第3話 作品理解度
《作品理解度:1%》探索者協会から帰ってきてからというもの、その数字がずっと頭の片隅に残っていた。
《武装特性:未解放》
《固有効果:未解放》
わざわざそんな項目まで用意されている以上、今の俺が《聖ゲオルギウスと竜》から引き出せているものは、たぶんほんの一部でしかない。だったら、作品理解度を上げたら何が起きるのか。
夕食を終えた俺は自室へ戻ると、着替えるより先にノートパソコンを開いた。検索欄へ《聖ゲオルギウスと竜 パオロ・ウッチェロ》と打ち込んだところで、自分が何をしているのか急におかしくなってくる。
「美術の授業でも、こんな真面目に調べたことないぞ……」
昨日までの俺にとって、美術なんて「名画に隠された秘密」みたいな動画をたまに見るくらいだった。ゴッホ、モネ、ピカソ。その辺りなら知っているけど、作品を見せられて何がすごいのか説明しろと言われたら、たぶん三十秒も持たない。
それが今は、自分から絵について調べようとしているのだから、人生というのは分からない。
検索結果を順番に開いていくと、昨日まで「騎士が竜を槍で突いている絵」くらいにしか思っていなかった一枚にも、ちゃんと物語があることが分かった。描かれているのは聖ゲオルギウスという聖人で、竜に差し出された王女を救う伝説の一場面らしい。
「王女だったのか、あの人」
画面に表示した作品を改めて眺める。美術室では槍ばかり見ていたせいで、横に立つ女性のことなんてほとんど気にしていなかった。
さらに作者のパオロ・ウッチェロについて調べていくと、遠近法を熱心に研究していた画家だとか、独特な空間表現だとか、知らない話が次々と出てくる。正直、全部を理解できているとは思わない。
それでも、最初に絵を見たときに感じた「戦っているのに妙に静かだ」という印象が、ただの気のせいではなかったらしいことくらいは分かってきた。槍を構える騎士、竜、王女、その奥に広がる風景。昨日は一枚の絵としてぼんやり眺めていたものが、知識を得るほど意味のある配置に見えてくる。
気づけば、一時間近く経っていた。
「……まさか」
思いついてステータスを開く。
《登録作品:聖ゲオルギウスと竜》
《作品理解度:4%》
一瞬、見間違いかと思った。目を閉じてからもう一度確認しても、表示されている数字は変わらない。
「上がってるじゃん」
協会では1%だった。それが、絵について調べただけで4%まで上がっている。レベルは変わっていないし、《武装抽出》も使っていないのだから、原因として考えられるのは今やっていたことくらいしかなかった。
作品を知ることで、作品理解度が上がる。名前通りと言えばそれまでなのに、仕組みが一つ分かっただけで妙に嬉しい。
そこから先は早かった。聖ゲオルギウスの伝説を別の資料でも調べ、ウッチェロについても読む。同じ題材を描いた別の作品まで見つけると、「画家が違うだけで、同じ竜退治でもこんなに変わるのか」なんてことまで気になり始めた。
もっと知れば、この槍が強くなるかもしれない。最初はそれだけのつもりだったのに、いつの間にか能力とは関係なく、作品そのものを調べるのが面白くなっている。
二時間ほど経ったところで、もう一度ステータスを確認した。
《作品理解度:7%》
「七か」
そこから先は、何を読んでも数字が動かなかった。同じ解説を読み返しても変わらないし、新しい記事を何本か開いても7%のまま。どうやらネットで知識を集め続ければ、そのうち100%になるなんて単純な仕組みではないらしい。
実物を見る必要があるのかもしれない。武器として使い込む必要があるのか、あるいは作品そのものへの理解がまだ浅いのか。考え始めると、試したいことが次々と出てくる。
《武装特性》は何なのか。《固有効果》はいつ解放されるのか。別の絵を登録できるなら、本当に剣や斧まで出せるようになるのか。
「……俺、だいぶハマってんな」
椅子にもたれて天井を見る。認めるのは少し癪だが、仕方ない。結局のところ、俺は今、この職業を試すのが楽しくて仕方なかった。
十八年間、何もなかった反動なのかもしれない。協会にもまともな記録がない職業が自分に発現して、その能力について俺自身もほとんど何も知らない。試せば何かが分かり、その先にはまた分からないことが出てくる。
こんなの、気にならない方がおかしい。
ただ、その先を確かめようと思えば、避けて通れない場所がある。ダンジョンだ。
昨日までなら、自分には縁のない場所だった。紬みたいに早くから戦闘向きの職業が発現して、訓練を積んできた人間が入る場所だと思っていた。
でも今は、俺の手にも武器がある。あの槍が本物の魔物に通用するのか試してみたいし、レベルを上げたら《画装士》がどう変わるのかも知りたい。実戦で作品理解度が動くのかも確かめたかった。
「昨日、まだ決めてないって言ったばっかなんだけどな」
