第7話 十三歳の先輩
家に着いた頃には、夕食の時間を少し過ぎていた。
玄関を開けると、居間からテレビの音が聞こえてくる。普段なら気にも留めないはずなのに、《多摩第一迷宮》という言葉が耳に入り、靴を脱ぎかけたところで足が止まった。
『――探索者協会は本日午後、多摩第一迷宮への新規入場を停止し、その後、安全確認のため一時閉鎖すると発表しました。現時点で人的被害は確認されておらず――』
「……ただいま」
声を掛けると、廊下の奥から母さんが出てきた。
俺の顔を見たあと、視線がゆっくり服へ下がっていく。泥汚れだけならまだいい。レッサードレイクのブレスを避けたときに熱を受けたジャケットは、一部がわずかに変色していた。
「彩人」
「はい」
「今日行くって言ってたの、多摩第一迷宮だったよね」
「……そうです」
「その服は?」
「ちゃんと説明します」
母さんはしばらく俺を見ていたが、結局それ以上は聞かなかった。
「先に手と顔、洗ってきなさい」
怒鳴られるより怖かった。
洗面所で手と顔を洗い、汚れたジャケットを脱いでから居間へ向かう。テーブルには俺の分の夕食が残されていて、父さんはテレビを消すと、向かいの椅子を顎で示した。
「座れ。飯はあとでいい」
「うん」
今朝、初めてダンジョンへ入ること自体は二人に伝えてある。探索者登録を済ませたことも、経験のある紬が同行してくれることも話していた。
十八歳になった俺を無理に止めるつもりはない。ただし、最初のうちは経験者の判断に従え。それが父さんから言われていたことだった。
まさか初日に、その経験者と一緒にD級上位の魔物と戦うことになるとは、俺だって思っていなかった。
父さんは俺の顔を見たまま、最初に一つだけ確認した。
「怪我はないんだな」
「ない。協会の医務室でも診てもらった。ブレスの熱は受けたけど、火傷ってほどじゃないって」
「ブレス?」
母さんの眉が寄る。
「レッサードレイクっていう魔物がいて」
「……竜?」
「竜種ではあるけど、普通に想像するドラゴンとは――」
「今そこを細かく説明しなくていい」
「はい」
余計な訂正だったらしい。
父さんは口を挟まず、俺が話し始めるのを待っていた。
第一層へ入り、最初にホーンウルフと戦ったこと。しばらく探索したあと、本来なら第一層にいるはずのないグレイファングの死骸を見つけたこと。
紬がそこで撤退を決め、俺たちも入口へ戻り始めたこと。その途中で、迷宮の奥からレッサードレイクが接近してきたこと。
背を向けて逃げれば追いつかれると紬が判断し、やむを得ず交戦した。俺がそこまで話すと、父さんが初めて途中で止めた。
「待て」
「何?」
「異常を見つけた時点で、白石さんは帰ると決めたんだな」
「うん」
「お前はそれに従ったか」
「従ったよ。原因を調べようとか、もっと奥へ行こうとかも言ってない」
父さんは数秒黙ったあと、小さく頷いた。
「ならいい。そこを間違えてないなら、まずはそれでいい」
「でも結局、戦ったんでしょ」
母さんの表情はまだ硬い。
「逃げた方が危なかったんだ。あいつ、かなり速かったから。紬も一度は入口へ戻ろうとしてた」
「白石さんが一緒じゃなかったら?」
「そもそも一人では入ってないよ」
「そうじゃなくて」
母さんが言いたいことは分かった。
一人だったらどうしていたのか。紬がいなければ、本当に生きて帰れたのか。
考えるまでもない。
「たぶん、死んでた」
母さんの顔が強張った。
言い方を間違えたと思ったが、父さんは目を逸らさなかった。
「そのくらいだったんだな」
「うん」
「怖かったか」
聞かれて、少しだけ返事が遅れた。
ホーンウルフへ初めて槍を突き刺したときも怖かった。けれど、レッサードレイクは比べものにならない。
鱗に覆われた巨体がこちらへ向きを変えるだけで、次に自分が狙われるのだと分かった。喉の奥が赤く光った瞬間には炎が来ると理解していたのに、それでも身体が固まりそうになった。
