第6話 足跡のない竜
レッサードレイクの死骸を残し、俺たちはそのまま入口へ向かった。
行きには足元の植物や木々の奥まで気になって仕方なかったのに、今は草むらがわずかに揺れるだけで意識を持っていかれる。槍を握る手にもいつの間にか力が入り、何もいない森へ穂先を向けたまま歩いていた。
「彩人、握りすぎ」
「またあれが出てきたらって思うと、どうしてもな」
「その前に腕が疲れたら意味ないよ。《境界感知》は続けてるから、彩人は足元も見て」
「……了解」
言われて、柄を握っていた指を少し緩めた。
紬もさっきまでより警戒を強めている。《境界感知》を維持したまま歩き、ときどき足を止めては周囲の反応を確かめていた。
それでも、帰り道で新しい魔物と遭遇することはなかった。
行きには何度か反応があったホーンウルフやスライムも見当たらない。レッサードレイクほどの魔物が近くを歩いていたのだから、周囲の弱い魔物が逃げたのだろうと紬は言った。
「まだ戻ってきてないんだな」
「あれが倒れたって、魔物には分からないだろうしね。しばらくはこの辺りに寄ってこないと思う」
「そりゃそうか」
俺だって、森の中からあんなものが出てきた場所へ、すぐ戻れと言われても嫌だ。
しばらく進むと、木々の隙間から見覚えのある黒い裂け目が見えてきた。
「……入口だ」
「見えてから気抜かないでね」
「分かってるって」
返事をしながらも、裂け目の向こうにコンクリートの床が見えた瞬間、肩からわずかに力が抜けた。朝はあれほど不気味に見えた管理施設の無機質な壁が、今は妙に安心できる。
俺たちは最後に周囲を確認してから裂け目をくぐった。
湿った土と植物の匂いが途切れ、靴底へ硬い床の感触が戻ってくる。たったそれだけのことで、本当に外へ戻れたのだとようやく実感した。
「武器しまって」
「ああ」
《武装抽出》を解除すると、手の中から槍が消えていく。
淡い金色の模様も一緒に失われ、さっきまで重さのあった右手が急に軽くなった。ほっとしたはずなのに、同時に少しだけ物足りなさを覚えてしまう。
出口側のゲートへ探索者証をかざした。
《帰還確認》
《黒瀬彩人》
《探索者ランク:E》
続いて紬も探索者証を読み込ませる。
そのままゲートを離れようとしたところで、近くにいた協会職員がこちらへ歩いてきた。視線が俺の汚れた服から、熱でわずかに変色したジャケットへ移る。
「お二人とも、少しよろしいですか。中で何かありましたか?」
「第一層で異常を確認しました」
答えたのは紬だった。
さっきまで俺と話していたときとは違い、表情を引き締めて必要なことだけを順に伝えていく。
「D級のグレイファング一体の死骸を確認しました。そのあと、第一層の奥側からD級上位のレッサードレイクが接近しています。撤退しようとしましたが、追いつかれる可能性が高かったので交戦し、討伐しました」
職員の表情がはっきり変わった。
「第一層で、レッサードレイクを?」
「はい。グレイファングもレッサードレイクも位置情報と写真があります」
「お二人に怪我は?」
「私はありません。彼も直撃は受けてませんが、ブレスの熱を受けています」
「お前も同じ場所にいただろ」
「私は自分の状態くらい分かるから」
「俺だって――」
「初回探索」
「……はい」
職員は俺たちのやり取りには触れず、すぐに端末を操作して連絡を始めた。
「念のため、お二人とも医務室で確認を受けてください。そのあと、詳しい状況を伺います」
医務室では服の下まで確認され、火傷や打撲がないかを一通り調べられた。
自分では何ともないつもりだったが、担当者によれば戦闘直後は興奮で痛みに気づかないこともあるらしい。幸い、皮膚に軽い赤みが残っている程度で、処置が必要な火傷にはなっていなかった。
「今日はもう迷宮には戻らないでくださいね」
「さすがに戻りませんよ」
「そう言いながら、また入りたそうな顔をする新人さんもいるんです」
「どんな顔ですか、それ」
横を見ると、先に診察を終えた紬が笑いを堪えていた。
「何だよ」
「別に?」
「絶対何かあるだろ」
「新しい能力、試したくて仕方ない顔」
「……ちょっとは思ってる」
「ほら」
否定はできなかった。
《竜穿》は本当に竜種だけに作用するのか。作品理解度がさらに上がれば、次に何が起こるのか。考え始めれば、確かめたいことはいくらでも浮かんでくる。
けれど、首を持ち上げたレッサードレイクの姿と、目の前を焼いた炎を思い出せば、今からもう一度迷宮へ入ろうとはさすがに思わなかった。
診察を終える頃には、俺たちの報告を受けた協会の確認班が準備を始めているらしかった。通常の探索者とは別に、異常発生時の調査や回収を担当する職員がいるという。
俺たちはそのまま、管理施設の奥にある小さな会議室へ案内された。
