第4話 初めてのダンジョン
日曜日の朝、俺は東京都内にある《多摩第一迷宮》の管理施設前で、意味もなくスマホの画面を確認していた。待ち合わせまではまだ十分ほどあるのに、時刻を見るのはこれで三回目になる。
別に緊張しているわけじゃない。少なくとも自分ではそう思っていたのだが、普段なら待ち合わせ時間ぎりぎりまで家にいる俺がこんなに早く着いている時点で、あまり説得力はなかった。
「早すぎない?」
聞き慣れた声に顔を上げると、紬がこちらへ歩いてきていた。
学校で見る制服姿とは違い、今日は黒を基調にした探索用ジャケットと動きやすそうなパンツを身につけている。腰には刃渡り五十センチほどの片手剣が下がり、背負っている探索用のバックパックにも使い込まれた跡が残っていた。
「その剣、初めて見た」
「そりゃ学校には持っていかないからね」
「《境界師》でも武器使うんだな」
「使うよ。境界だけで全部倒せるわけじゃないし、ダンジョンで丸腰とか嫌でしょ」
紬は腰の剣を軽く叩いた。《境界師》は敵の動きを制限したり、進路を塞いだりするのが本領らしい。そのため、境界を操作する片手を空けておける武器の方が使いやすいという。
「で、彩人の槍は?」
「ここで出したら怒られるだろ」
「一応そのくらいは分かってるんだ」
「俺を何だと思ってんだよ」
「ついこの前まで一般人だった新人」
「事実だから言い返せないのが腹立つな……」
紬は楽しそうに笑いながら、管理施設の入口へ向かった。
《多摩第一迷宮》が出現したのは二十年以上前で、多摩地区で最初に公的な管理対象となったことからその名前が付いたらしい。現在では第二、第三迷宮も存在する。
最古の第一迷宮は、内部構造や出現する魔物の情報もかなり揃っている。浅い階層は活性度も安定しているため、新人探索者の実地訓練にも使われている。
それでも、管理施設の警備は思っていたより厳重だった。入口には空港の保安検査場を思わせるゲートが並び、その周囲には探索者協会の職員が何人も配置されている。
探索者証を端末へかざすと、俺の側だけ黄色い表示が出た。
《探索者ランク:E》
《初回入場》
《同行者確認》
続いて紬が自分の探索者証を読み込ませると、表示が緑へ切り替わった。
「白石紬さんを同行責任者として確認しました。第一層から第二層までの活動を許可します。現在の迷宮活性度は《安定》ですが、異常を確認した場合は探索を中止し、速やかに帰還してください」
「分かりました」
紬は慣れた様子で答え、俺も横で頭を下げた。
ゲートを抜けた先には、コンクリートで囲まれた広い空間があった。その中央には高さ三メートルほどの黒い裂け目が浮かび、向こう側には薄暗い森が見えている。
壁に穴が開いているわけではない。何もない空間そのものが、縦に裂けているようにしか見えなかった。
「……動画で見るのと全然違うな」
「最初はみんなそんな感じだよ」
「お前も?」
「もちろん。中二だったし、普通に怖かった」
職業が発現していたとはいえ、十三、四歳の頃からダンジョンへ入っていたらしい。そう考えると、紬が急に自分よりずっと遠いところを歩いてきた人間に見えた。
「何その顔」
「いや、お前にも初心者の時期あったんだなって」
「当たり前でしょ。最初から平気だったら、それはそれで怖いよ」
呆れたように返したあと、紬の表情が少しだけ引き締まった。
「中に入ったら、勝手に先へ行かない。知らないものには触らない。見覚えのない魔物がいても近づかない。それと、私が止まれって言ったら理由を聞く前に止まって」
「分かった」
「返事だけはいいね」
「ちゃんと聞くって」
「ならよし」
こういうときの紬は、学校にいるときとは少し違う。口調そのものは普段と大して変わらないのに、こちらが冗談で流していい部分と、そうでない部分がはっきりしていた。