「かなり怖かったよ。最初に槍を刺したときも、ほとんど通らなかったし」
あの感触はまだ手に残っている。
穂先は鱗の隙間へ入った。それでも数センチで止まり、あれ以上どうすればいいのか分からなくなった。
「でも、そのあと能力が変わって、最後は倒せた」
「だからまた行きたい?」
今度は母さんだった。
責めるような声音ではなかったからこそ、適当には答えたくなかった。
「行きたい」
「今日みたいなことがあっても?」
「今日みたいなのはもう勘弁してほしいけど、それでも行きたい」
「どうして?」
ダンジョンそのものが面白かった、というのもある。
見たことのない植物があり、魔物がいて、それを倒したあとには素材が残る。紬の《境界師》だって、説明を聞くだけなのと実際に戦うところを見るのとではまるで違った。
けれど、一番頭から離れないのはそこじゃない。
「分からないことが増えたからかな」
「分からないこと?」
「《画装士》のこと」
母さんたちには、職業が発現したことと、絵から武器を取り出せることまでは話している。ただ、《作品理解度》については俺自身まだよく分かっていない。
「俺の槍、《聖ゲオルギウスと竜》っていう絵から出てるんだけど、その絵を調べると《作品理解度》が上がるんだ。それだけじゃなくて、実際に槍を使ったり、今日みたいに竜種と戦ったりしても上がった」
レッサードレイクへ穂先を向けたとき、槍に浮かんだ金色の線を思い出す。
「それで《竜穿》っていう特性が出た。出る前はほとんど刺さらなかったのに、同じ場所へもう一度突いたら深く入ったんだ」
「つまり?」
「たぶん、《画装士》って絵に描かれてる武器を出すだけじゃない。その作品が何を描いてるのかとか、どんな話なのかとか、そういうものまで能力に関係してる」
まだ仮説にすぎない。それでも話しているうちに、自分でも声が少し弾んでいるのが分かった。
母さんにも分かったらしい。
「……今、すごく楽しそうだった」
「まあ、面白いから」
「心配してるこっちは全然面白くないけどね」
「すみません」
謝ると、母さんの口元もようやく少し緩んだ。
父さんは腕を組み、しばらく何も言わなかった。
「大学はどうする」
「受けるよ」
そこについては迷っていない。
「探索者になったから進路を変える、とは考えてないんだな」
「今のところは。でも探索は続けたい」
「受験勉強もしながらか」
「両方やるつもり」
「簡単に言うなよ」
低い声で言われ、俺も少しだけ姿勢を正した。
「簡単じゃないのは分かってる」
「いや、お前はまだ分かってない」
「だったら、やってみないと分からないだろ」
言い返してから、少し強かったかと思った。
けれど父さんは怒らなかった。むしろ一度鼻から息を吐くと、呆れたように笑った。
「そういうところは昔から変わらんな。何でも自分で確かめないと気が済まない」
「そうかな」
「小学生の頃、乾燥剤に『食べられません』って書いてあるのを見て、本当に食べられないのかって聞いてきたでしょ」
母さんがすぐに乗ってくる。
「それはただの質問だろ」
「そのあと袋を開けようとしてた」
「覚えてない」
「俺は覚えてるぞ」
父さんまで言うので、さすがに反論できなくなった。
冷めかけた味噌汁へ逃げるように箸を伸ばすと、父さんの声がまた真面目なものへ戻った。
「俺は探索者をやるなとは言わん。お前ももう十八だし、自分で選ぶことは増える」
そこで一度言葉を切り、俺を見る。
「ただ、昨日まで職業もなかったお前が、今日一日で残りの人生まで決める必要はない。大学へ行くのか、探索者を仕事にするのか、それとも別の道を選ぶのか。続けながら見ればいい」
「うん」
「それと、今日生きて帰れたから次も大丈夫だと思うな。そこだけは忘れるなよ」
「分かった」
これは素直に頷けた。
