EP 8
【怒りの巨大化】アビス怪人の逆襲と、タローソンの危機
アルクス城下町を照らしていた穏やかな太陽が、突如として不気味な赤紫色に染まり始めた。
タローソンの前。ビールケースの上に置かれた『100均のプラスチック製虫かご』の中で、世界を滅ぼすべく次元の底からやってきたアビス怪人は、仰向けに倒れたまま静かに笑い声を漏らしていた。
『……ククク。フハハハハ……!!』
その笑い声は、先ほどまでの甲高い虫の鳴き声(ミーッ!)ではなく、深淵の底から響き渡るような、重く禍々しい重低音のオクターブを取り戻しつつあった。
「あら? あの黒い虫、おもちゃに負けてショックで壊れちゃいましたの?」
売上(銅貨)の計算に夢中になっていたリーザが、訝しげに虫かごを覗き込む。
『愚かな……本当に愚かな下等生物どもめ。俺様を単なる虫けらとして扱い、玩具で蹂躙したこと……それが貴様らの命取りになるとも知らずにな!』
アビス怪人の全身から、先ほどまでとは比べ物にならないほど濃厚な、漆黒の瘴気が噴き出し始めた。
彼が怒りと屈辱に震えながら吸収していたのは、先ほどまでこの場にいた魔王ラスティアと邪神デュアダロスから漏れ出た『神話級の残渣魔力』である。
絶対的な強者特有の、無意識に垂れ流されていた膨大な魔力。それがアビス怪人の極小の体内に流れ込み、太郎の『100均の殺虫剤』によって圧縮されていた細胞と魔力回路を、内側から暴力的にこじ開けていたのだ。
『メキッ……メキキキキキッ!!』
アビス怪人の体から放たれる暗黒のオーラが物理的な質量を持ち、虫かごのプラスチックの壁にヒビを入れ始めた。
「あ、あれ!? ちょ、ちょっと待ちなさい! それは私の大切なドル箱(虫かご)ですわよ! 壊したら弁償……!」
リーザが慌てて手を伸ばそうとした、その瞬間。
『パァァァァァンッッ!!!』
虫かごが内側からのすさまじい圧力に耐えきれず、粉々に爆発した。
飛び散るプラスチックの破片と腐葉土。リーザは「きゃあああっ!」と悲鳴を上げて後方に吹き飛ばされ、タローソンのガラス窓に激突した。
『グオォォォォォォォォォッ!!!』
解放されたアビス怪人の肉体が、瞬く間に膨張していく。
数センチだった体は一気に人間のサイズを超え、二メートル、三メートルと巨大化し、最終的にはタローソンの店舗の屋根を見下ろすほどの、見上げるような巨体(完全体)へと変貌を遂げた。
「な、なんだあれは!?」
「で、でけぇ! 虫が巨大化したぞ!」
「……え? あれってタロー交番の出し物じゃなかったのか!?」
ここまで事態を「ただの交通安全キャンペーン」か「リーザのインチキ見世物」だと思っていたアルクス市民たちも、巨大化したアビス怪人の放つ『本物の殺気』と、空を覆い尽くす暗黒の雲を見て、ついにそれが『真の脅威』であることに気づき始めた。
『フハハハハ! 見よ! これが俺様の真の姿! 次元の底より這い出でし、究極の破壊神の姿だァァァッ!!』
アビス怪人は両腕を天高く突き上げ、歓喜の咆哮を上げた。
かつての力を完全に取り戻した、いや、魔王たちの魔力を吸収したことで、以前よりもさらに強大な力を得ている。
彼の背中から生える無数の触手が蠢き、周囲の石畳が瘴気によってドロドロと溶け始めた。
「うぅ……い、痛いですわ……」
ガラス窓にぶつかったリーザが、フラフラと立ち上がる。彼女の目の前には、圧倒的な絶望をもたらす巨大な怪人の背中があった。
「あ、あんた……! なに勝手に巨大化して、私の営業(見世物)を妨害してますの!? しかも、タローソンの店舗のオーニング(日よけテント)に頭がぶつかって、破れてますわよ! 店長に怒られたらどうするんですの!!」
命の危機だというのに、リーザの頭の中はタローソンの備品の心配と、自分のバイト代の減額のことでいっぱいだった。彼女は店先に立てかけてあった『100均のプラスチックほうき』を手に取ると、巨大なアビス怪人の足首に向かって猛然とダッシュした。
「弁償しなさい! この、特大フンコロガシィィィッ!」
『バシィィィンッ!』
リーザが渾身の力でほうきを振り下ろす。
しかし、アビス怪人の漆黒の甲冑には傷一つ付かず、逆にプラスチックのほうきの方が「ポキッ」と哀れな音を立てて真っ二つに折れてしまった。
『……チッ。五月蠅い羽虫め』
アビス怪人が足首を軽く振るだけで、発生した突風がリーザの体を軽々と吹き飛ばした。
「あべばぁぁぁっ!?」
リーザは再び店舗の壁に激突し、今度こそ完全に目を回して気絶してしまった。
『まずは貴様から血祭りに上げてやろうかと思ったが……いや、違うな』
