# 第094話 名のない雇い主
長机の奥にある扉は、貸会議室の内装へ無理に継ぎ足したように見えた。壁と同じ灰色で、取っ手も鍵穴もなく、綾乃から送られた一時鍵だけが端末の画面で明滅している。
「ここから先は一人です」
「俺を閉じ込める気なら、壁ごと出るぞ」
「その場合、修繕費を請求します」
綾乃はいつもの調子で答え、小春たちも止めようとはしなかった。天城は端末を扉へ近づける。短い電子音の後、継ぎ目すらなかった面が内側へ開いた。
先にあったのは、照明を落とした狭い通路だった。十歩ほど進んだ先で一度折れ、さらに同じ色の扉がある。背後の扉が閉じた瞬間、端末から時刻以外の表示が消え、天城が振り返った時には、歩いてきたはずの通路が一枚の壁で塞がれていた。
「くだらねぇ手品だ」
壁へ拳を当てても、恐怖や警戒はなかった。ただ、殴れば壊せるかどうかを測るように材質を確かめ、まだ壊す理由がないと判断して手を離す。前方の扉は、触れていないのに音もなく開いた。
部屋には机が一つと、向かい合う椅子が二脚だけ置かれていた。奥の椅子には男が座っている。背後から落ちる白い光のため、輪郭は見えても顔立ちまでは判別できず、衣服も装飾のない暗色で統一されていた。
「座ってくれ」
「名前を言え」
「今は明かせない」
「なら、てめぇが立て。見下ろされるのは気に入らねぇ」
男は反論せず、椅子から立ち上がった。声に加工された響きはない。しかし年齢を特定できるほど高くも低くもなく、天城の記憶にある誰とも結びつかなかった。
「これでいいか」
「最低限だ」
天城は座らず、机を挟んで男と向き合った。男も座り直さない。世界最強と呼ばれた等級五を前にして、呼吸にも重心にも目立った乱れはなかった。
「俺を回収させたのは、てめぇか」
「回収と治療へ至る経路は用意した」
「事件の記録を消したのも」
「表から見えなくした。消したわけではない」
言葉を選んだ返答だった。天城の目が細くなる。男は責任を否定せず、それでも何をどこまで動かしたかまでは明かさない。
「前の端末で、俺に殺す相手を送っていたのもてめぇか」
「その問いには答えない」
「俺が殺した奴を選んだかもしれねぇ男を、信用すると思うか」
「思わない。君が必要な時に私を疑うことも、契約を破る根拠があれば敵に回ることも、条件へ含めている」
否定すれば嘘かもしれず、肯定すればこの場で戦いになる。男はどちらにも逃げず、答えそのものを渡さなかった。天城の領域へ敵意は浮かばないが、それを潔白の証明に使えるほど愚かでもなかった。
「なぜだ」
「あのまま表の手続きへ渡せば、君は拘束される。君が持つ情報へ届く前に、複数の組織と国家が身柄を奪い合った可能性も高い。事件の背後にいる者は痕跡を切り、残った被害者へ再び手を伸ばしただろう」
「俺を助けたって話か」
「違う。君を使える状態で残した」
善意を装わない答えだった。天城は怒りも笑いもせず、相手が続けるのを待つ。自分を道具として扱うこと自体は、施設でも以前の仕事でも変わらない。違うのは、その男が目的を隠したまま、天城自身へ選ばせようとしていることだった。
「何に使う」
「表の制度だけでは間に合わない事件へ向かわせる。人質を救い、証拠を回収し、次へ繋がる者を残す。敵を殺すことが最善なら止めないが、殺す方が早いという理由だけでは認めない」
「綺麗事にしちゃ随分汚ぇな」
「正義を名乗るつもりはない。救える者を救うことと、正しい組織であることは同じではない」
男の言葉には迷いがなかった。人を救うという結果さえ、自分の目的へ組み込んでいる。その冷たさは天城にも分かったが、善人の顔で命令されるよりはましだった。
「黒瀬たちに、全部話してるのか」
