第5話 竜を穿つ槍
木々の向こうから、重い足音が近づいてくる。太い枝が折れる音に混じって、何かが地面を踏みしめるたびに低い振動まで足元へ伝わってきた。
紬は剣を構えたまま森の奥へ意識を集中させている。《境界感知》に何かが触れているらしく、さっきまでとは明らかに表情が違った。
「どのくらい離れてる?」
「二十メートル切った。速い……こっちにまっすぐ来てる」
「入口まで走るのは?」
「今から背中向ける方が危ない」
紬が短く答え、俺を庇うように半歩前へ出た。
入口へ戻るには、今来た方向へ引き返さなければならない。だが、ここまで接近されてから背中を向ければ、追いつかれる前に逃げ切れるとは思えなかった。
その直後、正面の低木が大きく揺れた。最初に見えたのは濃い緑色の鱗で、太い前脚が草を踏み潰し、そのあとから大きな頭部が木々の間へ現れる。
口元から覗く牙はホーンウルフのものより遥かに太い。額から後頭部へかけて短い角が並び、頭から尾まで三メートルほどある身体の背には、まだ未成熟らしい小さな翼が折り畳まれていた。
講習資料で見た覚えがあった。
「……レッサードレイク」
「D級上位」
紬の声が低くなる。
成体の竜種ほどではないとはいえ、新人探索者が相手にしていい魔物ではない。まして、新人の実地訓練にも使われる第一層へ現れるはずの存在でもなかった。
レッサードレイクの黄色い瞳が俺たちを捉え、喉の奥から低い唸り声が漏れる。それと同時に、右手に握った槍がさっきよりも強く震え始めた。
《関連対象を確認》
《作品理解度が上昇しました》
《作品理解度:7% → 10%》
「上がった……?」
「何が?」
「作品理解度。こいつを見ただけで」
家で《聖ゲオルギウスと竜》についていくら調べても、七%から先には進まなかった。それが本物の竜種を目の前にしただけで、一気に三%も増えている。
画家のことを調べ、聖ゲオルギウスの伝承も読んだ。それでも俺は、あの絵の中で槍を向けられていた存在を、本当の意味では知らなかったのかもしれない。
「彩人、考えるの後!」
紬の声に意識を引き戻された直後、レッサードレイクが地面を蹴った。
紬の左手が動き、左右にある木の根元と岩の間へ《境界線》が走る。
レッサードレイクの前脚が淡い光を越えた瞬間、突進の勢いがわずかに鈍ったが、巨体そのものを止めるには足りなかった。
「押し切る!」
レッサードレイクはそのまま境界を強引に踏み越えてくる。
紬がすぐに進路を斜めに横切る別の《境界線》を引くと、今度は踏み込みの向きがわずかに逸れた。
「彩人、左!」
俺は左へ跳び、紬は反対の右へ身をかわした。
直後、俺たちの間をレッサードレイクが駆け抜ける。振られた尾が低木を薙ぎ、折れた枝と葉をまとめて宙へ巻き上げた。
紬は避けた位置から、すぐ横を通り過ぎる巨体へ片手剣を振った。俺から注意を逸らすつもりなのだと気づいたのは、刃が右脇腹の鱗を叩いた直後だった。
甲高い音が響き、鱗の表面に薄い傷が残る。
「やっぱり胴は硬い……!」
紬は追いかけず、そのまま右側へ距離を取った。俺も左側で槍を構え直す。
レッサードレイクは数メートル先まで駆け抜けていた。しかも、その位置は俺たちと入口の間だ。
逃げ道を塞がれた。
前脚を踏ん張って振り返ったレッサードレイクは、斬りつけた紬へ顔を向けた。大きく開いた口の奥で、赤い光が揺れる。
「距離取って!」
紬はすぐに右斜め後ろへ下がった。
次の瞬間、短い炎がさっきまで紬のいた場所を舐め、足元の草を一気に黒く焦がす。少し離れた俺のところまで熱気が届き、思わず顔を背けそうになった。
「熱っ……!」
「まともに受けたら危ないから、喉が光ったらすぐ離れて!」
「今ので嫌でも覚えた!」
紬の剣はほとんど通っていない。正面から胴体へ槍を突き込んでも、同じ結果になるのは目に見えていた。
どこなら通るのかとレッサードレイクの身体を追っていると、紬が先に口を開いた。
「彩人、首の下を狙って! 胴より鱗が薄い!」
「分かった!」
紬が知っているなら、今の俺が別の場所を試す理由はない。