アビス怪人は、赤く光る凶悪な双眸を、目の前にある青と白の縞模様の店舗――『タローソン』へと向けた。
『諸悪の根源は、このふざけた小屋だ。俺様を管轄外だとたらい回しにし、殺虫剤という謎の霧で俺様の魔力を封じ込め、あまつさえ見世物にするという屈辱を与えた元凶……!』
アビス怪人の脳裏に、便座に座りながら殺虫剤を噴射してきた、あの『太郎』という男の般若のような顔がフラッシュバックする。
『絶対に許さん……! 絶対に許さんぞ、人間どもォォ!! この屈辱、お前たちの命と、この忌まわしき店舗の完全なる破壊をもって晴らしてやる!!』
アビス怪人は大きく息を吸い込み、巨大な両腕をタローソンの店舗へと向けた。
彼の両手の間に、空間そのものを歪めるほどの超高圧縮された暗黒の魔力球が生成され始める。
それは、先ほど虫かごの中で放った静電気のような火花とは違う。街全体を消し炭にする、正真正銘の『深淵の獄炎』のチャージであった。
「ひぃぃぃっ! に、逃げろォォ!」
「タローソンが……街のインフラが吹き飛ばされるぞォォ!」
冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、街中にパニックが広がる。
タロー交番の機動巡査であるライザやフレアたちは、街の反対側をパトロール中で、この急激な事態の変化にまだ駆けつけられていなかった。
巨大な魔力球が、ビリビリと紫色の稲妻を放ちながら限界まで膨れ上がる。
アビス怪人の口角が、残酷な喜びに吊り上がった。
『消え失せろ! 跡形もなく塵となれ! 全ては深淵の底へ――!!』
アビス怪人が、その絶望の破壊光線をタローソンに向けて解き放とうとした、まさにその絶体絶命の瞬間であった。
店舗の奥、STAFF ONLYの扉のさらに奥深くから。
『…………ジャーーーーーーーーーーーーーーーッ。』
と。
極めて機械的で、しかしどこか清涼感のある、大量の水が渦を巻いて流れ落ちる音が、静まり返ったタローソンの店内に響き渡ったのである。
『……あん? なんだ今の音は?』
アビス怪人は、魔力球を構えたままピタリと動きを止めた。
水が流れる音。それは、絶望や恐怖とは対極にある、極めて日常的で『スッキリとした』響きを持っていた。
続いて、バタンとドアが開く音。
そして、キュッ、キュッ、と、手洗いで綺麗に洗われた手をタオルで拭きながら、軽い足取りで歩いてくる足音が近づいてきた。
『……誰だ。誰が来るというのだ』
アビス怪人が警戒心を露わにして店舗の入り口を睨みつける中、自動ドアがウィィィンと開き、一人の男が姿を現した。
「ふぅぅぅ……っ。いやぁ、出た出た。マジで全部出たわ。危うく三途の川の向こう側でお花畑が見えかけたけど、なんとか現世に帰還できたぞ……」
そこに立っていたのは、つい先ほどまで便座の上で地獄の死闘を繰り広げていた店長・佐藤太郎であった。
しかし、今の彼からは、先ほどまでの土気色の顔色や脂汗は完全に消え去っていた。
顔色は極めて健康的なバラ色。
背筋はピンと伸び、その表情には、すべてを乗り越えた者だけが到達できる『完全なる賢者(悟り)』の微笑みが浮かんでいる。
そう、致死量のニンニクによる腸内環境の崩壊という大試練を、タローソンの便座とウォッシュレットの力で完全に乗り越え、体内のすべての毒素を排出しきった太郎は今、無敵の【賢者モード(完全なるスッキリ状態)】に至っていたのである。
「あー、お腹スッキリ。世界が輝いて見えるよ。……ん?」
太郎は首にタオルをかけたまま、店舗の前にそびえ立つ、巨大なアビス怪人を見上げた。
そして、その手に掲げられた巨大な破壊の魔力球を、極めて穏やかな、凪のような瞳で見つめた。
『……き、貴様! 先ほど俺様に謎の霧を吹きかけた店長だな! ちょうどいい、この店舗もろとも、貴様を宇宙の塵にしてくれるわァァァ!』
アビス怪人が咆哮と共に、破壊光線を放とうとする。
しかし太郎は、全く焦る様子もなく、むしろ「あー、ちょっと待って。今、最高に気分がいいから、大きな音とか出さないでくれる?」とでも言いたげな、極めてリラックスした声で呟いた。
圧倒的な絶望(巨大怪人)と、圧倒的なスッキリ感(賢者太郎)。
アルクス城下町の命運を懸けた、最高に理不尽でカオスな最終決戦が、いよいよ幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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