第9話 絵の中のもう一本の線
ひよりが巨大な錨を担いで一歩踏み出したところで、訓練室の端から紬の声が飛んできた。
「二人とも、ちょっと待って。次は一本勝負にしよう」
「一本?」
「どちらかが有効打を入れたら終わり。彩人もかなり動いたし、ひよりもそろそろ休憩した方がいいでしょ?」
ひよりは少し不満そうに口を尖らせたものの、俺の方を見て小さく頷いた。
「分かった。じゃあ、一回だけ」
「俺としては、その錨を振られるのも一回で済ませたいんだけど」
「避ければいいよ!」
「簡単に言うなあ……」
ひよりは黒鉄の錨を肩に担ぎ直した。あれだけの重量があるというのに、構えを変える動作には無駄がない。
俺も槍を握り直し、ひよりと向き合った。
さっきの訓練では、ひよりの逃げ道を考えることで初めて槍を当てられた。けれど、同じ方法がもう一度通用するとは思えない。
実際、ひよりは俺の足元を見ながら、何かを確かめるように小さく身体を揺らしている。
「準備はいい?」
紬の問いかけに、俺たちは頷いた。
「それじゃ、始め!」
合図と同時に、ひよりが踏み込んできた。
肩に担いでいた錨が振り下ろされる。俺は左へ身を引き、黒鉄の爪をやり過ごした。
重い金属が床すれすれを通過し、ひよりの訓練着の裾が勢いに引かれて翻る。
錨を振り抜いた直後。今なら隙があるはずだ。
そう考えて槍を構えたが、ひよりはすでに次の動きに備えていた。俺が一歩踏み出しかけると、彼女も足の向きを変え、こちらへ鎖を向けてくる。
危ない。今のは誘われたのかもしれない。
「……来ないんだ?」
「行ったら何かするつもりだっただろ」
「うん!」
「そこは隠さないんだな……」
ひよりは楽しそうに笑った。
こんなふうに動きを読まれていたら、普通に攻撃しても当たらない。さっきは二度目の突きで予測を外せたけれど、今回はその対策も考えているだろう。
どうする。
そう考えていたところで、ひよりが再び錨を動かした。
「《定錨》!」
黒鉄の塊が、俺の左斜め前でぴたりと止まった。
しかも、床には触れていない。
「……空中でも固定できるのか?」
「うん。固定するのは場所だからね!」
ひよりは錨から手を離し、鎖を左手に持ったまま俺の右斜め前へ移動した。余った鎖が床に垂れ、金属音を立てる。
今度は鎖を使うつもりか。
錨を支点にすれば、鎖で俺の動きを邪魔できる。ひよりは俺がどう動くかを予測するのが得意だ。下手に近づけば、また逃げ道を塞がれるだろう。
「どうする、彩人?」
ひよりは鎖を片手に、こちらの出方を窺っている。
俺は固定された錨へ目を向けた。《定錨》の効果が続いている間、錨本体は動かせない。あの巨大な爪をもう一度振るには、ひよりも固定を解除する必要があるはずだ。
だったら、今はむしろ攻撃のチャンスじゃないか?
鎖は厄介だが、わざわざ近づく必要はない。槍の長さを利用して、ひより本人を狙えばいい。
俺は右手を槍の後端へずらし、前に添えた左手の握りを緩めた。
いつもの構えより不安定になるが、これなら踏み込まなくても穂先を遠くまで伸ばせる。
ひよりの視線が俺の足元から手元へ移った。
「……あれ?」
その声を聞いた瞬間、俺は槍を突き出した。
右手で柄を押し出し、槍を左手の中で滑らせる。踏み込みを警戒していたひよりへ、穂先が一気に迫った。
「わっ!」
ひよりが上体を反らす。
槍先は肩のすぐ横を通り過ぎ、銀白色の髪をわずかに揺らした。
惜しい!