探索者になるつもりはあるのかと紬に聞かれて、あれだけ格好をつけた返事をしたのに、一日も経たずこれだ。
スマホを手に取り、紬とのトーク画面を開く。
『探索者になる』
そこまで打ってから、送信ボタンの上で指が止まった。なんとなく、今これを送るのは負けたような気がする。
明日、直接言えばいい。そう思って文章を消した直後、向こうからメッセージが届いた。
『作品理解度、上がった?』
「怖いんだよ、お前……」
見ていたのかと思うくらいタイミングがいい。
『7%』
送信すると、すぐに既読がついた。
『絶対ずっと調べてたでしょ』
『二時間くらい』
『ハマってるじゃん』
『検証だから』
『はいはい』
画面を見ながら笑ってしまう。否定してはみたものの、もう自分でも説得力がないのは分かっていた。
◇
翌朝、教室へ入ると、紬は自分の席で菓子パンを食べていた。俺を見つけるなり、パンを持っていない方の手を軽く上げる。
「おはよ、美術博士」
「7%で博士なら、美術部全員教授だろ」
「でも二時間調べたんでしょ?」
「お前に教えたの失敗だったな」
鞄を机へ置きながら答えると、紬が楽しそうに笑った。その顔を見て、昨日送らなかった言葉を思い出す。
「紬」
「ん?」
「俺、探索者になる」
今度はちゃんと言った。
紬の手が止まった。もっと驚くかと思っていたのに、数秒こちらを見ただけで、残っていたパンを普通に口へ運ぶ。
「……何だよその反応」
「いや、思ったより早かったなって」
「もっとあるだろ。『え、本当に!?』とか」
「昨日の彩人見てたら、まあそうなるかなって」
「そんな分かりやすかった?」
「槍出してニヤニヤして、帰ってから三回写真送ってきて、夜は二時間絵の勉強。これで探索者になりませんって言われた方が驚く」
何も言い返せない。
紬はミルクティーを一口飲むと、今度は真面目な表情で俺を見た。
「大学は?」
「受けるつもり。探索者になったからって、卒業したらすぐ専業にするかまでは決めてない」
「それならいいと思う」
「止めないんだな」
「止めてほしかった?」
「いや」
「じゃあ止めない」
あっさり返されて拍子抜けしたが、次に口を開いたとき、紬の声からいつもの軽さが消えた。
「でも、職業が出たからってダンジョンが安全になるわけじゃないからね。そこだけは勘違いしないで」
「分かってるよ」
「本当に?」
「ニュースくらい見るって」
日本には今も各地にダンジョンが存在している。内部では時間とともに魔物が増え、放置すれば迷宮活性度が上昇する。探索者が定期的に討伐を行い、魔核や素材を外へ持ち出すことで安定状態を維持しているが、それでも管理に失敗すれば《迷宮氾濫》が起きることもある。
探索者は冒険を楽しむだけの仕事じゃない。そのくらいは知っているが、知識として知っていることと、自分が実際に魔物の前へ立つことが同じだとは思っていなかった。
「ちゃんと講習受けるし、無茶もしない」
「ならいい」
「先輩面してる?」
「してるよ。探索者としては私の方がずっと先輩だし」
「同い年なのに」
「悔しかったら追いついてください、新人くん」
にやっと笑われて、普通に腹が立った。探索者になると決めた理由の中に、今ので一つ余計なものが増えた気がする。
◇
放課後、俺は再び探索者協会を訪れた。
職業を発現したからといって、いきなりダンジョンへ入れるわけではない。探索者として登録するには、基礎講習や安全訓練、魔物素材の取り扱い実習などを受けたうえで、最低限の知識と能力を確認される必要がある。
昨日すでに《武装抽出》そのものの確認を受けていた俺は、新人向けの基礎講習から始めることになった。
ダンジョン内での基本行動、緊急時の救難方法、迷宮活性度の見方、魔物と遭遇した際に絶対やってはいけない行動。学校でも触れるような基礎知識から、探索者にならなければまず聞かないような細かい規則まで、かなりの量を叩き込まれる。
中でも何度も繰り返されたのが、「自分の職業を過信するな」という言葉だった。強力な職業があっても、珍しいスキルがあっても、使う人間が未熟なら普通に死ぬ。
聞くたびに、今の自分に言われている気がした。
一通りの座学を終えると、次は実技へ移った。
最初に案内されたのは、昨日《武装抽出》を試したのとは別の訓練室だった。床には白い線が何本も引かれ、壁際には木剣や模擬槍、盾などが並んでいる。
「黒瀬君は長柄武器の経験なし、と」
担当の教官が端末を確認しながら言った。
「ありません。昨日初めて槍を持ちました」
「なら、今日は本当に基礎だけだ。構え方、間合い、足運び。それと、持ったまま安全に動く方法。実戦技術はその先だと思ってくれ」
「はい」
《武装抽出》で槍を出すと、昨日と同じ重みが両手へ落ちてくる。
手にした瞬間の感覚そのものは悪くない。けれど教官に構えを見てもらうと、早速前の手の位置を直され、後ろ足の向きまで修正された。
