# 第098話 許さない同居人
朱音から返ってきた最初の指示は、洗濯機へ触るなというものだった。翌朝九時、天城が指定された駅前へ行くと、朱音は大きめの買い物袋を片手に待っていた。
「昨日から何か食べた?」
「食ってねぇ」
「どうして」
「冷蔵庫に何もなかった」
朱音は眉間を押さえた。金はあり、店の場所も端末で調べられる。それでも天城には、朝になれば腹が減るから前日に食べ物を用意するという発想そのものがなかった。
「先に買い物。洗濯はその後」
「洗剤だけ寄越せば終わるだろ」
「柔軟剤と洗剤の区別もついてない人に、何を寄越せっていうの」
反論できず、天城は舌打ちして朱音の後を歩いた。自分が仕組みを知らないことを、力の差と同じように突きつけられた気分だった。
◇
量販店の生活用品売り場には、似た形の容器が何列も並んでいた。天城は一番大きい物を取ろうとしたが、朱音は裏面の表示を見せ、洗濯機の種類と使用量が違うと説明する。
「こんなもん、全部同じでいいだろ」
「あなたの仕事道具も、全部同じ金属でいい?」
「違ぇに決まってんだろ」
「私には同じに見える。知らないって、そういうことでしょ」
天城は容器を棚へ戻し、朱音が指した物を自分で取り直した。次に食品売り場へ移ると、肉と水だけを籠へ入れようとし、包丁、調味料、保存容器が必要だと止められる。賞味期限と消費期限の違いも、冷蔵と冷凍の使い分けも知らなかった。
施設では、時間になれば食事が出た。任務へ出れば必要な物は端末の指示どおりに用意されていた。強くなるための判断はいくらでもしてきたのに、明日の朝に何を食べるかを考えたことはない。
「全部買えばいい」
「使わずに捨てるなら、お金を払ってゴミを増やすだけ」
「足りなくなるよりマシだ」
「足りなくなったら、また買いに来ればいいの」
また来る。その前提が、天城には妙に馴染まなかった。一度で任務を終わらせるように生活を揃えることはできず、今日の続きが明日にもあるらしい。
会計では天城が全額払おうとしたが、朱音は自分の飲み物と食事を籠から分けた。彼女は世話をされに来たのでも、天城の報酬を当てにしているのでもない。貸し借りを曖昧にしない姿勢は、昨日までと変わらなかった。
◇
契約住居へ入った朱音は、動かない洗濯機より先に、机へ放られていた生活案内を拾った。ゴミの分別表には途中まで目を通した形跡があり、設備を殴った跡はない。
「本当に壊さなかったんだ」
「壊したら俺の金だ」
「理由はそれだけ?」
「他に何がある」
天城が洗剤の投入口を覗き込んでいる間に、朱音は契約住居の規則を読み進めた。組織名は記されず、管理代行会社の連絡先と、同居者一名まで申請できるという項目だけがある。
「ここ、二人で住めるんだ」
「だから何だ」
「私も住む」
天城が振り向いた。驚きより先に、相手の正気を測るような視線が朱音へ向く。
「俺がお前の兄貴を殺したこと、忘れたのか」
「忘れられるわけないでしょ!」
朱音の声が狭い部屋へ鋭く響いた。握った生活案内が歪み、抑え込んでいた感情が指先から紙へ伝わっていく。
「許したから一緒に住むんじゃない。あなたがまた誰にも見られない場所へ消えて、何もなかったみたいに人を殺すのが嫌なの。お兄ちゃんの名前を覚えているのか、今度は何を選ぶのか、私が毎日見てる」
「監視するってことか」
「そう。あなたが実験の被害者だったことも、私のお兄ちゃんを殺したことも、どっちも勝手に消させない」
憎い相手と同じ屋根の下へ入ることが、正しいのかは朱音にも分からない。それでも遠くから記録だけを追っていた頃へは戻れなかった。天城を理解することが兄への裏切りではないのなら、許さないまま見続けるしかない。
「私にも自分の生活や用事がある。あなたの世話だけして暮らす気はない。家事も生活費も分けるし、仕事の秘密を聞くつもりもない」
「俺が断ったら?」
「毎日、生存確認を送りつける」
「面倒な女だな」
「今さら気づいた?」
天城は朱音をしばらく見つめた。自分を恐れず、善人だとも言わず、兄の死を忘れないために隣へ来るという。施設にも、以前の任務先にもいなかった種類の人間だった。
「好きにしろ」
「後悔するぞ」
「もうしてる。あなたを知ろうと思った時から」
朱音は歪んだ生活案内を伸ばし、天城の前へ置いた。兄を奪った男を知ろうとする自分への迷いは消えていない。それでも、見ないふりをして再び誰かが奪われる方が、彼女には耐えられなかった。
許可を得た朱音は、その場で居住者追加の申請を送った。管理側は本人確認と利用規則への同意だけを求め、朱音を組織員や天城の保護者にはしない。成人の同居者として登録し、任務情報へのアクセスも与えない条件だった。
夕方には承認が届き、朱音は必要な荷物を入れた鞄を一つ持って戻ってきた。可動式の間仕切りで居室を分け、追加された寝具を奥へ置く。どちらの場所へ勝手に入らないこと、帰れない時は連絡すること、食費と消耗品は記録して分けることを、二人は最初の生活規則として決めた。
◇
洗濯機の前で、朱音は洗剤の量だけを教え、残りの操作は天城にやらせた。今度は警告音ではなく水の流れる音が響き、透明な蓋の下で衣服が回り始める。
「動いたぞ」
「洗濯機なんだから、動くよ」
「俺が動かした」
「はいはい」
夕食は、それぞれ自分で選んだ総菜を同じ机へ並べた。朱音は天城の向かいへ座ったが、家族のように笑うことも、兄のことを水に流すこともない。天城も気まずさを埋めようとはせず、食べ終えた容器を分別表と見比べた。
その時、仕事用端末へ班の共有通知が届いた。初任務で回収した媒体の一部に、多重消去と外部通信の痕跡が残り、零士が翌日の解析立ち会いを求めている。末尾には、綾乃の事務的な集合時刻と並んで、《遅刻すんなよ、あまぎっち》という余計な一文まで付いていた。
「また仕事?」
「班のうるせぇ奴が呼んでる」
「同じチームの人?」
「先輩気取りのガキだ」
「帰る時間は?」
「知らねぇ」
「じゃあ、分かったら連絡して」
天城は面倒そうに端末を伏せた。それでも集合通知にも帰宅連絡にも、拒絶は返さない。部屋には二人分の食器と衣服があり、仕事先には自分より先に組んでいた班があり、明日帰る時刻を知ろうとする人間がいる。世界最強の無職はその夜から、兄を殺した自分を決して許さない女と、同じ家で暮らし始めた。
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