あと少しだった。だが、穂先を限界まで伸ばしたせいで、そこから軌道を変える余裕はない。
俺は槍を引き戻そうとした。
そのとき、ひよりの左手が動いた。
じゃらっ!
「っ!?」
足元で緩んでいた鎖の輪が、ひよりの腕の動きに合わせて弧を描く。
槍を戻して防ごうとしたが、伸ばし切った右腕がまだ元の位置に戻らない。
金属の輪が横から飛んできて、槍を握る俺の右前腕を打った。
「痛っ!」
薄い光の膜が弾ける。
思わず握りが緩み、槍先が床へ下がった。
「そこまで!」
紬の声が訓練室に響いた。
ひよりはすぐに鎖を引き戻し、俺の方へ駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
「ああ、平気。……負けたな」
「うん!」
元気よく頷かれて、思わず苦笑してしまう。
右腕を軽く振って確かめる。衝撃は残っているが、怪我はない。模擬領域がなかったら、こんなものでは済まなかっただろう。
それにしても、今のは完全にやられた。固定された錨は動かない。そこまでは読み通りだった。
けれど、動かないのは錨だけだ。
ひよりには、まだ鎖が残っていた。
「……鎖でも直接殴れるのか」
「もちろん! 錨が動かなくても、鎖は動かせるからね」
「そこまでは分かってたんだけどな。足を止めるのに使うとばかり思ってた」
「うん。だから、彩人が近づいてきたら鎖で邪魔しようと思ってたんだよ」
ひよりはそう言ってから、俺が槍を突き出した位置へ目を向けた。
「でも、近づかずに突いてくるとは思わなかった。あれ、びっくりした!」
「当たらなかったけどな」
「ううん、惜しかったよ! もうちょっと遅かったら当たってたもん」
ひよりは目を輝かせ、自分の手を動かし始めた。どうやら俺の槍の動きを再現しようとしているらしい。
「ねえ、さっきのって、最初から考えてたの?」
「いや、《定錨》を見て思いついた。錨が動かないなら、踏み込まなくても攻撃できるんじゃないかって」
「なるほど……。私は足の動きを見てたから、槍の持ち方が変わったのに気づくのが遅れたんだ」
「それでも避けたじゃないか」
「ぎりぎりだったよ!」
ひよりは嬉しそうに笑った。
自分が負けかけたことより、予想外の攻撃を見られたことの方が嬉しいらしい。
その様子を見ていると、何だか俺まで楽しくなってくる。
「でも、次はちゃんと避けるからね!」
「一回見ただけで?」
「うん!」
「……頼もしい先輩だな」
俺がため息をつくと、ひよりは得意げに胸を張った。
そこへ紬が近づいてきた。
「二人とも、いい勝負だったよ。でも今日はここまでね」
「えー」
「ひより、彩人はまだ訓練を始めたばかりなんだから。これ以上やったら、明日動けなくなっちゃうでしょ?」
紬にそう言われ、ひよりは少し考えたあと、渋々頷いた。
「……分かった」
そして、固定された錨へ向き直る。
「《定錨》解除」
宙に浮かんでいた黒鉄の塊が動き出す前に、ひよりは武装を消した。鎖も一緒に姿を消し、訓練室に静けさが戻る。
「じゃあ、次はいつ?」
「もう次の予定を決めるのかよ」
「だって、次はもっと強くなってるかもしれないでしょ?」
ひよりの灰青色の瞳は、期待でいっぱいだった。
俺は思わず笑った。
今日の一本勝負は負けた。それでも、ひよりの動きを見て、自分なりに攻撃の方法を考えられた。
その考えが通用しかけたことも、今までなら気づかなかった攻撃で負けたことも、無駄にはしたくない。
「ああ。また練習しよう」
「約束ね!」
ひよりが差し出した拳に、俺も軽く拳を合わせた。
◇
「それで、槍の話!」
協会の休憩スペースへ移動し、飲み物を買って席に着くなり、ひよりが身を乗り出してきた。
