↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

第8話 予測の外側

 ひよりは《定錨》で固定した黒鉄の錨から鎖を引き出し、俺の後ろへ二メートルほど横一文字に這わせた。


「ここから出ないで」


「この線より後ろに下がるなってこと?」


「うん。前と横は使っていいよ」


 俺が鎖の位置を確認している間に、ひよりは三メートルほど前まで歩いていった。こちらへ向き直ると、両腕を自然に下ろしたまま立ち、俺が槍を構えるのを待っている。


 後ろへ下がれないなら、今いる場所でどう足を運ぶかが重要になる。もっとも、さっきの三回は後ろへ逃げる以前の問題だったので、まずは槍を突いたあとに姿勢を崩さないことから始めた方がよさそうだ。


「じゃあ、行くぞ」


「うん。当ててね」


「さっき全部避けたやつが、ずいぶん簡単に言うなあ」


「だから練習するんでしょ?」


 ひよりは靴の先で床を二度ほど擦り、立ち位置を確かめた。さっきまで俺の動きを細かく指摘していたくせに、本人はこれといった構えも取っていない。余裕というより、俺がどう動くのか観察することを優先しているようだった。


 俺は右足を少し引き、初心者講習で教わった構えを取った。昨日から残っている筋肉痛が太腿に鈍く響くが、動くこと自体に問題はない。


 一歩踏み込み、ひよりの胸元へ槍を突き出す。


 ひよりは穂先が届くより早く右へ半歩ずれた。俺も反射的に槍をそちらへ向けたが、腕だけで軌道を変えようとしたせいで腰が遅れ、踏み込んだ足まで外へ流れてしまう。


「槍だけで追ってる」


「分かってる」


「分かってても、またやってるよ」


「それ今言う必要ある?」


「ある。直ってないから」


 俺が槍を戻す間も、ひよりの視線は足元に向いたままだった。言い方に遠慮はないけれど、単にからかっているわけではなさそうだ。


 もう一度構え直し、今度は槍先ではなくひよりの腰を意識してみる。


 踏み込んだ瞬間、ひよりの腰がわずかに左へ動いた。そちらへ避けると思って槍先を寄せたものの、ひよりはその場に残ったまま、俺の槍が何もない場所へ伸びるのを眺めていた。


「……今、左に行く感じ出しただろ」


「出してないよ」


「腰が動いたじゃん」


「腰が動いたのと、左へ行くのは別」


 ひよりは自分の腰を小さく左右へ揺らしてみせた。どこか得意げなその動きがおかしかったのか、入口近くで見ていた紬が吹き出す。


「紬、笑ってるだろ」


「ごめん。ひよりがそんな実演するの、珍しくて」


「必要だからやっただけ」


 ひよりは少し唇を尖らせ、今度は俺の右脚を指した。


「彩人は全部を同じくらい見ようとしてる。でも今なら、そこを見るだけでも結構分かるよ」


「筋肉痛だから?」


「それもある。右に強く踏めないから、できる動きが減ってる」


 ひよりは自分の足を動かしながら説明を続けた。


「右へ大きく踏み込めない。後ろには鎖がある。槍は長いから、近くに入られたら向きを変えるのも大変。そういうのを一個ずつ足していくと、彩人が動ける場所が少なくなるの」


 話しているうちに、ひよりの声が少し速くなっていた。最初に会ったときは必要最低限のことしか話さなかったのに、今は聞いてもいないことまで説明してくれる。


「ひより、こういう話になると結構喋るんだな」


「……普通だけど」


「いや、さっきより明らかに楽しそうだぞ」


「気のせい」


「昔からそうだよ。戦いの話になると急に――」


「紬」


「はいはい、黙ります」


 紬が笑いながら両手を上げると、ひよりは満足したらしい。俺へ向き直って、早く続きを始めようとばかりに手招きしてきた。


 その仕草は年相応なのに、槍を構えるとまたじっと見られる。どうにも調子が狂う相手だった。


 今度はひよりの身体ばかり追わず、自分が次に動ける状態を残すことを意識した。最初から腕を伸ばし切らず、踏み込みも深くしすぎない。ひよりが左へ避けたところで無理に追うのをやめ、槍を引きながら姿勢を戻す。