俺は槍を向け、一歩だけ前へ出た。その動きに反応したのか、レッサードレイクの黄色い瞳が紬からこちらへ移る。
低く唸りながら、今度は俺へ向かって踏み出してきた。
「無理に突っ込まないで。私が隙を作る!」
紬の左手が動き、レッサードレイクの前脚が踏み込もうとする場所へ短い《境界線》が走った。
前脚が光へ触れた瞬間、動きがわずかに鈍る。それでも止まることなく押し切ろうとしたせいで、足の置き方が崩れた。
肩が沈み、それにつられて首の位置も少し下がる。
今なら届く。
俺は斜め前へ踏み込み、訓練で繰り返した通りに足から腰へ力を繋げた。その勢いを両腕へ伝え、首の下へ槍を突き出す。
「入れっ!」
穂先が鱗の隙間へ食い込んだ。
硬いものを抜けたあと、肉へ届いた感触が柄を通して両手へ返ってくる。狙った場所には当たっていた。
それでも、槍は数センチ進んだところで止まった。
「硬い……!」
ホーンウルフなら胸を貫けた一撃だった。それがレッサードレイクを相手にすると、鱗を抜けてもその先へほとんど届かない。
レッサードレイクが苦鳴を上げ、首を激しく振った。
「彩人、抜いて!」
身体ごと振り回される前に槍を引き抜き、俺はすぐ後ろへ下がった。直後に太い前脚が振り下ろされ、さっきまで立っていた場所の土を抉る。
「そこなら通る!」
「でも浅すぎる!」
俺は距離を取りながら、さっき槍を刺した場所を見た。首の下から細く血が流れている以上、狙う位置そのものは間違っていない。
問題は、その先だ。鱗を抜くだけでは足りず、もっと深くまで槍を届かせなければ致命傷にはならない。
柄を握り直した瞬間、視界に文字が浮かんだ。
《作品理解度が上昇しました》
《作品理解度:10% → 12%》
《武装特性の解放条件を達成しました》
《武装特性を解放します》
《竜穿》
淡い金色の線が、槍の柄から穂先へ向かって浮かび上がった。
「何それ?」
「今出た。たぶん、この槍の能力……!」
炎が出たわけでも、雷を纏ったわけでもない。ただ細い金色の模様が槍の表面を這い、穂先まで続いている。
試すようにレッサードレイクへ穂先を向けると、金色の光が明らかに強くなった。
《竜穿》。
名前だけなら意味は分かる。竜を穿つための力だ。
俺が握っているのは、ただ絵に武器が描かれていたから取り出せた槍ではない。《聖ゲオルギウスと竜》という、聖人が竜へ向けていた槍そのものだ。
何ができるのかまでは分からない。それでも、竜を前にしてこの力が現れた以上、試す価値はある。
「彩人、来る!」
考え込んでいる暇はなかった。
一度傷をつけられたことで狙いを変えたのか、レッサードレイクが俺へ向き直る。大きく開いた口の奥が、再び赤く光った。
「距離取って!」
紬の声と同時に、俺は槍を抱えるようにして斜め後ろへ下がった。
次の瞬間、炎がさっきまで立っていた場所へ吐き出される。焦げた草の匂いと熱気が押し寄せたが、今度は十分に距離を取れていた。
「その槍、次は通りそう?」
紬はレッサードレイクから視線を外さずに聞いてくる。
「分からない。でも、こいつに向けると光が強くなる」
「じゃあ試す。ただし、突っ込むのは私が合図してから」
「了解」
「一回、ちゃんと隙を作る」
紬が左手を大きく開いた。
地面から露出した木の根や岩を結ぶように、何本もの《境界線》がレッサードレイクの周囲へ走っていく。
「《領域固定》!」
淡い光の線が複数重なった。
完全に囲って閉じ込めているわけではない。レッサードレイクが前へ出ようとすれば境界があり、横へ向きを変えても別の境界が進路にかかる一方で、何の光もない場所も残されていた。
第一層で紬の戦い方を見ていた俺には、その意味が分かった。
「行かせたい場所だけ空けてるのか」
「そう。彩人、右へ大きく回って。追わせる!」
俺は言われた通り、レッサードレイクから距離を取りながら右へ走った。
さっき首を刺した俺を警戒しているのか、黄色い瞳がこちらを追ってくる。レッサードレイクも身体の向きを変え、俺へ近づこうとした。
だが、真っ直ぐこちらへ来ようとすれば境界に触れる。
レッサードレイクは一度足を止め、抵抗のない方へ進路を変えた。
そこが紬の残していた隙間だった。