「覚えてたのか」
「忘れるわけないじゃん!」
ひよりはメロンソーダの入った紙コップを机へ置いた。まだ一口も飲んでいない。
隣に座った紬が、その様子を見て笑っている。
「彩人、見せてあげたら?」
「ああ、そうだな」
俺はスマートフォンを取り出し、保存してあった絵の画像を開いた。
パオロ・ウッチェロの《聖ゲオルギウスと竜》。
鎧を着た騎士が竜へ槍を突き出し、その傍らには姫君が立っている。背景には洞窟や独特な形の雲が描かれ、現実の風景とは少し違う、不思議な奥行きのある絵だ。
「これが、俺の槍の元になった絵だよ」
「……これ?」
「うん。騎士が持ってる槍を、《武装抽出》で取り出したんだ」
「へえ……!」
ひよりは画面に顔を近づけ、騎士の槍をじっと見つめた。
「じゃあ、別の絵でもできるの?」
「どうだろう。今のところ、この絵からしか取り出せてないんだ」
「剣が描いてあったら剣?」
「そういうこともできたら面白いけど、別の絵も登録できるのかは分からないな」
「弓なら弓? じゃあ、大砲は?」
「……大砲?」
思いがけない質問に、俺は言葉を詰まらせた。
確かに、大砲が描かれた絵はある。けれど、それを武器として取り出せるのかどうか、考えたこともなかった。
「それは、わからないな」
「じゃあ、試してみないとね!」
「いや、そんな簡単に言われても……」
俺が困っていると、紬が横から口を挟んだ。
「大砲なんて出せたとしても、彩人一人じゃ持てないんじゃない?」
「それもそうだな。弾がどうなるかも分からないし」
「大丈夫! 私の錨だって大きいよ!」
「ひよりと俺じゃ職業が違うだろ」
そう説明すると、ひよりは少し考え込んだ。
「……じゃあ、大砲は後回しだね」
「後回しにはするんだな」
思わず笑ってしまう。
ひよりは真剣な顔のまま頷くと、再び画面へ視線を戻した。
「そうだ。《竜穿》って、どうやって使えるようになったの?」
「ああ。レッサードレイクと戦ったときに解放されたんだ」
俺は多摩第一迷宮での戦いを簡単に説明した。
本来なら第一階層に出現しないはずのレッサードレイクと遭遇したこと。硬い鱗に槍を阻まれたこと。そして、紬と協力して戦う途中で《竜穿》が使えるようになったこと。
ひよりは口を挟まず、じっと話を聞いていた。
「じゃあ、最初は貫けなかった鱗を、途中から貫けるようになったんだね」
「そういうこと。たぶん、この絵が竜退治を題材にしてるのと関係があると思う」
「ふうん……。じゃあ、もっと絵のことを知ったら、また何かできるようになるのかな?」
「可能性はあると思う。まだ《固有効果》っていう項目も未解放のままだしな」
「固有効果……」
ひよりはその言葉を繰り返してから、もう一度スマートフォンを覗き込んだ。
しばらく黙って絵を眺めていたが、やがて画面の左側を指差した。
「ねえ、この女の人は何してるの?」
「姫君だな。聖ゲオルギウスの伝説では、竜の生贄にされそうになった人だよ」
「助けられる人?」
「そう。騎士が竜を退治して助けるって話だな」
「でも、この人、竜を繋いでるよね?」
「……ん?」
俺は画面を見直した。
姫君の手には細い紐のようなものが握られていて、その先は竜の首元へ繋がっている。
もちろん、その紐の存在は知っていた。作品について調べたときにも見ていたし、何度も眺めているうちに自然と目に入っていた部分だ。
けれど、今まで深く考えたことはなかった。
「これ、私の鎖とちょっと似てる」
ひよりは片手を持ち上げ、見えない鎖を引くような仕草をした。
「こうやって繋がってたら、竜が動こうとしても邪魔になるでしょ? 私だったら、これを使って動ける場所を減らすかな」