「今のはいい」


「当たってないけど?」


「でも、次がある。さっきまでは外されたら身体が伸び切ってたけど、今ならもう一回突けるよ」


 ひよりが俺の足元を指す。確かに最初の一撃で何が何でも当てようとすると、腕も足も限界まで伸ばしてしまう。外された瞬間には次に動くための余裕がなく、相手がどこにいるか分かっていても追いつけない。


 逆に、外される可能性を考えて動けば、槍を引くのも早いし、もう一度踏み込める。


 その意識で何度か繰り返しているうちに、姿勢を崩さず槍を戻せる回数も増えてきた。ただ、ひよりに当たる気配はまるでない。


 俺が無茶に追わなくなると、ひよりも大きく避けなくなったからだ。半歩だけ横へ動き、時には上体を傾けるだけで穂先を外してしまう。俺が次の一撃を出す頃には、もう別の場所へ移っている。


「……これ、追いかけ続けても一生当たらないんじゃないか?」


「追うだけなら、ずっと後手だよ」


「じゃあどうすればいいんだ?」


 ひよりは答えず、俺の構えを眺めていた。何か言ってくれるのかと思って待ってみたものの、視線が肩から足元へ移るばかりでいつまで経っても返事がない。


「教える気ある?」


「あるよ。でも答えを先に言ったら、彩人が分かったことにならないでしょ」


「十三歳に教育方針を語られるとは……」


「年齢関係ないもん」


 むっとしたらしく、ひよりの眉がわずかに寄った。そこは譲れないらしい。だが、俺の足元や背後の鎖へ向ける視線は変わらなかった。


 そこでようやく、俺もひより本人だけではなく、その周りを見る気になった。


 今まで俺はひよりの身体しか見ていなかった。胸を狙い、避けられればその動きを追う。けれどひよりは、俺の足も槍も、後ろの鎖まで見ている。そこにあるもの全部から、俺が次に何をできるのか考えているのだ。


 だったら、俺もひよりの身体だけを狙い続ける必要はないんじゃないか。


「……ひより、もう一回」


「いいよ。何か思いついた?」


「まだ秘密」


「その顔、何か考えた顔だ」


「人の顔まで読むなよ」


 ひよりは少し楽しそうに笑ったものの、それ以上は聞いてこなかった。むしろ答えを待っていたみたいに姿勢を整え、俺がどう動くのかじっと観察している。


 槍を構え直した俺は、今度はひよりの胸の中心を狙わなかった。


 向けたのは彼女の左肩、俺から見て少し右寄りの位置だ。そこへ槍を突けば、ひよりは俺から見て右側へ避けにくくなる。これまでの動きを見る限り、ひよりは必要以上に大きく移動しない。なら、反対側へ半歩ずれる可能性が高い。


 一歩踏み込み、槍を突き出した。


 避けなければ左肩へ当たる軌道だが、今回は腕を伸ばし切らず、そのあとに動ける姿勢を残しておく。


 予想した通り、ひよりは俺から見て左側へ身体をずらした。彼女の右足が床を捉え、体重がそちらへ移る。


 今までなら、その動きを見てから慌てて槍を追わせていただろう。けれど今回は、最初の突きで腕も腰も伸ばし切っていない。槍を引き戻しながら姿勢を整え、残していた前足へもう一度体重を乗せる。


 そのとき、ひよりの目がわずかに見開かれた。


「あっ」


 何を狙っているのか、途中で気づいたらしい。


 しかし、ひよりはもう右足へ体重を移してしまっている。反対へ戻るには動きを止めてから踏み直さなければならず、その前に俺は、彼女が移動した位置へ二度目の槍を突き出した。


