# 第099話 あまぎっち
翌朝、天城が目を覚ますと、朱音の姿はすでになかった。机には、冷蔵庫の中身を勝手に全部食べないこと、洗濯物を色で分けること、帰宅時刻が分かったら連絡することが、短い箇条書きで残されている。
命令書なら破り捨てていた。だが生活規則は昨夜、自分も了承したものだったため、天城は紙を机へ戻し、冷蔵庫から自分で買った分の朝食だけを取り出した。
仕事用端末には、午後四時から解析室へ来るよう綾乃の連絡が入っていた。天城は帰宅予定を短く朱音へ送り、既読がついたことだけを確認して部屋を出た。
◇
解析室には、天城以外の五人が先に揃っていた。奏と零士が長机の中央へ三つの記録媒体を並べ、小春は救助対象の経過記録を確認し、ミナは椅子を揺らしながら解析の開始を待っている。綾乃が集合を命じ直さなくても、各自が自分の場所へ着いていた。
「遅れてへんな。帰宅予定も連絡したか?」
零士は癖のある黒髪を片手で押さえ、細い黒縁眼鏡の奥から天城を見た。制服の襟元を少し緩めた学校帰りの姿だが、解析端末の前は最初から彼の席である。
「何でてめぇに言う必要がある」
「同居人がおるなら、仕事で帰れん時に連絡する。現場へ出る人間の基本や。先輩として、新人が余計な揉め事を増やさんよう気に掛けとる」
「もう送った」
「お、えらいやん。あまぎっち成長記録へ一個追加や」
「殺されてぇのか」
天城の声が低くなっても、零士は楽しそうに笑うだけだった。ミナも「あまぎっち、今日は満点」と重ね、小春は口元を隠す。奏だけは二人のやり取りを待たず、記録媒体の外装へ指を当てた。
「始める」
その一言で、零士の視線が画面へ戻った。軽口を切る命令は必要ない。既存の班で共有されてきた仕事の切り替えが、天城の都合と関係なく働いている。
初任務で保全した三つの媒体のうち、一つは内蔵処理によって保存領域の一部を失っていた。だが奏が物理的な接続履歴を残し、零士が外部通信を遮断したため、起動時刻と認証要求の痕跡までは消えていない。残る二点にも、同じ多重消去の仕組みが組み込まれていた。
「開けりゃ分かるんじゃねぇのか」
「普通に電源入れたら、その瞬間に残りも消えるかもしれへん。壊しても同じや。中身まで潰れたら、誰が消したか追えんようになる」
「なら、消してる奴を先に潰せ」
「居場所が分からんから、これから探すんやろ。殴る順番まで先輩が教えたらなあかん?」
天城が睨むより先に、零士は記録媒体を透明ケースへ収めた。能力を発動すると、ケース内の動作灯だけが点き、解析端末の通信表示は灰色へ変わる。補助電源と内部処理を生かしたまま、外部へ向かう信号だけが《電磁静域》に塞がれていた。
数秒後、動作灯が激しく点滅する。保存内容へ触れるより先に、外部の認証先を探そうとする処理が動いた。しかし信号はケースの外へ出ず、解析端末へ複製された時刻情報だけが新しい画面へ並ぶ。
「今のが遠隔消去か?」
「そこまでは断定せん。確認できた事実は、起動直後に外部認証を求めたことと、応答がない状態で消去待機へ移ったこと。この二つや」
零士が事実と推測を分けると、奏は搬出予定の断片に残った能力痕跡を隣へ重ねた。二人は互いの説明を繰り返さず、時刻と物理記録の一致した場所だけを残していく。
「搬出記録と認証が開く時刻は同じ。ただし保存時刻は偽装されてる」
「端末内部の経過記録と合わせたら、実際の認証時間は三十六時間後や。相手の名前も移送先もまだ分からんけど、この時間に同じ中継先へ接続しに来る可能性はある」
「遠隔消去を受けずに追える?」
奏の問いへ、零士は画面から目を離さず頷いた。軽い口調は残っていても、失敗の可能性を笑って誤魔化す様子はない。
「消去信号と認証応答を分けられたらな。失敗したら残りも消える。成功しても、中継先から先まで辿れる保証はない」
万能だと誇る説明ではなかった。できること、できないこと、失敗した時に失うものを班へ先に渡している。奏も綾乃も、その限界を知った上で次の調査を組み始めた。
天城には、同じ結果を力で作る方法がない。端末を壊さず、内側の処理を生かしたまま、外から伸びる手だけを止める。初任務で班の動きへ合わせた時と同じく、零士の領分へ踏み込むより、終わるまで待つ方が敵へ近づけた。
「使えねぇと思ったら切るぞ」
「それはお互いさまや。せやけど初仕事で、俺の合図を二回とも待てた。新人にしちゃ悪くなかったで」
「てめぇの合図じゃねぇ。必要な時間を待っただけだ」
「それを現場じゃ連携って呼ぶんや」
零士は天城の反発を否定せず、解析結果を班の共有欄へ送った。言葉を直させるより、天城が次も同じ判断を選べるよう結果を残す。年下の先輩は軽口の裏で、新人の扱い方を知っていた。
「そういえば、あまぎっち」
「その呼び方をやめろ」
「瀬名直人、知っとるやろ。俺、同じクラスやねん」
天城の視線が、記録媒体から零士へ戻った。その反応を見逃さず、零士は面白そうに口角を上げる。
「お。なおとっちの名前には食いつくんやな。めっちゃ気になっとるやん」
「あいつは次に俺が倒す」
「次、ねえ」
零士は言葉の続きを求めるように天城を見たが、綾乃が軽く机を叩いた。からかいを許すことと、必要以上に事情へ踏み込むことは別らしい。
「羽柴。私的な聞き取りは後にしてください」
「了解。ほな一個だけ。なおとっちは、しばらく治療優先や。病院へ行くなら面会時間を確認して、手土産持って、殴り合いは退院後。先輩からの親切な助言やで」
「誰が見舞いに行くと言った」
「そこは否定するんやな」
眼鏡の奥の目が笑い、天城の眉間へ深い皺が刻まれた。ミナまで肩を震わせたが、零士はそれ以上直人の話を広げず、解析端末へ新しい監視条件を入力する。からかっても、他人の事情を勝手に暴くところまでは進まない。
綾乃は三十六時間後の認証時刻を次の監視期限に設定した。零士が通信を捕捉し、奏が既存の残留情報と照合する。接続先を限定できた場合だけ、六人で現場へ動く方針だった。
「初回案件と今回の解析対応をもって、天城さんの仮配属を終了します。今後は黒瀬班の現場制圧担当として継続参加してください」
「ようこそ、後輩あまぎっち」
「誰が後輩だ」
「班に入った順番は変わらん。諦めて先輩を敬い」
奏と小春は静かに受け入れ、ミナも次はもっと素早く自分の指示を待てと笑った。天城は五人の顔と、消されずに残った記録を順に見る。自分を中心に作られたチームではない。それでも、その出来上がった流れの中へ、自分の役割が一つ加えられた。
「俺にできねぇ仕事をやれるなら使える。呼び方は殺す」
「呼び方だけ殺すって、器用なこと言うなあ」
零士は天城を正式な班共有欄へ登録し直した。数秒後、天城の端末には解析予定とともに、短い確認文が届く。
『ほな、次もよろしゅう。後輩あまぎっち』
天城は舌打ちしたが、通知を切らなかった。殴って開ける扉の先だけでは届かない敵へ向かうため、世界最強の新人には、鬱陶しいほど面倒見のいい先輩ができた。
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