「……動ける場所を減らす?」
「うん。さっきも彩人の動きを邪魔しようとしたでしょ。全部止められなくても、動ける方向が減れば予測しやすくなるんだよ」
ひよりは当たり前のように言った。
けれど、俺はすぐには返事ができなかった。
もう一度、絵の中の姫君へ目を向ける。
俺はずっと、姫君を助けられる側の人間として見ていた。
竜を倒すのは騎士であり、そのために使う槍こそが、この絵で最も重要なものだと思っていたのだ。
でも、もし姫君の持つ紐にも、戦いの中で何らかの意味があるとしたら。
騎士は本当に、一人だけで竜と戦っているのだろうか。
「……この人も、竜と戦ってるのかな」
「どうだろうね。私はこの紐、気になるけど」
ひよりは画面に顔を近づけ、姫君の手元をじっと見つめていた。
もちろん、絵に描かれた紐が実際に竜の動きを制限しているとは限らない。伝説の中での役割や、当時の絵画表現については、もう一度調べる必要があるだろう。
けれど、今まで考えもしなかった見方だった。
「……紬はどう思う?」
俺がスマートフォンを向けると、紬は少し意外そうな顔をした。
「私?」
「うん。この絵を見て、何か気になるところある?」
紬は画面を受け取り、しばらく眺めていた。
「そうだなあ……私は、騎士と竜の距離かな」
「距離?」
「うん。槍が届くところまで近づいてるけど、竜が暴れたら騎士だって危ないでしょ? だから、どうやってここまで近づいたのかなって思う」
紬は画面の中の騎士を指した。
「もちろん、絵だから実際の戦闘とは違うだろうけどね。でも、もしひよりの言った紐が竜の動きを制限しているなら、騎士も攻撃しやすくなると思う」
「……なるほど」
俺は思わず頷いた。
ひよりが見たのは、竜に繋がる紐。
紬が見たのは、騎士が槍を届かせるまでの距離。
そして俺は、騎士の持つ槍ばかり見ていた。
同じ絵を見ているはずなのに、それぞれ気になる場所が違う。
俺一人では思いつかなかった見方だった。
「……なんか、面白いな」
思わず呟くと、ひよりが顔を上げた。
「何が?」
「俺、今までこの絵のことを結構調べたつもりだったんだ。作者とか、描かれた時代とか、題材になった伝説とかさ。でも、今日二人が言ったことは、ほとんど考えてなかった」
「じゃあ、もっといろんな人に見てもらえばいいんじゃない?」
「それもありかもしれないな」
俺はスマートフォンを受け取り、もう一度絵の全体を眺めた。
騎士がいて、竜がいて、姫君がいる。
槍を突き出す騎士の前に竜がいて、その竜には姫君の持つ紐が繋がっている。
今までは一つ一つの人物や武器を別々に見ていたが、それぞれがどう関わっているのかを考えると、少し違った絵に見えてきた。
そこで、さっきの訓練を思い出した。
ひよりに初めて槍を当てたとき、俺は相手の身体を追いかけるのをやめた。最初の突きで逃げる方向を絞り、二度目の突きを当てたのだ。
そして今日、ひよりは錨を固定し、鎖で俺の動きを制限しようとした。
どちらも、ただ攻撃するだけではなかった。
どうすれば攻撃を相手に届かせられるのか。そのために相手の動きをどう誘導し、何をしておけばいいのか。
俺はもう一度、騎士の槍に目を向けた。
もし、あの紐が竜の動きを制限しているなら。
騎士が槍を突き出した瞬間には、もう勝負の大部分が決まっていたのかもしれない。
「……そっか」
小さく呟くと、ひよりがすぐに反応した。
「何か分かった?」
「まだ分かったってほどじゃないけど、さっきの訓練と少し似てるなって思ったんだ」
「訓練?」
「うん。俺が初めてひよりに槍を当てたとき、逃げ道を考えただろ。あの絵でも、騎士がどうやって槍を当てたのか考えられるんじゃないかって」