俺を追うため、レッサードレイクがその間へ踏み込んでくる。紬の境界が相手を動かしたわけではなく、邪魔されない場所を自分で選んだ結果だった。
「そのまま走って!」
言われなくても、立ち止まれば追いつかれる。
俺は槍を握ったままさらに右へ動いた。レッサードレイクも俺を追って速度を上げ、狭く残された空間へ完全に身体を入れる。
紬がその瞬間を待っていた。
「彩人、止まって!」
すぐに足を止めて振り返る。
同時に、紬が左手を振った。
今まで何もなかったレッサードレイクの進路を横切るように、新しい《境界線》が走る。
勢いのついたレッサードレイクは止まりきれなかった。前脚が境界へ触れても、そのまま力任せに越えようとする。
その一歩だけが遅れた。
身体は前へ進もうとしているのに、前脚が予定した場所まで出ない。巨体の体重を支えきれず、右肩が大きく沈んだ。
それにつられて長い首も低くなり、さっき槍を刺した場所が俺の正面へ晒される。
「今!」
紬の声を聞くより早く、俺は動いていた。
地面を蹴り、倒れ込みかけたレッサードレイクの正面から少し外れた位置へ踏み込む。真正面に立てば、そのまま巨体に押し潰される。
狙うのは一か所だけだ。
首の下に残った傷へ穂先を合わせると、槍を走る金色の模様が一気に強くなった。
さっきまでは、どこを狙ってもただの硬い鱗にしか見えなかった。
今は違う。
薄い鱗と鱗の境目へ穂先を向けたときだけ、金色の線がその一点へ集まっていく。
「そこか……!」
足から腰へ、腰から両腕へ力を繋げ、そのまま槍を突き込んだ。
穂先が首の下へ触れる。
さっきはそこで勢いを失った。だが今度は、金色の光が鱗の隙間へ沿うように走り、壁のようだった手応えを突き抜けた。
槍が一気に奥へ沈む。
「入った!」
レッサードレイクが絶叫し、長い首を激しく振った。
衝撃で柄ごと身体を持っていかれそうになったが、俺は足を踏ん張って槍を押し込む。浅い。さっきより遥かに深く入っているのに、まだ巨体は暴れている。
レッサードレイクが体勢を戻そうと前脚へ力を込めた。
「そのまま!」
紬の《境界線》がまだ前脚の動きを邪魔している。
完全には止められない。それでも体勢を立て直す一歩が遅れたことで、低くなった首はすぐには持ち上がらなかった。
俺はその隙に、残っている力を全部槍へ込める。
「おおっ!」
金色の線が強く輝き、穂先がさらに深く沈んだ。
レッサードレイクの咆哮が途中で途切れる。首を振る力も弱まり、前脚が大きく揺れた。
「彩人、抜いて! 倒れる!」
紬の声を聞いた瞬間、俺は槍を引き抜いた。
そのまま後ろへ数歩下がる。
直後、レッサードレイクの前脚から力が抜けた。巨体は横へ傾き、周囲の草木を巻き込みながら地面へ倒れ込む。
重い衝撃で土煙が舞った。
俺は槍を構えたまま、倒れたレッサードレイクを見ていた。すぐに近づく気にはなれない。
「……死んだ?」
「まだ待って」
紬も剣を構えたまま、レッサードレイクの様子を見ている。
巨体は何度か小さく痙攣したあと、それきり動かなくなった。それでも紬は警戒を解かず、呼吸する様子もこちらの動きに反応する様子もないことを確認してから、ようやく剣先を下げる。
「……たぶん、もう大丈夫」
「たぶんって言うなよ」
「生き物相手に絶対なんて言わないの」
「そういうところだけ急に先輩になるよな」
「ずっと先輩です」
いつもの返しを聞いた途端、張り詰めていた力が一気に抜けた。
大きく息を吐くと、自分の呼吸が震えているのが分かる。ホーンウルフのときとは比べものにならず、槍を握っていた手を開こうとしても、強張った指がすぐには動いてくれなかった。
「怪我は?」
「ない……と思う」
「思うじゃ駄目。見せて」
紬が近づき、俺の腕や肩、背中まで順番に確認していく。
幸い火傷らしい火傷はなく、ジャケットの一部が熱で少し変色している程度だった。
「紬は?」
「私も大丈夫。剣はちょっと悲しいことになってるけど」
見ると、片手剣の刃には細かな傷がいくつも入っていた。
「弁償とか……」
「なんで彩人がするの」
「いや、俺の付き添いでこうなったし」