 穂先が右肩へ触れた瞬間、薄い光の膜が弾ける。手元へ返ってくるはずだった衝撃は途中で急に弱まり、槍はひよりの服を貫くことなく、その肩を軽く押したところで止まった。


「当たった!」


 最初に声を上げたのは、俺ではなくひよりだった。


「……なんで当てられた方が先に喜んでるんだよ」


「今のいい! もう一回やって!」


 ひよりは俺の返事を待たず、さっき自分が立っていた場所まで戻っていった。そこから右足を一歩動かし、俺が二度目の突きを出した方向を確かめるように身体をひねっている。


「最初から二回目を狙ってた? それとも、私が動いてから考えた?」


「最初から反対側へ避けると思ってた。右側を狙えば、空いてる反対によけるだろ」


「うん、最小限の動きで避けるなら反対方向が一番いいからね。でも、彩人が槍を引いたところで分かったんだよね」


 ひよりは自分の右足を見下ろし、靴底で床を軽く鳴らした。


「でも、もうこっち避けちゃってた。反対へ戻るには踏み直さないといけないから、間に合わなかった」


「なるほどな。……ところで肩、大丈夫か?」


「ちょっと痛い。でも今の好き」


 ひよりは肩をさすりながらも、嬉しそうな顔を隠そうとしなかった。俺が心配しているのに気づくと、腕をぐるりと回して問題ないところを見せてくる。


「ほら、大丈夫。次はちゃんと避けるから!」


「いや、俺にも一回くらい喜ばせてくれない?」


 入口側から紬の笑い声が聞こえた。


「出たね、ひよりのそれ」


「何が?」


「予想外のことされると急に元気になるやつ。さっきまであんなに静かだったのに」


「静かだったのは、まだ彩人がどう動くか分からなかったから」


「今は分かった?」


「ちょっと分かった。でも分からないところが増えた!」


 ひよりは俺の槍を指したあと、また自分の足元を見た。どうやらさっきの一撃を頭の中で何度も再現しているらしい。


「次はどう来るんだろう。同じことする? それとも変える?」


「まだ俺にも分からないって」


「じゃあ、考えて!」


「さっきから要求がどんどん増えてるな……」


 思わず笑ってしまう。


 さっき初めて会ったときは、口数の少ない不思議な少女だと思っていた。ところが今は、興味のあるものを見つけて夢中になっている、普通の十三歳の女の子にも見える。


「ひよりって、予測を外されても悔しくないのか?」


 気になって聞いてみると、ひよりは少し首を傾げた。


「悔しいときもあるよ。でも、なんで外れたのか知りたくなる方が大きいかな」


「それは分かる気がする」


「彩人も?」


「俺も分からないものを見つけると、試したくなるから。なんでそうなるのか分かったら、別の使い方もできるかもしれないだろ」


 ひよりの表情がぱっと明るくなった。


「じゃあ同じだ!」


「まあ、たぶん近いんだろうな」


 俺の場合は《画装士》の能力がそうさせるところもある。絵を調べれば《作品理解度》が上がり、実際にその武器で戦うことで新しい特性が目覚める。昨日のレッサードレイク戦がまさにそうだった。