机を挟んだ向こうには、三十代くらいの男が一人座っている。灰色のシャツに黒いジャケットという地味な格好で、机の端末には俺たちが撮ったグレイファングとレッサードレイクの写真がすでに表示されていた。
「迷宮調査課の相馬です。医務室から、二人とも大きな怪我はないと聞いています。まずは無事に戻ってきてくれてよかった」
「ありがとうございます」
紬が答え、俺も頭を下げた。
「では、起きた順番に確認させてください」
相馬さんが端末を操作すると、《多摩第一迷宮》第一層の地図が表示された。
「最初に異常へ気づいたのは?」
「この辺りです」
紬が地図の一角を指す。
「それまでは《境界感知》にホーンウルフやスライムが何度か反応していました。でも、この辺りに入ってから急に反応がなくなりました」
「そのあと、グレイファングの死骸を見つけた」
「はい。ここです」
紬が少し奥を指し、相馬さんが写真を開いた。
そこには、背中から脇腹を大きく抉られたグレイファングが映っている。
「この時点で撤退を決めたんですね」
「第一層にD級がいる時点で普通じゃありません。それに、この傷をつけた相手がまだ近くにいる可能性もありました」
「分かりました」
相馬さんは位置を記録し、次の地点へ視線を移した。
「レッサードレイクが接近してきたのは、撤退を始めたあと?」
「はい。私たちは入口へ向かっていました。レッサードレイクは迷宮の奥側から来ています」
「《境界感知》でも?」
「最初に捉えたときから、こちらへ向かって移動していました」
俺もそのときのことは覚えている。
グレイファングを見つけ、来た方向へ引き返し始めた。その途中で槍が震え、少し遅れて森の奥から鳴き声が聞こえた。
相馬さんが俺へ目を向ける。
「黒瀬さん。その直前に、職業能力にも反応があったそうですね」
「はい。《武装抽出》で出していた槍が震えて、《登録作品との関連対象を検知》《関連属性:竜》って表示されました」
「登録している作品は?」
「《聖ゲオルギウスと竜》です」
相馬さんの指が端末の上で一瞬だけ止まった。
「戦っている途中で、《竜穿》っていう武装特性も解放されました。出る前と後で、レッサードレイクへの槍の通り方がかなり変わっています」
「白石さんから見ても?」
「はい。最初は首の下へ刺しても浅いところで止まりました。でも、二度目は同じ場所を深く貫いています」
相馬さんはそれだけを記録すると、能力についてそれ以上は聞かなかった。
「分かりました。職業自体の検証は別の話なので、今回は異常発生前後に確認された事実だけ残しておきます」
そのまま戦闘の位置関係や討伐地点について確認を受けていると、会議室の扉が二度叩かれた。
入ってきた職員が、相馬さんへ端末を渡す。
「確認班からです」
「ありがとう」
相馬さんが画面を読み始めた。
最初は変わらなかった表情が、途中でわずかに険しくなる。
「何かありました?」
紬が尋ねる。
「レッサードレイクの死骸を確認しました。グレイファングも報告された位置にあります。少なくとも、二人の報告と現場に大きな食い違いはありません」
そこで俺も少しだけ息を吐いた。
「レッサードレイクについては共同討伐として記録します。死骸はこちらで回収しますが、素材の権利は討伐者側にあります。調査のために協会が確保するものについては買い取り、それ以外は回収費用などを差し引いたうえで精算されます」
「ちゃんと売れるんですね」
「もちろんです」
「よかった……」
「そこ気になるんだ」
紬が隣から言う。
「そりゃ気になるだろ。命懸けだったんだぞ」
「まあ、それはそうだけど」
相馬さんも少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻した。
「ただ、気になる報告も上がっています」
端末の情報が、机の地図へ送られる。
レッサードレイクを倒した場所から迷宮の奥側へ向かって、赤い線が伸びた。
「確認班が個体の移動痕を追いました。足跡だけではなく、折れた枝や踏み荒らされた植物も残っています。大きさから見ても、二人が討伐した個体と考えて問題ないそうです」
「やっぱり奥から来たんですね」
「途中までは」
相馬さんが、赤い線の端を指した。
「痕跡があるのは、ここまでです」
「ここまで?」
紬が地図へ身を寄せる。
「レッサードレイクを倒した場所から奥へ向かって追えば、この地点で痕跡がなくなっています。ただ、個体の移動方向を逆に考えると――」
相馬さんの指が赤い線の始点で止まった。
「この場所から、突然足跡が始まっていることになる」
一瞬、意味が分からなかった。
「……その奥には何もないんですか?」
「少なくとも、今の確認では同じ個体が通った跡はありません。大型個体ですから、本当に奥から歩いてきたなら足跡だけでなく、草木にも何かしら残るはずです」
地図を見る限り、痕跡が始まっている場所は第二層へ続く階段からもかなり離れている。