黒い裂け目をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂いと植物の青臭さが鼻へ入り、足元も管理施設の硬い床から柔らかな地面へ変わる。振り返れば、今通ってきた入口越しに東京側の施設が見えていた。
それなのに正面には、どこまで続いているのか分からない森が広がっている。頭上には空まで広がっていたが、太陽らしいものはどこにもなく、薄い灰色の光が空全体から降り注いでいた。
「すげえな……」
「語彙なくなってるよ」
「初ダンジョンなんだから許せ」
俺は右手を開き、《武装抽出》を意識した。頭の中に《聖ゲオルギウスと竜》を思い浮かべ、その中で騎士が握っている槍へ意識を向ける。
手のひらに冷たい感触が生まれ、次の瞬間には見慣れ始めた長槍が収まっていた。
「またニヤけてる」
「うるさい」
「まだ入口だよ?」
「分かってるって」
槍を持ち直したところで、紬がすぐに穂先を指した。
「私の後ろを歩くなら、もう少し横に向けて。今の持ち方だと、振り返ったときに私を刺す可能性あるから」
「こうか?」
「そう。それなら大丈夫」
言われて初めて、槍の長さを自分がまだ感覚として掴めていないことに気づいた。美術室で最初に握ったときは不思議なくらい手に馴染んだが、それは武器を手にすること自体に違和感がなかっただけだ。
槍の扱い方まで身についたわけではない。職業が発現したついでに達人級の槍術まで頭へ入ってくれれば楽だったのに、どうやらそこまで都合のいい話ではないらしい。
森へ入って十五分ほど歩いても、一体も魔物には遭遇しなかった。
「もっとすぐ出てくると思ってた」
「第一層は探索者の出入りが多いから、入口付近は数が少ないよ」
「探索動画だと入った直後から戦ってない?」
「移動時間を全部流してる動画なんて、彩人だって見ないでしょ」
「まあ、それはそうだけど」
紬は会話をしながらも周囲への注意を切らしていなかった。地面の足跡や折れた枝、草の揺れ方まで見ているらしいが、俺にはどこを見てもただの森にしか見えない。
しばらくして、紬が道の脇に生えていた細長い葉の植物を指した。
「これ、採取対象だよ」
「草も売れるの?」
「種類によるけどね。これは葉が薬品の材料になるやつ。第一層だから高くはないけど、まとまった量を集めればちゃんとお金になるよ」
言われてしゃがみ込むと、見た目はその辺に生えていそうな草と大して変わらない。何となく根元へ手を伸ばしたところで、紬がすぐに止めた。
「待って。採るのは葉だけ」
「根は駄目なの?」
「この種類は根を残せばまた伸びるから。管理されてる迷宮だと、採取方法まで決まってるものもあるよ」
「へえ……」
魔物を倒して素材を持ち帰る場所、くらいにしか考えていなかった。けれど、迷宮の中にある資源そのものが管理されているらしい。
知らない仕組みを一つ知るたびに、目の前の森がさっきまでとは違って見えてくる。
「何か楽しそうだね」
「いや、こういうの面白くない?」
「彩人、戦うことよりそっちの方が向いてたりして」
「まだ魔物と一回も戦ってないのに転職させるなよ」
笑いながら立ち上がり、さらに森の奥へ進んだ。
少しして、俺は前を歩く紬に尋ねる。
「近くに何かいるか分かる?」
「今のところはいなさそう。でも、少し広げてみるね」
紬が左手を開くと、身体を中心に淡い光が幾重にも浮かんだ。一瞬だけ透明な球が何重にも重なったような輪郭を作り、それはすぐに空気へ溶けるように見えなくなる。
それでも、《境界感知》そのものは展開されたままらしい。
「それが《境界感知》?」
「そう。私を中心に薄い境界を何層か作って、そこを何かが横切ると分かる感じ」