「あと、白石さんにはちゃんとお礼言った?」
母さんが聞く。
「言ったよ」
「命助けてもらったんでしょ」
「俺も紬のこと助けたって」
「そういうところ」
「何が?」
「もういい」
最後だけ、やっぱりよく分からなかった。
◇
翌朝、目を覚まして身体を起こした瞬間、昨日とは別の意味で動けなくなった。
太腿と背中、それに両肩まで鈍く痛む。昨日は戦闘直後の興奮で気にならなかったらしいが、一晩眠った身体は正直だった。
学校へ着く頃には多少ましになったものの、階段だけはつらい。なるべく普段通りに歩いて教室へ入ったつもりだったが、鞄を机へ置く前に声を掛けられた。
「黒瀬、お前どうしたその歩き方」
高瀬悠真が、自分の席から笑いながらこちらを見ていた。
去年も同じクラスで、席が近かったことから話すようになったやつだ。俺の歩き方がよほど面白かったのか、わざわざ立ち上がってくる。
「筋肉痛」
「どんな運動したら朝からそんなことになるんだよ」
「ちょっと全身使っただけ」
「その答えで誤魔化せてると思ってる?」
余計なところだけ察しがいい。
高瀬の声を聞いたのか、少し離れたところで紬と話していた篠崎美緒もこちらを振り返った。
「そういえば黒瀬、昨日ダンジョン行くって言ってなかった?」
「あ」
高瀬が何か思い出したようにスマホを取り出す。
「多摩第一って、昨日閉鎖されたところじゃん」
表示された画面には、俺も昨夜見た記事が載っていた。
《多摩第一迷宮、一時閉鎖》。
公表されているのは、内部で通常と異なる魔物の出現が確認され、安全確認のため探索者を退避させたというところまでらしい。
高瀬が画面と俺の顔を交互に見る。
「お前、いたの?」
「いた」
「マジで?」
「声でかいって」
案の定、近くにいた何人かがこちらを見た。
「いや、だって昨日だろ。何が出たんだよ」
「詳しいことは協会が調べてるところ。俺から勝手に話すことでもないし」
「白石も一緒だったんでしょ?」
美緒が紬を見る。
「一緒だったよ」
「危なくなかったの?」
紬は少し考えたあと、変に誤魔化さなかった。
「危なかったよ。でもちゃんと帰ってきたから大丈夫」
「黒瀬がその歩き方なのに?」
「だからこれは怪我じゃなくて筋肉痛だって」
俺が横から口を挟むと、高瀬が吹き出した。
「ダンジョン閉鎖よりそっちの方が面白くなってきた」
「お前にはもう何も教えない」
「ひどくない?」
そこで担任が教室へ入ってきたため、話は自然に途切れた。
誰かが慌てて席へ戻り、後ろでは宿題を写させてくれという声が飛んでいる。昨日、あれだけのものを相手にして、迷宮まで閉鎖されたのに、教室ではいつも通り一日が始まっていく。
当たり前のことなのに、昨日までとは少し違って見えた。
昼休みになってから、紬が俺の机の横へ来た。
「で、本当に怪我はない?」
「医務室で問題ないって言われただろ」
「昨日は平気でも、朝になって痛くなることあるから」
「それで朝から歩き方見て笑ってたの?」
「あれは別」
「ひどいな」
紬は笑いながら俺の向かいの席を借りて座った。
本人も多少の筋肉痛はあるらしいが、俺ほどではないという。昨日だけでLv7まで上がった俺と、Lv24の紬。単純なレベルだけでなく、何年も身体を使ってきた差がそこにあるのだろう。
「なあ、紬」
「ん?」
「槍、もっとちゃんと練習したい」
紬の表情が少しだけ変わった。
「昨日ので?」
「昨日ので」
レッサードレイクを倒したのは俺の槍だ。
でも、最初に首の下へ攻撃を通せたのも、最後に同じ場所を深く貫けたのも、紬が相手の動きを崩してくれたからだった。
《竜穿》は強い。だからといって、俺自身まで急に強くなったわけじゃない。
「初心者講習で基礎は教わったけど、あれだけじゃ足りない。次も紬が全部隙を作ってくれるとは限らないだろ」