 紬が俺たちを交互に見て、少し呆れた顔をした。


「なんか、似た者同士を会わせちゃったかも」


「俺はあそこまではしゃがないぞ」


「彩人も昨日、《竜穿》の話をしてたとき、結構似た顔してたよ」


「……俺、そんな顔してたか?」


「してたよ。今のひよりとそっくり」


 紬が笑う横で、ひよりが不思議そうに首を傾げた。


「《竜穿》って?」


「ああ、俺の槍に付いてる特性だよ。昨日、戦ってるときに使えるようになったんだ」


「戦ってるときに? どうして?」


 ひよりが一歩近づいてくる。さっきまで俺を見ていた視線が、今度は槍へ釘付けになっていた。


「その槍、最初から持ってたわけじゃないんでしょ? どうやって特性が増えたの?」


「それが分かれば俺も苦労しないんだけどな。たぶん、絵のことを理解するのが関係してると思う」


「絵?」


「この槍、絵から取り出した武器なんだよ。詳しく話すと長いけど」


「聞きたい!」


 即答だった。


 ひよりはさらに一歩近づこうとしたが、紬に肩を軽く押さえられた。


「ひより、その話は練習が終わってからにしようか」


「……あとで聞いてもいい?」


「もちろん。俺も誰かに話したかったし」


 そう答えると、ひよりは満足したらしい。けれど槍から目を離すまでには、少し時間がかかった。


 俺はそんなひよりを見ながら、さっきの攻撃を思い返す。

 速くなったわけでも、急に槍の扱いが上達したわけでもない。ただ、一撃目の意味を変えただけだった。


 槍を突き出せば、相手はそこを避けようとする。ならば、この長さそのものが相手の動きを制限する武器にもなるはずだ。


「これ、紬の《境界線》にも少し似てるよな」


「うん。考え方は近いかもね。私は境界を作って相手が通りにくい場所を増やすけど、彩人は槍でそれをやったんだと思う」


「私は、そのあとに残った道を見る」


 ひよりが続けたので、俺は彼女へ向き直った。


「それも《航海士》のスキルなのか?」


「うん! 《航路演算》っていうの」


 ひよりは床へしゃがみ込み、指で俺たちが立っていた位置を示した。さっきまでの動きを再現したくて仕方ないらしく、説明しながら何度も指を動かしている。


「人の向きとか重心、武器の長さ、障害物とかを見て、次に通りやすいところを予測するの。でも予測するだけだから、選択肢がいっぱいあると外れることもあるし、動く先が分かっても、身体が間に合わなかったら避けられない」


「未来予知じゃないんだな」


「未来が全部分かったら、練習する意味なくなっちゃうよ。分からないから面白いんでしょ?」


 ひよりは顔を上げると、俺の返事を待つように首を傾げた。言われてみれば確かにそうで、俺も自然と頷いていた。


「じゃあ、さっき当てられたのは、ひよりの選択肢を減らしたから?」


「それもあるけど、彩人が自分の次の動きを残したのも大きいよ。最初の突きで全部伸ばしてたら、二回目は間に合わなかったと思う」


 相手の選択肢は減らして、自分の選択肢は残す。


 言葉にすれば簡単だけど、実際に動くとなると相当難しい。それでも、考え方が分かっただけで今までとは槍の見え方が違っていた。


「……槍って、思ってたよりできること多いな」


「武器はだいたいそうだよ」


「ひよりの錨も?」


 何気なく聞いた瞬間、ひよりの動きが止まった。さっきまで床に向いていた顔がゆっくりこちらを向き、灰青色の目が期待するように輝き始める。


「……見る?」


「錨を?」


「うん!」


 ひよりは立ち上がると、もう黒鉄の錨へ歩き始めていた。返事を待つ間も何度もこちらを振り返っていて、どうやら自分の武器を紹介したくて仕方ないらしい。


「そりゃ見たいけど。戦うときも鎖が中心なのかと思ってた」


「違うよ!」


 今までで一番早い否定だった。


「錨が本体!」


「そこ、そんなに大事なんだ」


「すごく大事!」


 ひよりは錨のそばへ駆け寄ると、黒鉄の表面を軽く撫でた。その顔は《航路演算》の説明をしていたとき以上に嬉しそうだ。


 紬が俺の隣で小声になる。


「ひより、錨のことをただの重りみたいに言われると、ちょっと怒るんだよね」


「先に教えてくれよ」


「もう分かったでしょ?」


 ひよりがこちらを振り返ったので、俺たちは揃って口を閉じた。


「二人とも聞こえてる」


「ごめんごめん」


 紬は笑いながらひよりの頭へ手を伸ばしたが、ひよりはするりと身を引いた。そのまま《定錨》を解除すると、床に置いた鎖を手繰り寄せる。


 そして、何のためらいもなく巨大な錨の柄を握った。


「……え?」


 俺が見ている前で、ひよりは黒鉄の錨を持ち上げた。


 床に横たわっていたときは、その大きさをどこか現実離れしたものとして眺めていた。

 けれど、ひよりの肩に担がれると、改めて異様な武器だと分かる。錨の両端は小柄な身体から大きくはみ出し、先端の爪など、まともに当たれば人間なんて簡単に吹き飛ばせそうだった。