「じゃあ、木の上に何かいても分かる?」
「動いて境界を横切ればね。上でも下でも反応するよ。ただ、じっとしてる相手は見つけにくいし、遠くなるほど細かいことまでは分からなくなる」
「どこまで分かるんだ?」
「方向と大体の距離、数、大きさ、それから動いてる方向くらい。魔物の種類とかランクまで分かったら楽なんだけどね」
十分すぎるほど便利に聞こえるが、紬本人はそう思っていないらしい。
「感知に何も出てないから安全、とは思わないでね。待ち伏せする魔物もいるし、地形のせいで分かりにくくなることもあるから」
「了解、先輩」
「素直でよろしい」
それから数分もしないうちに、紬の足が止まった。
「彩人、止まって」
入口で言われたことを思い出し、理由を尋ねる前に俺もその場で足を止める。
「前方二十メートルくらい。一体。こっちへ近づいてる」
紬が左手を前へ向けると、道を挟んだ二本の木の根元へ淡い光点が浮かんだ。その間を結ぶように、細い光の線が走る。
「それが《境界線》?」
「そう。指定した二点の間に境界を作って、越えようとした相手の動きに干渉する。このくらいの長さなら、弱い相手を一瞬引っかけるくらいかな」
「壁みたいに止めるんじゃないんだな」
「相手次第。弱ければ止められるけど、強い相手なら普通に押し切ってくる。長く引くほど維持も難しくなるから、絶対に止まると思わないで」
説明が終わるより先に、前方の草むらが揺れた。
灰色がかった茶色の毛並みが見え、そのあとから犬より一回り大きな四足獣が姿を現す。額には短い角が一本伸びていた。
《ホーンウルフ》。
E級魔物。協会の講習で、討伐済みの個体を使った解体まで経験している。
見たこと自体はある。それなのに、目の前の一体は教材として台の上に横たわっていたものとはまるで違って見えた。こちらへ向けて唸り声を上げ、牙を剥いて睨んでいるだけで、死体で見たときより一回り大きく感じられる。
「……講習で見たやつ、こんなにでかかったっけ」
「同じくらいだよ。動いてるから大きく見えるだけだと思う」
「死体と実物じゃ全然違うな」
槍を握る手に自然と力が入った。
紬はホーンウルフから視線を外さないまま、俺へ問いかける。
「自分で戦う? 不安なら最初は私がやって、動きを見てもいいよ」
正直に言えば、怖さはあった。動画や講習で知っている魔物でも、自分を噛み殺そうとしている生き物が目の前にいると、知識だけでは埋まらない圧がある。
それでも、ここで紬に任せる気にはなれなかった。俺はこの槍が動く魔物にどこまで通じるのか、それを確かめるためにここまで来たのだから。
「俺がやる」
「分かった。私が最初の動きを鈍らせるから、胸か首を狙って。外したら追わないで、一度下がって槍の距離を作ること」
「了解」
ホーンウルフが身体を低くし、次の瞬間には地面を強く蹴ってこちらへ走り出した。動画で見るのとはまるで違い、たった二十メートルしかなかった距離が一気に縮んでいく。
それを見た途端、身体が硬くなりかけた。
前脚が光の線を越えた瞬間、《境界線》が強く輝いた。突進していた身体が、見えない何かへ引っかかったように鈍る。
「今!」
紬の声に合わせ、俺は前へ踏み込んだ。訓練で教わった通り、腕だけで突くのではなく、足を出して腰を送り、その勢いを穂先まで繋げる。
これなら当たる――そう思った瞬間、ホーンウルフが頭を振りながら身体を捻った。胸へ向けていた穂先は狙いを外れ、肩口へ浅く食い込む。
「っ……!」
肉へ刺さった感触が、柄を通して両手へ伝わってきた。訓練用の標的にはなかった生々しさに、ほんの一瞬だけ意識を奪われる。
その間にもホーンウルフは吠え、《境界線》を強引に押し切った。身体を捻られた拍子に槍の穂先が抜け、牙の並んだ口が目の前まで迫ってくる。