ひよりは目を輝かせ、紬の方を振り返った。
「ねえ、やっぱり似てるでしょ?」
「うん。でも、ひよりの鎖と絵の紐が同じ使い方をされてるかどうかは、ちゃんと調べないとね」
「分かってるよ!」
ひよりは不満そうに答えたものの、すぐに画面へ視線を戻した。
俺も騎士の槍から姫君へ、そして竜へと視線を動かした。
ただ槍を持った騎士が竜を倒している絵だと思っていた。
けれど今は、その周囲に描かれたものまで気になって仕方がない。
誰が何を持ち、どこに立ち、何と繋がっているのか。
その配置を考えていると、今まで知識として覚えていたことが、今日の訓練で経験した動きと重なっていった。
そのときだった。
視界の端に、淡い光が浮かんだ。
《作品理解度が上昇しました》
「……え?」
俺は思わず顔を上げた。
「彩人?」
紬が不思議そうに首を傾げる。
「ちょっと待って。今、何か表示が……」
慌てて自分の状態を確認すると、見慣れた文字が視界に現れた。
【登録作品:《聖ゲオルギウスと竜》】
【作品理解度:16】
【武装特性:《竜穿》】
【固有効果:未解放】
「……上がった」
「何が?」
「作品理解度。十五だったのが、十六になってる!」
自分でも思った以上に声が大きくなった。
ひよりが勢いよく立ち上がり、紙コップの中のメロンソーダが小さく揺れる。
「本当!?」
「ああ! ほら、ここに……って、俺以外には見えないんだったな」
「今の話で上がったの?」
「たぶん。少なくとも、さっきまでは十五だった」
俺はもう一度表示を確かめた。
《竜穿》はそのままで、《固有効果》にも変化はない。それでも作品理解度の数値だけは、確かに一つ増えていた。
思わず頬が緩む。
新しい資料を読んだわけでも、魔物を倒したわけでもない。二人の話を聞き、訓練で経験したことと結びつけて絵を考え直しただけだ。
それで本当に、作品理解度が上がった。
「やった!」
ひよりが両手を上げる。
「私、役に立った!」
「いや、紬もいたけどな」
「でも、最初に紐を見つけたのは私だよ!」
「分かった分かった。ありがとな」
そう答えると、ひよりは満足そうに笑った。
紬も嬉しそうにしていたが、すぐに俺のスマートフォンを覗き込んできた。
「それで、何か新しい能力は増えたの?」
「いや、そこは変わってない。《固有効果》も未解放のままだ」
「そっか。でも、進歩はあったんだね」
「ああ。まだ何ができるようになるのかは分からないけどな」
俺がそう答えると、ひよりがすかさず身を乗り出してきた。
「じゃあ、次はもっと上げよう!」
「そんな簡単に上がるかは分からないぞ」
「分からないなら試してみないと!」
ひよりは椅子を寄せ、俺のスマートフォンを覗き込んだ。
「ほかの絵も見せて!」
「ちょっと待て。今日はもうかなり疲れてるんだけど」
「見るだけなら疲れないよ?」
「俺の頭は疲れるんだよ……」
紬が声を出して笑った。
「ひより、彩人にも休ませてあげて。それに、そろそろ帰る時間でしょ?」
「……分かった」
ひよりは渋々椅子を戻し、残っていたメロンソーダを飲み始めた。
俺はスマートフォンを伏せ、飲み物を口に運んだ。
絵について知っていることと、その意味を自分なりに理解していることは、必ずしも同じじゃない。
今日、ひよりと紬が教えてくれたのは、俺が見落としていた絵の中の関係だった。
なら、ほかにも何かあるのだろうか。
俺はもう一度、状態表示を開いた。
《固有効果:未解放》。
その文字は、まだ変わっていない。
けれど、絵の中で見つけた一本の紐が、いつか俺の槍にも新しい意味を与えてくれるような気がした。