「そこ分かってるなら安心した」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「昨日一日でLv7まで上がって、新しい特性まで出た新人」
「言い方」
「浮かれるには十分でしょ」
否定はできない。
「協会の訓練場、今日使える?」
「予約見てみる」
紬がスマホを出し、空き状況を確認する。何度か画面を触ったあと、その指が止まった。
「放課後なら空いてるね」
「じゃあ付き合って」
「いいよ。……あ」
今度は別の画面を開いたらしく、紬の口元が少しだけ上がる。
「何?」
「一人、呼んでもいい?」
「誰?」
「彩人の今の弱点を見るなら、私より向いてる子」
「槍使い?」
「全然」
「協会の教官?」
「それも違う」
「じゃあ誰だよ」
「探索者」
そこまで言って、紬は誰かにメッセージを送った。
「年下だけど、探索歴は私より長いよ」
「……何歳?」
「会ってから聞けば?」
その言い方の時点で、普通ではない気がした。
◇
放課後、紬と一緒に東第三支部の訓練棟へ向かった。
案内されたのは、初心者講習で使った部屋より一回り以上広い訓練室だった。床には衝撃を吸収する厚い素材が敷かれ、壁際には模擬戦用の標的や移動式の障害物が並んでいる。
目についたのは、部屋の四隅に立つ黒い柱だった。
どれも俺の胸ほどの高さがあり、表面には薄い光の線が走っている。
「これ何?」
「《模擬領域装置》」
紬が入口横の端末へ探索者証をかざしながら答えた。
「対人訓練用。登録した人同士なら、実際の武器や能力で攻撃しても、人に当たるときは危険な威力だけ装置が抑えてくれるの」
「そんなのあるんだ」
「じゃなきゃ実戦形式の訓練なんてできないでしょ」
確かにそうだ。
俺が黒い柱へ近づくと、紬が端末の表示を確認しながら続けた。
「元になったのは《模擬師》って職業の能力らしいよ。《模擬領域》の中なら、本物の能力を使わせたまま致命的な結果だけ抑えられたんだって」
「らしい?」
「私が生まれる前から装置になってるし、詳しい歴史までは知らない」
「痛くないの?」
「痛いよ」
「そこは残るんだ」
「危ないことしたら痛いって分からないと、訓練にならないからね。ただ、槍が身体を貫いたり、剣で腕が落ちたりはしない」
かなり物騒な説明なのに、紬は平然としていた。
「この技術が広まったきっかけは、子供の職業訓練なんだけどね」
「子供?」
「幼いうちに職業が発現する子もいるでしょ。本人が能力を理解できないまま使うと危ないから、《若年発現者育成制度》が作られたの。その中で使われていた《模擬師》の能力が研究されて、今の装置になったって聞いた」
なるほど。
職業が発現する年齢に決まりがないなら、当然、子供にも発現する。
剣や槍を出すだけならまだしも、炎を出す職業や、本人ですら何が起きるのか分からない能力だったら、家で好きに試させるわけにもいかない。
「ちなみに、今日呼んだ子もその制度出身」
「……その言い方で嫌な予感してきた」
紬が笑う。
訓練室の中央には、すでに一人の少女がいた。
最初に目へ入ったのは髪だった。
肩に触れる程度の銀白色で、照明の下ではほとんど白く見える。毛先は柔らかく外へ跳ね、黒を基調にした探索者装備との色の差が目立っていた。
顔を伏せてスマホを眺めている姿だけなら、ダンジョンより中学校の教室にいる方が似合いそうだ。
「ひより」
紬が呼ぶと、少女が顔を上げた。
淡い灰青色の瞳が最初に紬へ向き、それから俺へ移る。しばらく何も言わずにこちらを見たあと、スマホをポケットへしまった。
「三分前」
「何が?」
「来ると思ってた時間より遅い」
「予約時間には間に合ってるけど」
「それとは別」
「相変わらずだね」
どういう会話なんだ。
紬が俺へ向き直る。
「九条ひより。十三歳。《航海士》」
「十三?」
思わず聞き返すと、ひよりが俺を見上げた。
「十三」