下がらなければならないと頭では分かっている。それでも、迫ってくる牙へ意識を奪われ、足の反応が遅れた。
「彩人、下がって!」
紬の声でようやく身体が動いたが、もう穂先を使える距離ではない。
飛び込んできたホーンウルフに対し、俺は引き戻した槍を身体の前へ横向きに差し込んだ。獣の顎が柄へぶつかり、激しい衝撃が両腕まで響く。
「ぐっ……!」
牙が目の前で噛み合い、獣臭い息が顔にかかった。このまま押し負ければ噛みつかれる。
夢中で腕へ力を込め、槍の柄を押し返す。ホーンウルフの頭が横へ逸れたところで、紬の声が飛んだ。
「距離取って!」
今度は迷わなかった。槍を押しつけるようにしながら後ろへ下がり、二歩分の距離を作る。
ホーンウルフもすぐにこちらへ向き直ったが、さっきとは違って穂先を前へ置けるだけの余裕がある。最初の失敗で、訓練のときに何度も言われた意味がようやく身体で分かった。
槍は長いからこそ、間合いを保って強みを生かせる。自分から近づきすぎれば、その長さそのものが邪魔になる。
ホーンウルフがもう一度踏み込もうと肩を沈めた。今度は飛び込んでくるまで待たず、胴体全体を見ながら胸へ狙いを定める。こちらから一歩踏み込み、槍を突き出した。
足から腰へ伝えた力が両腕を通って穂先へ乗り、深い手応えとともに槍が胸へ食い込む。肉を貫いた感触に胃の奥が持ち上がったが、手は離さなかった。
暴れるホーンウルフの牙が届かない距離を保ちながら押さえていると、やがて四本の脚から力が抜けていく。その身体が地面へ崩れ落ちるのを確認してから、俺は槍を引き抜いて数歩下がった。
ようやく大きく息を吐いた。戦っている最中には気づかなかったが、柄を握った指先がわずかに震えていた。
「怪我は?」
紬がすぐに近づき、倒れたホーンウルフより先に俺の身体を確認した。
「大丈夫。噛まれてない」
「ならよかった」
「……思ってたより全然違うな。途中、足止まったし」
「実際に自分へ向かってこられると違うでしょ。私だって初めて魔物と戦ったときは怖かったよ」
「前に言ってたスライム?」
「そう。いきなり跳ねてきて、本気で泣いた」
「今のお前から全然想像できないな」
「笑ったら次は助けないよ」
「笑ってないって」
紬と話しているうちに、張り詰めていたものも少しずつ抜けていった。そのとき、視界に新しい文字が浮かぶ。
《経験値を獲得しました》
《Lvが上昇しました》
《Lv:1 → 2》
「レベル上がった。二になってる!」
ステータスを確認すると、確かに数字が変わっていた。たった一つ増えただけなのに、自分で魔物を倒した結果が目に見える形で返ってきたことが嬉しかった。さっきまで震えていた手のことまで、忘れそうになった。
「一から二は上がりやすいよ」
「それでも嬉しいものは嬉しいだろ。次はもう少し上手くできそうな気もするし」
「その考えが出た直後が一番危ないからね。一戦しただけで急に強くなったと思わないこと」
「講習でも散々言われたやつだな」
「ちゃんと覚えてるならよろしい」
完全に浮かれていないと言えば嘘になる。ただ、一戦しただけで槍の腕前まで上がったわけではないことくらいは、今の失敗で嫌というほど分かっていた。
「じゃあ次、解体ね」
「もう現実に戻すのかよ」
「素材置いて帰るつもり?」
「やります」
俺はホーンウルフの横へしゃがみ、バックパックから解体用のナイフと素材袋を取り出した。今日持ってきた荷物には水や救急用品のほか、回収用品と魔核を守るための小型ケースも入っている。
「手順は?」
「角と牙。それから胸の奥に魔核。傷つけると査定が下がる」
「よくできました」
「先輩面がすごいな」
「先輩なので」
講習で教わった位置へ刃を入れていく。教材として用意された死体を解体したときとは感覚が違ったものの、作業を始めれば手順は思い出せた。