「……それ、持てるのか?」


「持てるよ。私の武器だもん」


「いや、俺が持とうとしたら腰がやられそうなんだけど」


「《航海士》の武装だから、持ったり振ったりするときは職業の力が助けてくれるの。でも、錨が軽くなってるわけじゃないんだよ」


 言いながら、ひよりは錨を肩から下ろして持ち直した。長い鎖が床を滑り、金属の擦れる音が訓練室に響く。


「じゃあ、そのまま殴ったら……」


「重いから強い!」


 ひよりは嬉しそうに答えた。どうやら、この大きさと重量こそが気に入っているらしい。


「ただ、振り方を間違えると自分も引っ張られるし、すぐには止められないよ。だから、ちゃんと当たるところへ振るの」


「そのための《航路演算》か」


「うん!」


 ひよりは錨を担いだまま、得意げに頷いた。


「彩人、避けてみて。最初は私だけ攻撃するから、槍は使わなくていいよ」


「その錨で殴るんだよな?」


「そうだよ」


「……《模擬領域装置》ちゃんと動いてるよな?」


「動いてるよ」


「いや、分かってるんだけどさ。その錨の大きさ見ると、ちょっと確認したくなるだろ」


 ひよりは一瞬きょとんとしたあと、錨を見上げて嬉しそうに笑った。


「大きいでしょ」


「そこを褒めたわけじゃないんだけど」


「大きい方が好き!」


 理由を聞こうか迷ったが、訓練がなかなか始まらなくなりそうだったのでやめておいた。


 俺たちは再び距離を取った。ひよりは右肩に錨を担ぎ、余った鎖を左手にまとめている。


「彩人、錨だけ見てると危ないよ」


 紬が横から忠告してくる。


「分かってる。ひよりの足も見るんだろ」


「それと鎖もね。あの子、両方使うから」


「見るところ多すぎない?」


 俺が文句を言うと、ひよりが楽しそうに笑った。


「それを考えるのが《航海士》だよ!」


 笑っているひよりをみると、小柄な身体に不釣り合いな武器を持っているせいで、構えているだけでも妙な迫力があった。


「じゃあ、行くよ!」


 ひよりは錨を担いだまま踏み込んできた。


 俺から見て右側へ少し回り込むような動きだ。巨大な錨の影が床を横切り、その重そうな爪がこちらを向く。


 正面から受けるなんて論外だった。模擬領域が衝撃を抑えてくれると分かっていても、あの鉄の塊が振り下ろされる光景を想像しただけで、身体が勝手に避けようとする。


 ひよりが腰をひねり、錨を振り始めた。


 俺は反射的に左へ跳んだ。


 ところが、ひよりは俺が立っていた場所を狙っていなかった。

 俺の右側へ回り込むように見せる。しかし、錨を振り出す直前に踏み込む方向を切り替え、俺が逃げる先を狙っていた。


「そこ!」


 ひよりが楽しそうに声を上げた。


 巨大な錨が横から斜め下へ振り抜かれる。俺が踏み出した先へ黒鉄の爪が迫り、慌てて足を引こうとしたものの、すでに体重は左脚へ乗っていた。


 錨の側面が脛を捉えた瞬間、薄い光の膜が弾ける。


「うわっ!」


 まともな衝撃は抑えられたはずなのに、脚を横から払われる感覚までは消えなかった。バランスを崩し、そのまま床へ倒れ込んだ。すぐ横で錨が重い音を立てて床へ落ちる。


「《定錨》!」


 ひよりの声と同時に、床へ着いた錨の動きが止まった。


 あれだけの勢いで振り抜かれたのに、跳ねたり滑ったりする気配すらない。鎖だけが遅れて床へ落ち、短い金属音を響かせた。


「っ……痛てて」


「大丈夫?」


 ひよりが錨から手を離し、俺のそばへ寄ってきた。


 しゃがみ込んで脚の様子を確かめ、俺が足首を動かせると分かると、ほっとしたように息を吐く。

 けれど、その視線がさっきまで俺の立っていた場所へ戻ると、今度は嬉しそうに頬が緩んだ。


「今の、すっごくきれいに入った!」


「人の足を見ながらそんな顔するなよ……」


「でも、ちゃんと狙ったところだったんだよ!」


「それは分かったから!」


 ひよりは立ち上がると、俺が左へ避けたときの足運びを自分で再現し始めた。錨がどこを通ったのか確認しているらしく、床を見つめながら何度も小さく頷いている。


 紬も近づいてきて、俺の脚を覗き込んだ。


「立てそう?」


「大丈夫。模擬領域がなかったら、今頃どうなってたか分からないけど」


「ひよりの錨、見た目通り重いからね」


「さっきまで担いで走ってたのが信じられないんだけど」