「中一?」
「うん」
「さっき探索歴、紬より長いって言ってなかった?」
「長いよ」
答えたのは紬だった。
「ひよりは六歳で《航海士》が発現してる。そのあとすぐ若年発現者育成制度に入ったの」
「六歳からダンジョンに?」
「違う」
ひよりがすぐに否定した。
「最初は訓練。遊びみたいなのも多かった」
「そうだよな」
さすがに六歳児を普通の迷宮へ放り込む制度ではなかったらしい。
紬によれば、最初は《模擬領域》の中で能力を使う練習から始め、成長に合わせて管理された区域や実地訓練へ進んでいくという。
それでも七年。
十三歳の少女が、俺より遥かに長く自分の職業と付き合ってきたことには変わりない。
「黒瀬彩人」
ひよりが俺の名前を呼んだ。
「俺のこと知ってるの?」
「紬から聞いた。《画装士》。絵から武器が出る。昨日、竜を倒した」
「ずいぶん圧縮されたな」
「間違ってない」
「まあ、間違ってはないけど」
ひよりの視線が俺の右手へ落ちる。
「槍、見たい」
それが今日呼ばれた一番の理由らしい。
右手を前へ出し、《武装抽出》を発動する。淡い光が集まり、《聖ゲオルギウスと竜》から抽出された長槍が手の中へ現れた。
ひよりの瞳がほんの少しだけ大きくなった。
「長い」
「第一声それ?」
「思ってたより」
近づいてきたひよりは、穂先から柄までゆっくり視線を動かした。触ることはせず、少し離れた位置から形と長さだけを確かめている。
「構えて」
「いきなり?」
「それを見るために来た」
紬を見ると、頷かれた。
「普通に構えていいよ」
初心者講習で教わった姿勢を取る。
右足を少し引き、槍先を前へ向けた。ひよりの視線は穂先ではなく、肩、肘、腰、足元へ順番に移っていく。
数秒見たあと、俺の正面に立った。
「三回、突いて」
「お前に?」
「うん」
「普通に当てにいっていいの?」
ひよりが四隅の黒い柱へちらりと目を向ける。
「ここ、模擬領域」
「それでも十三歳相手に本物の槍で突くの、結構抵抗あるんだけど」
「私の方が先輩」
「年齢の話してる」
ひよりは気にした様子もない。
紬が入口側から声を掛けてくる。
「ちゃんと当てにいって大丈夫。ひよりもそれ前提で見ないと意味ないから」
「……分かった」
端末には三人とも訓練参加者として登録されている。
俺はひよりとの間合いを取り直し、胸元へ槍先を向けた。
「行くぞ」
「うん」
一歩踏み込み、基本通りにまっすぐ突く。
「左」
穂先が伸び始めるよりわずかに早く、ひよりが言った。
その直後、身体を左へ半歩ずらす。俺の槍は何もないところを通り、そのまま前へ伸び切った。
当てにいった。
なのに、最初からそこへ来ると分かっていたように避けられた。
「今の、動いてから見ただろ」
「次」
「答えないんだな」
距離を取り直す。
一回目は基本通りに突いただけだ。今度は、ひよりが動いたあとに穂先を追わせる。
踏み込む。
「右」
また先に言われた。
ひよりが右へ動く。
俺もすぐに腕と腰をそちらへ向けたが、途中で軌道を変えた分だけ身体の伸びが崩れた。穂先はひよりの肩へ向かったものの、届く前に距離が足りなくなる。
「遅い」
「分かってる」
「今のは一回目よりいい」
「褒めるならもう少し分かりやすくしてくれ」
ひよりは聞いていないようだった。
俺の右脚を見ている。
「三回目」
今度は最初から追うつもりではいかない。
二回とも踏み込んでから上半身だけで軌道を変えようとしたから崩れた。なら、相手が動く方向を見てから次の足を出す。
腰を落としたところで、ひよりの視線が一瞬だけ俺の右腿へ下がった。
そのまま何も言わず、正面で待っている。
踏み込んだ。
右腿に筋肉痛の鈍い痛みが走る。
反射的に右脚へかける力を弱めた瞬間、ひよりが動いた。
俺から見て左斜め前。
追おうとして左脚を出したが、最初の踏み込みが浅くなったせいで重心が後ろに残っている。無理に身体を向けたところで、槍の間合いからひよりが外れた。