角と牙は汚れを落として素材袋へ入れ、最後に取り出した灰色の魔核は専用のケースへ収める。ホーンウルフくらいなら、高く売れる部分だけを回収すればバックパックに収まる。持ち運べない大型の魔物は、位置情報を記録して協会の回収班へ依頼するらしい。
「これ、全部でどれくらいになる?」
「状態次第だけど、今のなら五千円前後かな」
「さっき結構命懸けだったんだけど」
「第一層の魔物を一体倒して帰る仕事じゃないからね。何体か狩って、途中で採取もして、それで一日分」
「急に現実的だな……」
「もっと深いところなら素材も高くなるよ。そのぶん怪我したときの治療費も、装備にかかるお金も増えるけど」
探索者は稼げる、という言葉だけなら何度も聞いたことがある。けれど実際には、魔物を倒すたびに札束が落ちてくるような仕事ではない。危険もあれば、装備や治療にかかる金もある。その全部を含めて成り立っている職業なのだろう。
その後も第一層を進み、ホーンウルフを二体と小型のスライムを何体か倒した。途中でもう一度レベルが上がり、《Lv:3》になった。
数字は増えたが、槍の腕前まで急に上達するわけではない。二体目では距離を意識できたものの、相手の動きを追うことに気を取られて穂先が遅れた。三体目では逆に前へ出すぎて、自分から槍の間合いを潰しかける。
「近いよ。今、自分から使いにくい距離まで入った」
「分かってる!」
「分かってる人は入らないと思うけど」
「戦ってる最中に言われると腹立つな!」
「じゃあ後でまとめて反省会する?」
「今でお願いします」
そんなやり取りを続けているうちに、《境界師》という職業についても少しずつ見え方が変わってきた。
最初は敵を止めるための能力だと思っていたが、実際にはそれだけではない。紬は《境界線》を引く位置によって敵が進める方向を狭め、別の境界を重ねることで逃げ道まで減らしていく。
境界に進路を阻まれた魔物が別の方向へ動けば、その先には俺が槍を構えている。無理やり敵を動かしているわけではなく、進みにくい場所を一つずつ作り、残った道を選ばせているのだ。
「……もしかして、さっきから俺が狙いやすい場所に誘導してる?」
「やっと気づいた?」
「止めてるだけだと思ってた」
「完全に止められる相手ならそれでもいいよ。でも、強い相手ほど難しくなるからね。それなら動ける方向を減らした方が楽なこともあるの」
言いながら、紬が左手を動かす。
俺の右側にいたスライムの進路を横切るように細い境界が走った。そいつが進む方向を変えたところへ槍を突き出すと、ほとんど狙いを修正する必要もなく中心を貫けた。
「便利すぎない?」
「使う人が上手いからね」
「自分で言う?」
「事実なので」
平然と返されると腹は立つが、冗談だけではないのも分かった。
俺が目の前の魔物に対応するだけで精一杯なのに、紬はその先まで見ている。敵の動きと俺が攻撃しやすい位置、その両方を考えながら、自分たちが危険にならない場所へ境界を引いているらしい。
「この階層なら、お前一人でも余裕なんだろ?」
「まあね」
「じゃあ今日の俺、ほぼ足手まといじゃん」
「新人の付き添いなんだから、最初からそういうつもりだよ」
「言い方が腹立つな」
「事実です、新人くん」
今の俺はLv3で、紬は以前本人から聞いた時点でLv24だった。数字だけではなく、探索者として積んできた経験もまるで違う。
今すぐ張り合える相手ではない。それでも、ずっと下にいるつもりはなかった。
「そのうち追いつくからな」
「私に?」
「そうだよ」
紬は一瞬きょとんとしたあと、面白そうに口元を緩めた。
「じゃあ待ってる」
その余裕が妙に気に入らない。いつか同じ顔でそんなことを言わせないくらいにはなってやろうと、ひそかに決めた。