◇
協会を出る頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
ひよりとは建物の前で別れ、俺と紬は駅へ向かって歩いていた。別れ際まで「次はいつ練習するの?」と聞かれたが、紬が予定を確認してから連絡すると約束すると、ようやく納得してくれたらしい。
「ひより、すごかったな」
俺が言うと、紬は隣で頷いた。
「でしょ? あの子、普段は大人しいんだけどね」
「戦ってるときは別人みたいだった。錨を振り回すし、こっちの動きは読んでくるし……。七年も練習してるって聞いてたけど、正直ここまでとは思わなかった」
「ひよりも、彩人があんなに早く動きを変えるとは思ってなかったみたいだよ。最後の槍の突き方、結構驚いてたでしょ?」
「あれは思いつきで試しただけだけどな。結局当たらなかったし」
「でも、自分で考えて試したんでしょ? それなら十分意味があったと思う」
紬はそう言って笑ったあと、俺の方をちらりと見た。
「ただし、今日はもう休むこと。まだ訓練を始めたばかりなんだから、無理しないでね」
「分かってるよ」
「彩人の『分かってる』は、あんまり信用できないんだよね」
「まだ一緒に探索するようになって数日だろ」
「その短い間に、どれだけ無茶したと思ってるの?」
言い返そうとして、レッサードレイクとの戦いを思い出した。
初めて迷宮へ入ったばかりなのに、本来なら現れないはずの魔物と戦うことになった。紬がいなければ、まともに抵抗することすらできなかったかもしれない。
「……反省はしてる」
「だったらいいけど」
紬は少しだけ笑った。
そのとき、協会の出入口から数人の探索者が出てくるのが見えた。
三人組だったが、そのうち一人は両脇から肩を支えられていた。片脚を引きずり、破れた袖から覗く腕には包帯が巻かれている。
隣の仲間が何か声をかけても、怪我をした探索者は俯いたまま、力なく頷くだけだった。
俺が思わず足を止めると、紬もそちらへ目を向けた。
「……怪我人か」
「みたいだね」
三人は俺たちの横を通り過ぎ、そのまま駅とは反対の方向へ歩いていった。
さっきまで訓練室で笑っていた俺たちとは違い、あの三人からは誰の笑い声も聞こえなかった。
「探索者って、やっぱり怪我する人も多いんだな」
「うん。どれだけ準備してても、事故が起きることはあるよ」
紬は前を向いたまま続けた。
「……怪我で済まないこともあるしね」
その声は、さっきまでより少し静かだった。
探索者が命を落とすことは知っている。協会の初心者講習でも説明されたし、ニュースで死亡事故が報じられることもある。
けれど、実際に迷宮へ入るまでは、どこか他人事として受け止めていた。
レッサードレイクの鋭い爪も、口の奥に見えた熱も、まだ覚えている。
あのとき少しでも判断を間違えていたら、俺たちだって無事では済まなかったかもしれない。
「……気をつけないとな」
「うん。迷宮は、強い人でも死ぬことがある場所だから」
紬はそこでようやく俺を見た。
「だから、ちゃんと準備して帰ってくることが大事なんだと思う。彩人にも、そこは覚えておいてほしいな」
「ああ。分かってる」
今度は冗談を言う気にはならなかった。
俺が頷くと、紬は少し安心したように笑い、スマートフォンを取り出した。
「それで、多摩第一迷宮のことなんだけど」
「ああ。調査はどうなってる?」
「まだ閉鎖中。今日も協会から通知が来てたよ」
紬が画面を見せてくれる。
そこには、多摩第一迷宮の立ち入り制限が継続されることと、異常発生の原因について調査が進められていることが書かれていた。