 紬の手を借りて立ち上がり、左脚を何度か曲げ伸ばししてみる。鈍い痛みは残っているものの、問題なく動かせた。


「なあ、今のって最初から俺が左へ避けると思ってたのか?」


「うん。たぶん左に来ると思ってた!」


 ひよりは錨を振った位置へ戻り、肩に何かを担ぐ真似をした。


「私が右へ回ったでしょ。そこから錨を振ったら、彩人は反対へ逃げたくなると思ったの。だから、最初から左側に踏み込んで振ったんだよ」


 そう説明されて、さっきの光景を思い返す。


 俺は錨が怖くて左へ避けたつもりだったが、ひよりにとっては、その動きこそが狙い通りだったらしい。


「……そこまで読んでたのか」


「絶対じゃないよ。違う方へ行ったら外れてたと思う」


「普通に外すんだな」


「未来予知じゃないもん。でも、外れたら次を考えればいいでしょ?」


 ひよりはあっさり答え、床に固定された錨のそばへ歩いていった。


「それで、こっちが《定錨》」


「さっき錨を止めたやつか」


「うん。置いた場所に固定するの」


 ひよりに促されて錨の柄を押してみたが、びくともしなかった。さっき鎖を引いても動かないところは見ていたものの、自分で押してみると妙な感覚がある。床に刺さっているわけでもないのに、力がどこにも伝わっていかないのだ。


 ひよりが鎖を拾い上げ、少し離れた場所から引いてみせる。鎖が張っても錨は動かず、ひよりが力を緩めると床は落ちる金属の音が響いた。


「こんな強く固定できるなら、どんな敵でも止められるんじゃないか?」


「そんなことないよ」


 ひよりは首を横に振った。


「私の《定錨》より強い力がかかったら、固定が破られることもあるの。だから、大きい魔物を相手にするときは気をつけないといけない」


「なるほど。絶対に動かないってわけじゃないんだな」


「うん。でも、普通に置くだけよりずっと強く止められるよ!」


 ひよりは錨の爪を指で叩いた。


「これが動かないって分かってたら、鎖もいろんな使い方ができるでしょ。敵を引っかけたり、通り道を塞いだり、私が動くときの支点にしたり」


 固定された錨を中心に、どこへ鎖を伸ばせるのかを身振りで示していく。説明するたびに別の使い方を思い出すのか、ひよりの言葉はなかなか止まらなかった。


「それに、固定した場所が邪魔になったら《定錨》を解除して、また動かせるから」


「さっきみたいに持って移動するのか?」


「それもできるし、《曳航》もあるよ。鎖を使って錨を引き寄せるスキルなの」


 ひよりは《定錨》を解除すると、少し離れて鎖を握った。


「《曳航》」


 声に応じるように鎖が張り、黒鉄の錨が床を滑り始める。ひよりが引く方向へ重い塊が近づいてきたところで、今度は柄を掴んで軽々と担ぎ上げた。


「こうすると、離れたところに置いた錨も戻せるんだよ」


「便利だな。それなら、いちいち拾いに行かなくてもいいのか」


「うん! でも《定錨》してる間は動かせないから、ちゃんと切り替えないと駄目なんだけどね」


 ひよりはそう言ってから、少し考えるように目を細めた。


「あと、大きいのを速く動かすと、そのぶん私も疲れる。ずっと振り回してたら大変だよ」


 巨大な錨を振るえるからといって、何の制限もないわけではないらしい。それでも、あれだけの武器を自在に扱えるだけで十分すぎるほど強いと思う。


 ひよりの戦い方が、ようやく見えてきた。


《航路演算》で相手の動きを予測し、巨大な錨を直接振るって攻撃する。鎖を使えば離れた場所へも干渉できるし、《定錨》で固定すれば相手の進路を制限したり、自分が動くための支点を作ったりすることもできる。


 小柄な身体で大きな武器を扱う豪快さと、相手の動きを細かく読む慎重さ。その二つが、ひよりの中では当たり前のように一緒になっている。


「……思ってたより、ずっと錨で戦ってるな」


「だから本体って言った!」


「悪かったって。今のでよく分かったよ」


 ひよりは満足したらしく、肩に担いだ錨を軽く撫でた。自慢の道具を褒められた子供みたいな顔をしている。


「ひより、その錨そんなに好きなの?」


「大好き!」


 即答だった。


「六歳で《航海士》になったときは、こんなに大きい錨をどうやって使うのか全然分からなかったんだよ。でも、練習してるうちにできることが増えてきて、今はいっぱい使い方を知ってるの」