「ダンジョンで使うための装備なんだから、傷くらいつくよ」
そう言った紬も、さすがに平然とはしていなかった。
額には汗が浮かび、呼吸もまだ完全には戻っていない。Lv24の紬でも、余裕で倒せるような相手ではなかったのだ。
改めてそう思ったところで、視界に文字が浮かんだ。
《経験値を獲得しました》
《Lvが上昇しました》
《Lv:3 → 7》
「……七?」
「何?」
「レベル。七になった」
「一気に四つ?」
「うん」
紬が少し目を見開いた。
「D級上位を相手にして、それだけ戦闘に関わったなら……今まで三だったことを考えれば、あり得なくはないと思う」
数字だけを見れば、一気に強くなったように思える。
けれど、さっきまで何度も紬に助けられていたことを考えれば、レベルが四つ上がったくらいで急に強者になったとは思えなかった。
表示はそこで終わらない。
《作品理解度が上昇しました》
《作品理解度:12% → 15%》
《登録作品》
《聖ゲオルギウスと竜》
《武装特性:竜穿》
《固有効果:未解放》
十五%。昨日まで七%だった数字が、一度の戦いで倍以上になっている。
俺は、まだ淡い金色の光を残している槍へ目を落とした。
「……そういうことか」
「何が?」
「ネットで調べるだけじゃ駄目だった理由」
倒れたレッサードレイクへ視線を向ける。
絵について調べ、聖ゲオルギウスが竜を倒す伝承だと知った。構図も見たし、その槍がどこへ向けられているのかも分かっていた。
けれど、本物の竜種がどう動くのかは知らなかった。鱗がどれほど硬く、その下まで槍を通すことがどれほど難しいのかも、今日初めて自分の身体で知った。
知識として知っていることと、本当に理解することは同じではないらしい。
「この職業、思ってたより面倒かも」
「急にどうしたの」
「作品のことを調べるだけじゃ足りないっぽい。実際に使って、関係あるものを見て、それでやっと分かることがある」
「確かに面倒そう」
「……でも、めちゃくちゃ面白い」
手の中の槍を見ながらそう言うと、紬が呆れたような目を向けてきた。
「さっき死にかけた人の顔じゃないんだけど」
「だって、まだ十五%だぞ」
「そこ?」
「十五%で《竜穿》まで出たんだぞ。もっと理解したら何が起きるんだよ。それに、別の絵なら――」
「はい、そこまで」
勢いのまま話そうとした俺を、紬が片手を上げて遮った。
「続きは外で考えて。ここ、まだ安全だって決まったわけじゃないから」
「……そうだった」
「レッサードレイクは持って帰れないし、解体もしない。位置だけ記録して、協会に報告するよ」
「了解」
紬の言う通り、ここで素材を回収している場合ではない。
俺たちは端末に現在位置を記録し、倒れたレッサードレイクと周囲の様子を最低限だけ撮影した。
第一層にいるはずのないD級上位の魔物。その近くには、何かに殺されたグレイファングまでいた。
レッサードレイクが偶然ここまで上がってきただけなら、それで終わるのかもしれない。けれど、その前から周囲の魔物が消えていたことまで考えると、どうにも嫌な感じが残る。
「紬」
「何?」
「これ、本当にこいつだけかな」
紬の表情から笑みが消えた。
「……分からない。だから今は帰る」
今度は俺も素直に頷いた。
レッサードレイクを倒したことで、塞がれていた入口側への進路も空いた。俺たちは周囲を警戒しながら、来た方向へ引き返す。
歩き出す前に、俺はもう一度だけ手の中の槍を見た。
《聖ゲオルギウスと竜》。
昨日までは、名画から取り出した少し変わった槍だった。けれど今は、その見え方がまるで違う。
絵に描かれた武器を取り出すだけじゃない。その武器が作品の中で持っていた意味まで、力として残っている。
この絵をもっと理解すれば、まだ何かが出てくる。そして、この一枚だけで終わるはずもない。
世の中には、数え切れないほどの絵がある。その中から次は何が出てくるのかと考え始めるだけで、知りたいことが次々と増えていった。
さっきまで死にかけていたことを考えれば、不謹慎なのかもしれない。それでも、その想像だけはどうしても止められなかった。