初回探索ということもあり、今日は第二層へ降りず、階段の位置を確認したところで戻る予定になっていた。俺としては、もう少し戦っていたかった。
ただ、最初の一体で足が止まった人間が文句を言っても説得力はない。ここは素直に紬の判断へ従うことにした。
ところが第一層の奥へ近づくにつれて、紬の歩く速度が少しずつ落ちていった。
「どうした?」
「さっきから《境界感知》にほとんど反応がない」
「魔物がいないなら楽じゃないのか?」
「一、二体ならね。でも、この辺り一帯から急にいなくなるのは変」
言われて周囲の音を意識してみると、少し前まで聞こえていた草むらの物音や遠くの鳴き声が消えている。風が木の葉を揺らす音だけがやけに耳につき、それまで歩いていた森と同じ場所とは思えないほど静かだった。
紬もさっきまでの軽い調子を消し、腰の剣へ手を添えながら慎重に先へ進んでいく。
やがて木々の間に、大きな影が横たわっているのが見えた。
「魔物か?」
「近づきすぎないで。私が先に見る」
紬が前へ出て確認する。
倒れていたのはホーンウルフではなく、身体が一回り以上大きな狼型の魔物だった。濃い灰色の毛並みに、口元から覗く発達した牙。その姿には俺も覚えがあった。
「グレイファング……だよな」
「うん。D級」
協会の依頼掲示板で討伐依頼を見たことがある魔物だ。少なくとも、Eランク探索者の訓練にも使われている第一層へ普通に現れる相手ではない。
しかも、そのグレイファングはすでに死んでいた。背中から脇腹にかけて巨大な爪で抉られたような傷が走り、周囲の地面にはまだ乾ききっていない血が広がっている。
「こいつが第一層まで上がってきたってだけでもおかしいんだよな?」
「うん。でも、それより嫌なのは、この傷をつけた何かが近くにいるかもしれないこと」
紬は傷口を確かめると、それ以上調べようとはせずに立ち上がった。好奇心より安全を優先する判断に迷いはなく、いつもの軽い調子も完全に消えている。
「帰るよ。協会に連絡する」
「分かった」
俺も反論する気にはならなかった。D級魔物をこんな状態にできる相手がいると分かって、それでも興味だけで奥へ進むほど、自分が強くないことは今日一日で十分理解している。
来た道へ戻ろうと身体の向きを変えたところで、右手に持っていた槍から微かな振動が伝わってきた。
「……何だ?」
最初は自分の手がまた震えたのかと思った。だが、すぐに違うと分かった。
槍そのものが、どこかにある何かへ反応するように細かく震えている。同時に、視界へ文字が浮かんだ。
《登録作品との関連対象を検知》
《聖ゲオルギウスと竜》
《関連属性:竜》
表示された最後の一文字を見た瞬間、背中を冷たいものが走った。あの絵について調べたとき、何度も目にした存在――聖人が王女を救うため、その槍を向けていた竜。
「紬。この槍、何かに反応してる」
「何に?」
俺はもう一度表示を確認した。
「……竜」
その言葉を口にした直後、森の奥から低い鳴き声が響いた。
ホーンウルフの遠吠えとはまるで違う。腹の底まで直接揺らすような音が木々の間を走り、それまで静まり返っていた森の空気まで震えたように感じた。
紬の表情が変わった。《境界感知》にも何かが触れたらしく、森の奥へ視線を向けたまま腰の剣を抜く。空いた左手も前へ上げた。
「彩人、下がって。何か来る」
その声には、さっきまでの余裕が残っていなかった。
俺も槍を握り直す。初めて魔物を倒し、レベルが二つ上がって、ほんの少しだけ探索者らしくなれた気でいた。
だが、木々の向こうから太い枝がへし折れる音が響いた。明らかにホーンウルフより大きな何かが、こちらへ近づいている。
その気配を感じた瞬間、さっきまでのわずかな自信は跡形もなく吹き飛んだ。