「槍は長い。自分だけ見て振ると、味方を巻き込むぞ。まず穂先がどこを向いているかを常に意識する」
言われた通りに構え、正面の標的へ向かって突く。腕だけで伸ばした一回目はすぐ止められ、今度は足と腰を連動させるよう指示された。
何度か繰り返すうち、動かない標的になら穂先を合わせられるようになってきた。しかし教官が標的を横へ動かした途端、こちらの動きは一気に怪しくなる。
槍が長いぶん、狙う場所がずれると修正にも時間がかかる。前へ出ることばかり考えれば姿勢が崩れ、穂先を気にすれば今度は足が止まる。
「……難しいな」
「昨日の突きが上手くいったから、簡単だと思ったか?」
「ちょっとだけ」
「その感覚を今日捨てられたなら十分だ」
教官は笑いながら、今度は槍を持ったまま後退する方法を教えてくれた。
一時間ほどやって身についたのは、まともな構え方と単純な突き、それに前後へ動く基礎くらいだった。到底「槍が使える」と言えるレベルではないが、昨日ただ感覚任せに突いたときとは違う。何ができて、何ができないのかが見えただけでも収穫だった。
武器訓練の後は、討伐済みの低級魔物を使った解体実習に移った。協会が教材用として用意した個体を前に、角や牙の取り外し方、魔核を傷つけずに取り出す手順、毒を持つ種類の扱い方まで一通り教わる。
動画で見たことはあっても、実物はやっぱり違った。毛並みの感触も、皮膚の硬さも、刃を入れたときの抵抗も、画面越しでは分からない。
最初の一体はかなり手間取ったが、二体目になる頃には手順も見えてくる。それでも、生きて動いている魔物を相手にするのとはまるで別物なのだろう。
紬が朝に言っていた言葉を思い出した。
職業が出たからって、ダンジョンが安全になるわけじゃない。
槍の訓練を受けた今なら、その意味が昨日より分かる。武器を出せることと、それを使って戦えることはまったく別だった。
すべての講習と確認試験を終えた頃には、外はもう暗くなり始めていた。受付前へ戻ると、紬が待合スペースの椅子に座ってスマホを眺めている。
俺に気づくと、紬は画面を消して立ち上がった。
「長かったね」
「槍の訓練まで追加された」
「どうだった?」
「昨日の俺、ちょっと調子乗ってたかもしれない」
「知ってた」
「そこは否定しろよ」
笑いながら言い返していると、担当職員がこちらへやってきた。
「黒瀬彩人さん。こちらが探索者証になります」
差し出されたカードを受け取る。
黒を基調とした表面には俺の名前と探索者番号、その下に《探索者ランク:E》と記されていた。職業名やレベルは載っていない。
「これで俺も探索者ですか?」
「登録上はそうですね。ただしEランクの間は立ち入り可能なダンジョンや階層に制限があります。初回探索については、経験者との同行を強く推奨しています」
「経験者ならいます」
横から紬が口を挟んだ。
「お前が答えるなよ」
「他に誰かいる?」
「いないけど」
紬は満足そうに頷いた。
俺は受け取ったばかりの探索者証へ目を落とす。そこに記されているランクは、たった一文字のEだった。
昨日までなら自分とは何の関係もない記号だったのに、今はそれが探索者としての俺のスタート地点になっている。
「日曜、空いてる?」
紬に聞かれて顔を上げる。
「空いてるけど」
「じゃあ行こっか」
「どこに?」
「ダンジョン」
分かっていたはずなのに、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
「もう?」
「もうって、ちゃんと講習受けたでしょ。それに最初は都内の初心者向け。長く管理されてるE級迷宮だから、私が一緒なら危険はかなり抑えられるよ」
「絶対安全とは言わないんだな」
「そんなこと言ったら嘘になるから」
さらっと答える。その辺りは妙に紬らしい。
「怖くなった?」
顔を覗き込まれ、俺は少し考えた。
「……怖いかどうかは、まだ分からない」
「うん」
「でも、それより早く試したい」
「何を?」
「槍。今日やったのが、本当に動く相手にも通じるのか」
即答すると、紬が目を細めた。
「やっぱり楽しみにしてるじゃん」
「悪いかよ」
「別に。むしろそのくらいの方が彩人っぽい」
俺は探索者証を財布へしまいながら、右手を軽く握った。
今は何もない。それでも、あの槍の重さはもう覚えている。
《聖ゲオルギウスと竜》。作品理解度は7%で、《武装特性》も《固有効果》もまだ眠ったままだ。
ダンジョンへ入れば何か分かるかもしれない。レベルが上がるかもしれないし、実戦でしか見えないものがあるかもしれない。
そう考えると、不安より先に期待が膨らんでくる。十八年間、職業が出るのを待つことしかできなかった俺が、今度は自分から未知の場所へ入ろうとしている。
たった二日で、随分変わったものだと思う。
でも、不思議と嫌じゃなかった




