた。
魔王たちの残渣魔力を吸収し、完全体を超えた力を手に入れたはずなのに。眼前のピンク色のオーラ(ただの多幸感)を纏う男には、次元が違うような圧倒的な『差』を見せつけられている。
「……ハァッ、ハァッ……!」
数分間の猛攻の末、魔力を使いすぎたアビス怪人は、肩で息をし始めた。
彼の全身から、疲労と怒り、そして焦りによる『濃密な瘴気』が、黒い汗のようにドロドロと噴き出している。
「あー……。ちょっと、タイム」
太郎が顔をしかめ、鼻をつまんだ。
「君さ、さっきから無駄に暴れ回ってるせいで、変な臭いが出てるよ。ヘドロと生ゴミと、絶望を煮詰めたような……とにかく、ものすごく不快な臭いがする」
『な、なんだと!? これは俺様の深淵の瘴気だ! 貴様らのような下等生物が嗅げば、精神を病み、狂乱するはずの死の香りだぞ!』
「いや、単なる悪臭だよ。……せっかくトイレで芳香剤の匂いに包まれて、心身ともに浄化された気分だったのに。君のその臭いのせいで、僕の『スッキリ感』が台無しだ。……環境(空気)は綺麗に保たないとダメじゃないか」
太郎の顔から、先ほどまでの聖者のような微笑みが消え、代わりに『日常の平穏を乱された小言の多いオジサン』の顔が浮かび上がった。
彼は右手をスッと虚空に伸ばした。
「……消臭の時間だ」
ポンッ! と心地よい音と共に、太郎の手の中に一つのアイテムが召喚された。
それは、真っ白なプラスチックのボトルに、緑色の森のイラストが描かれたスプレー缶。
100均スキルで呼び出した、【トイレの強力消臭スプレー(森林の香り・除菌成分プラス)】であった。
『……っ!? ま、またその謎の筒か! だが、二度も同じ手が通用すると思うなよ! 俺様は今、あの時の極小サイズとは違う! この巨大な質量、霧ごときでどうにかなるものかァァ!』
アビス怪人が両手で太郎を握り潰そうと、巨大な影を落として飛びかかってきた。
しかし、太郎は一歩も引かず、消臭スプレーのノズルを怪人の顔面に向け、トリガーを深く引き絞った。
「悪臭退散。……森の息吹を感じなさい」
『プシューーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!』
スプレー缶から放たれた、細かい霧状の薬剤。
それは、現代日本の化学力が生み出した、悪臭成分を根本から包み込んで無力化する『究極の消臭テクノロジー』の結晶であった。
さらに、100均製品特有の「少し安っぽくて強すぎる合成香料の匂い」が、アルクスの大気を一瞬にして塗り替える。
『ぐ、ぐおおおおおおおおっ!? な、なんだこれは!? 俺様の瘴気が……深淵の魔力が、謎の爽やかな匂いに上書きされていくゥゥゥッ!!』
アビス怪人の巨体が、ピタリと空中で静止した。
彼の放っていた漆黒の瘴気は、消臭スプレーの『森林の香り』と化学反応を起こし、みるみるうちに無害な白い水蒸気へと変わっていく。
悪臭(絶望)を撒き散らすことこそが彼の存在意義であり、力の源であった。その悪臭を完全に中和されるということは、すなわち、彼のアイデンティティそのものの崩壊を意味していた。
『ば、バカな……! 俺様の暗黒の力が……こんな、人工的な作られた森の匂いに……! 浄化されて、しまうぅぅぅ……!』
アビス怪人は、先ほど虫かごを破壊した時と同じように、いや、それ以上のスピードで風船が萎むようにシューーーッと音を立てて小さくなり始めた。
「よし、除菌完了。やっぱり水回りと空気の清潔さは、生活の基本だからね」
太郎がスプレー缶を振って残量を確認している間に、アビス怪人は再び『手のひらサイズの黒い虫(カブトムシ似)』へと逆戻りし、カランカランと音を立てて石畳の上に転がった。
『……ミィィィ……』
もはや威嚇する気力もなく、アビス怪人は弱々しい声を上げて足をピクピクと痙攣させていた。
「ふぅ。さてと」
太郎は小さくなった怪人を指先でヒョイとつまみ上げ、ため息をついた。
その足元では、先ほどの衝撃で気絶していたリーザが、「うぅ……私の、私の見世物小屋が……」と呻きながら目を覚まそうとしている。
「リーザ、大丈夫か? 全く、僕が少しトイレに行ってる間に、とんでもない騒ぎを起こしやがって……」
太郎が呆れながら言うと、リーザはハッと飛び起き、太郎の手にある『黒い虫』を見て目を輝かせた。
「て、店長! それ、私が捕まえた商売道具ですのよ! 返してくださいませ!」
「お前なぁ……。これ、一歩間違えたらタローソンが消し飛んでたんだぞ。まぁいい、これ以上野放しにするのも危ないし、僕がちゃんと『飼育』してやるか」
太郎の言葉に、手のひらの上のアビス怪人がビクッと震えた。
かくして、アルクス城下町を滅亡の危機に陥れた『恐怖のアビス怪人』の反逆は、太郎の「スッキリ感」と「100均消臭スプレー」の前に、完全に粉砕されたのであった。
ニンニクの呪縛から解き放たれ、圧倒的な無双を見せつけた店長。
しかし、このカオスな騒動の結末には、タローソンならではの『平和でマヌケなオチ』が待っていた。
最終話、小さくなった怪人の新たな日常が幕を開ける。
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