レッサードレイクがなぜ第一階層に現れたのかは、まだ分かっていないらしい。
「そっか……。じゃあ、しばらくは入れそうにないな」
「うん。でも、別の迷宮なら行けるよ」
「別の?」
「近場にも初心者が入れる迷宮はいくつかあるし、次は違う環境のところもいいかもしれないね」
紬が協会の迷宮一覧を開くと、画面にはいくつもの写真が並んでいた。森林、岩場、洞窟、石造りの回廊など、場所によって内部の様子はかなり違うらしい。
俺が興味を示したのは、細長い石造りの通路が写った写真だった。
「ここ、迷宮の中なのか?」
「そうだよ。初心者向けの階層もあるけど、場所によっては通路が狭いんだって」
「……槍だと戦いにくそうだな」
「うん。でも、今日ひよりに教わったことが役に立つかもしれないでしょ?」
俺は画面をじっと見た。
多摩第一迷宮は森だったから、槍を構えて相手との距離を取ることができた。けれど、壁に囲まれた通路ではそうはいかない。
長い武器は壁に当たるかもしれないし、敵に接近されても十分に下がれない可能性がある。
それでも、今日の訓練では槍の握り方を変えることで、攻撃の届く距離を調整できた。
周囲に壁があるなら、それを利用して敵の動きを制限することもできるかもしれない。
「……面白そうだな」
俺が呟くと、紬は少し呆れた顔になった。
「やっぱりそう言うと思った」
「だって、森とは全然違うんだろ? どんな魔物がいるのかも気になるし」
「そうだけど、面白そうだからって奥まで行っちゃ駄目だからね。まずは情報を調べて、安全に探索できる範囲を決めないと」
「分かってるって」
「本当に?」
「……ちゃんと調べます」
「よろしい」
紬は満足そうに頷くと、スマートフォンをしまった。
「じゃあ、詳しいことは明日学校で相談しよっか。今日はとにかく休んで」
「ああ、頼む」
俺たちは再び駅へ向かって歩き始めた。
夕焼けの中、街にはいつも通りの人の流れがあった。学生が友人と笑いながら歩き、仕事帰りらしい人たちが駅へ急いでいる。
俺も、つい数日前まではそんな世界と無縁だった。
実際に魔物と戦い、迷宮の危険を知った今でも、知らないことの方がずっと多い。
今日ひよりと戦って、一本の槍にもいくつもの使い方があると分かった。絵を見直したことで《作品理解度》も上がり、今まで気にしていなかった部分に目を向けるきっかけまでできた。
もちろん、それだけで急に強くなれるわけじゃない。次の迷宮で失敗すれば、ひよりとの訓練のように笑ってやり直すこともできないだろう。
それでも、あの石造りの通路で槍を構えたらどうなるのか、考えずにはいられなかった。
「彩人、また何か考えてる?」
隣を歩く紬が、俺の顔を覗き込んできた。
「ああ。次の迷宮で、槍をどう使おうかって」
「もう? まだ行くって決めたわけでもないのに」
「だって、考えるだけなら今でもできるだろ」
俺がそう答えると、紬は少し驚いた顔をしたあと、楽しそうに笑った。
「……ほんと、ひよりと似てるね」
「それ、今日何回目だよ」
「何回言っても足りないくらい」
紬が笑うので、俺もつられて笑ってしまった。
駅へ続く道の先には、夕焼けに染まった街が広がっている。
俺は鞄へ目を落とし、スマートフォンに保存したあの絵を思い浮かべた。
騎士と、竜と、姫君。
何度も見たはずの絵なのに、今日になって新しい見方ができた。
これからもっと経験を積めば、今は気づいていないものも見つかるのだろうか。
その一方で、帰り際に見かけた怪我人の姿も、まだ頭から離れなかった。
新しいことを知りたい。
そのためには、まず生きて帰らなければならない。
そんな当たり前のことを、俺はようやく少しだけ実感し始めていた。