「階段から上がってきた跡は?」
紬が聞く。
「ありません。階段周辺にも、レッサードレイクほどの大型個体が通った形跡は確認されていません」
森の奥から現れたように見えたのに、その奥には歩いてきた跡がない。
俺たちへ近づいた分だけが、途中から地面に残っている。
「じゃあ……そこに急に現れたってことですか?」
「現場だけを見れば、そう見えます」
相馬さんはそう答えたあと、地図の別の部分を拡大した。
「迷宮では、ごく稀に空間接続の異常が報告されています。本来離れている場所同士が短時間だけ繋がり、通常とは違う場所へ出ることがある」
「もっと深い階層から、第一層に直接出てきた?」
「その可能性はあります。仮にそうなら、途中からしか移動痕がないことにも説明はつきます。ただ、現時点ではまだ仮説です」
それなら、周囲の魔物がいなくなっていたことも不思議ではない。突然レッサードレイクが現れたなら、ホーンウルフやスライムが逃げ出してもおかしくない。
グレイファングの死骸にあった大きな傷も、あいつがつけたものなら話は繋がる。
ただ、そのグレイファングまで第一層にいた理由は残った。
「グレイファングはどうなんですか?」
俺が聞くと、相馬さんは写真へ目を向けた。
「そちらも調査します。レッサードレイクと同じ経路で第一層へ来たのか、別の原因なのかはまだ分かりません」
「傷はレッサードレイクにつけられたものですか?」
「可能性はありますが、死骸の詳しい確認が先ですね」
レッサードレイクが突然第一層へ現れ、周囲の魔物が逃げた。
そう考えれば、俺たちが見た光景の大半には一応の説明がつく。それでも、そのレッサードレイクがどこから第一層へ入ってきたのかだけは、まだ何も分かっていなかった。
「二人には今日はもう帰ってもらいます」
相馬さんが地図を閉じた。
「追加で確認が必要になれば、登録されている連絡先へ協会から連絡します」
「第一迷宮はどうなるんですか?」
「すでに新規入場を止めています。内部にいる探索者にも順次帰還するよう指示を出しました」
「全部ですか?」
「全階層です」
俺が思わず聞き返すと、相馬さんは頷いた。
「仮に階層同士の接続異常なら、第一層だけ調べても意味がありません。それに、本来いない場所へD級上位の魔物が出現した原因が分からない以上、通常の探索ルートが安全だとは言えませんから」
そこで相馬さんは紬を見る。
「白石さん。グレイファングを見つけた時点で撤退を選んだのは正しい判断です。結果としてレッサードレイクとの交戦は避けられませんでしたが、原因を確かめようと奥へ進まなかったのもよかった」
「新人を連れてましたから」
「一人でも同じようにしてください」
「……はい」
返事まで、ほんの少し間が空いた。
「今の間、何?」
「何でもないよ」
「絶対あるだろ」
俺が言うと、紬が目を逸らした。
相馬さんは今度はこちらを見る。
「黒瀬さんも、未知の職業が発現したばかりなら能力を試したくなると思います。ですが、今日のような異常が起きている迷宮を検証場所にはしないでください」
「そんなこと――」
言いかけて、《竜穿》が解放された直後に考えていたことを思い出した。
「……気をつけます」
「今の間、私より長かったね」
「うるさい」
紬がようやく笑った。
会議室を出ると、施設内の雰囲気は朝とはまるで変わっていた。
職員が何人も忙しそうに行き来し、迷宮から戻ってきた探索者たちが入口付近で事情を聞いている。朝には《安定》と表示されていた大型画面にも、別の文字が並んでいた。
《多摩第一迷宮》
《新規入場停止》
《内部探索者へ帰還指示発令中》
「本当に全部止めたんだな」
「人が死んでからじゃ遅いからね」
紬はそう答えながら、黒い裂け目へ目を向けた。
見た目だけなら、朝と何も変わらない。裂け目の向こうには薄暗い森があり、その先には俺たちが歩いていた第一層が広がっている。
それなのに、あの森の途中からレッサードレイクの足跡は突然始まっていた。
「もっと深い階層と、一瞬だけ繋がったのかな」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。調べるのは協会の仕事」
「分かってるよ。ただ、気になるだけ」
「それは私も」
紬も裂け目を見たまま答えた。
少しすると、入口の前へ簡易柵が運ばれ始める。大型画面の表示も一度消え、しばらくして新しい文字へ切り替わった。
《多摩第一迷宮》
《一時閉鎖》
朝まで新人探索者の訓練にも使われていた迷宮が、俺たちが出てきたその日のうちに閉鎖された。
相馬さんが見せた地図が、まだ頭から離れない。
第二層へ続く階段から上がってきた跡もない。森のさらに奥から歩いてきた跡もない。
ある地点から突然始まり、俺たちのところまで続いていた、あの大きな足跡。
レッサードレイクは、いったいどこから来たんだろう。