「……また読まれた」
「うん」
「今のは能力?」
「半分くらい」
「残りは?」
ひよりが俺の右脚を指す。
「庇ってた」
「筋肉痛まで分かるの?」
「歩いたときから」
そういえば入ってきた直後から、一度も俺の槍だけを見ていなかった。
「右脚に体重を乗せる時間が短い。突く前は右肩が少し上がる。二回目で、上半身だけじゃ届かないって分かったはず。なら次は足を使うと思った」
「そこまで見てたのか」
「見るのが仕事だから」
ひよりは自分の足元と、俺がさっきまで立っていた場所を順番に指した。
「どこに重心があるか。次にどの足を出せるか。障害物がどこにあるか。そういうのが分かれば、通れる場所は減る」
「それが《航海士》?」
「うん」
そこで初めて、ひよりが右手を横へ伸ばした。
低い金属音が訓練室へ響く。
現れたのは、少女の身体には明らかに不釣り合いな巨大な黒鉄の錨だった。太い鎖が床へ落ち、鈍い音を立てながらひよりの足元へ広がっていく。
けれど、ひよりはその巨大な錨を振り回そうとはしない。
床へ置かれた錨の柄へ片手を添え、その位置を確かめるように足元を見る。
「《定錨》」
床へ置かれていた黒鉄の錨が、わずかに低く沈む。ひよりが続けて鎖を引いたが、あれだけ重そうな鎖が張っても、錨はぴくりとも動かなかった。
「錨は、ここ」
ひよりが床を指す。
「ここを動かない場所にする。人が動けば、その周りに通れる道と通れない道ができる」
俺は黒鉄の錨から、訓練室の障害物、ひより、紬へと目を動かした。
「戦場を海みたいに見るってこと?」
「海じゃなくても、航路は作れる」
「じゃあ、何を航海するんだ?」
ひよりが俺を見る。
「戦場」
答えは簡単だった。
《境界師》の紬は、境界を作ることで相手が選べる道を減らす。
一方でひよりは、最初からそこにある地形と人間の動きを読んで、どこを通るのか予測するらしい。
似ているようで、まるで違う。
「それで」
せっかくなので聞いてみる。
「俺の槍、どう?」
ひよりはしばらく槍を見たあと、今度は俺へ視線を戻した。
「槍は強い」
「俺は?」
「弱い」
「即答だな」
入口の方で紬が吹き出した。
「笑うなよ」
「ごめん。でも聞いたの彩人だから」
ひよりは気にせず続ける。
「距離は分かってる。でも、自分の身体の位置がまだ分かってない。突いたあとも、槍だけ見てる」
言われて、一回目と二回目の感覚を思い返した。
確かに、ひよりを追おうとしたときに考えていたのは穂先のことばかりだった。自分の足がどこにあり、次にどちらへ動けるのかまでは見ていなかった。
「でも」
ひよりが言葉を続ける。
「二回目は、一回目と違うことしようとした。三回目も変えた」
「それはまあ」
「同じ失敗をそのまま繰り返す人より、教えやすい」
褒められているらしい。
たぶん。
「じゃあ、何すればいい?」
聞くと、ひよりは少し考えた。
それから固定した黒鉄の錨から伸びる鎖を持ち、床の上へゆっくり這わせていく。
「まず、槍じゃなくて足を見る」
「自分の?」
「うん。それから私の足」
「槍の訓練なのに?」
「槍を動かしてるのは彩人だから」
妙に納得できる言葉だった。
ひよりは鎖を使って、床へ一本の線を作る。
「ここから出ないで、私に当てて」
「狭くない?」
「狭い」
「その中で?」
「うん」
ひよりの表情はほとんど変わらない。
けれど、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
「当てられたら、次」
「次もあるのか」
「いっぱい」
十三歳。
俺より五歳年下で、探索者としてはずっと先輩。
床へ引かれた鎖と、その向こうに立つ小柄な《航海士》を見ながら、俺は槍を握り直した。
昨日まで知らなかったことが、また一つ増えた。