 ひよりは昔を思い出しているのか、錨を懐かしそうに眺めていた。


「最初は持ち上げるだけでも大変だったし、振ったら自分が転びそうになることもあったんだよ。でも今はちゃんと使える。重いところも、鎖が長いところも、全部好き!」


「重いのって普通は欠点じゃないか?」


「そこがいいんだよ。軽かったら、当たってもこんなに強くないもん!」


 ひよりは嬉しそうに笑った。


 聞いているうちに、俺まで少し羨ましくなってくる。

 俺にはまだ《聖ゲオルギウスと竜》の槍しかない。それも使い始めて間もない武器だ。


 ひよりにとっての錨みたいに、自分の武器について楽しそうに語れるようになるには、まだまだ知らなければならないことがありそうだった。


「彩人!」


 ひよりが顔を上げる。


「次は両方やろ!」


「両方?」


「彩人も攻撃して、私も攻撃するの。さっきのやつ、もう一回できるか見たい!」


「さっき一回当てただけなのに、もう対人戦かよ」


「だって、避けるだけだと彩人の動きが決まっちゃうでしょ? 私も攻撃したら、どうするかもっと考えないといけないから」


 言いながら、ひよりはすでに錨を持ち直している。俺が返事をする前に準備を進めていくあたり、相当楽しみにしているらしい。


「ちょっと待てよ。俺、昨日レッサードレイクと戦ったばっかりなんだけど」


「知ってるよ。筋肉痛も見て分かるし」


「分かってるなら手加減をだな……」


「次は脚を狙わないようにする!」


「そういう問題か?」


 ひよりは少し考えたあと、紬の方を見た。


「紬、湿布持ってる?」


「あるけど。ひより、彩人で遊びすぎないようにね」


「遊んでないよ!」


 ひよりは抗議しながらも、楽しそうな顔をまったく隠せていなかった。


 紬が俺へ向き直り、肩をすくめる。


「まあ、無理はしないでね。痛かったらちゃんと止めていいから」


「それはそうするけど……」


「それと、ひよりがこんなに楽しそうなの、久しぶりかも」


 言われて、ひよりを見る。


 さっきまでの静かな少女とは別人みたいに、錨の周りを動き回っていた。鎖の位置を確かめながら時々俺へ目を向け、何か思いついたのか、ひとりで嬉しそうに笑っている。


「……なんか、すごい子を呼んできたな」


「でしょ?」


「褒めてるつもりだけど、若干後悔もしてる」


「私はいい相手だと思うよ。彩人もひよりも、分からないことを見つけたら放っておけないタイプだから」


 紬はそう言うと、再び訓練室の端へ下がっていった。


 ひよりは自分が知らない動きを見つけると、その理由を知りたがる。俺も同じで、さっきの錨の攻撃には驚かされたけれど、仕組みが分かれば次に試してみたいことが浮かんでくる。


 あれだけ重い錨なら、振り下ろした直後には隙が生まれるはずだ。《定錨》で固定されても、ひより本人がそこに留まるわけではない。


 だったら、錨が動き始める前に距離を詰めたらどうなるだろう。あるいは、槍の長さを使ってひよりが踏み込める場所を減らせば、思い通りに錨を振れなくなるかもしれない。


 考えていると、ひよりがこちらへ手を振ってきた。


「彩人、早く!」


「分かったって。そんな急かすなよ」


「だって、次どうするのか気になる!」


 ひよりは錨を肩に担ぎ、俺が構えるのを待っていた。先ほどまでの無邪気な笑顔を残したまま、俺の足元へ視線を向けている。


 俺も槍を握り直す。


 今度は錨だけを見ない。ひよりの足、鎖の位置、錨が届く範囲。どこへ動けば何が届くのか、こちらも考える必要がある。


 それに、さっき一度当てた方法がもう一度通用するとは思えなかった。ひよりはきっと、次は同じ動きをさせてくれないだろう。


 なら、今度はどうする。


 そう考え始めると、筋肉痛のことが少しだけ頭から消えた。


「行くぞ、ひより!」


「うん!」


 ひよりは弾むような声で返事をすると、巨大な錨を担いだまま一歩踏み出した。


 その顔は、俺よりずっと楽しそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。