「案件を選ぶために必要な情報は渡す。私が知るすべてではない」
「隠した情報のせいで、現場の判断が変わったら」
「契約違反として撤退できる。黒瀬にも同じ権限を与えている」
「てめぇに都合の悪いこともか」
「君たちが判断するために必要なら、そうだ。ただし情報源を守るための制限は残る」
何でも話すとは言わない。だが、何も知らずに対象だけを殺していた頃と同じ契約でもなかった。天城は最初の案件資料にあった二人の名前を思い出す。知らない人間であり、助けたいと願った相手でもない。それでも、仕事の結果には最初から二人の生存が含まれていた。
「君がこの扉を開けた理由も、生活のためだけではないはずだ」
「分かったように喋るな」
「自分より弱い相手に敗れた理由を、君はまだ強さとして説明できていない。敵を壊す以外の結果が求められる場所なら、その答えを確かめられるかもしれない」
天城の周囲で、空気が僅かに軋んだ。男は利用できるものとして、住居や報酬だけでなく、直人に敗れた後へ残った疑問まで机上へ並べている。気に入らないやり方だったが、的外れではなかった。
「俺の頭ん中まで、てめぇの道具にできると思うな」
「考えて選ぶのは君だ。私は選択肢を置いている」
「俺が断り続けたら」
「報酬は発生しない。滞在場所も契約終了後に返してもらう。それだけだ」
「俺を殺すか、また記録から消すとは言わねぇのか」
「君が敵になるなら対処する。だが、仕事を断ることは敵対ではない」
天城は短く息を吐き、初めて机へ片手を置いた。直人に敗れた理由を、まだ納得したわけではない。守るものを増やせば強くなるという話なら、そんなものは要らなかった。
だが、敵を壊す以外の結果を求められる場所なら、自分の力に何が足りなかったのかを確かめられる。誰かに救われるためでも、奪ったものを帳消しにするためでもない。
「一つ勘違いすんな」
天城の指が、机上へ表示された契約確認欄を押さえた。
「俺はてめぇに従うんじゃねぇ。俺の力を何に使うかまで、てめぇに決めさせる気もない」
「それで構わない。命令を待つだけの者なら、ここへは呼ばなかった」
「ハッ――気に入らねぇ男だ」
「互いに好意は契約条件ではない」
天城は署名欄へ自分の名を入力した。契約成立の表示と同時に、消えていた時刻以外の機能が端末へ戻る。男の名も、所属も、現在地も、最後まで画面には現れなかった。
「最初の仕事を受ける。あの二人を連れて帰って、仲介役は生かして捕まえる」
「理由を聞いても?」
「殺す必要があるかは、顔を見てから俺が決める。そのために生かす」
救うためだとは言わない。それでも二人の生存を最初に口にした天城を、男は訂正しなかった。
開いた扉を抜けると、天城はいつの間にか元の会議室前へ戻っていた。綾乃、小春、奏、ミナ、零士が、先ほどと同じ席で待っている。誰も採用を祝わず、綾乃が案件端末を差し出した。
「回答を」
「受ける。人質を見つけるまで待つ。見つけた後は、俺の邪魔をすんな」
「組織との契約は成立。黒瀬班への現場配属は、初回案件まで仮やな」
零士が天城の通信機へ班内回線を追加し、その隣でミナが腕を組んだ。
「私たちはもう組めてるからね。合わせられないなら、外れるのはあんた」
ミナの返答に、天城は口の端だけを上げた。綾乃から渡された端末には、出発時刻、集合場所、契約中の滞在区画が表示される。以前の端末と違い、対象を示す一方通行の命令ではなく、受諾、拒否、質問の欄が同じ大きさで並んでいた。
天城は画面を閉じる前に、朱音の連絡先を開いた。雇い主も組織も案件も明かさず、《仕事を決めた。借りは返す》とだけ送る。少しして届いたのは、祝福でも許しでもなかった。
《分からないまま決めてない?》
《必要なことは聞いた》
《なら、帰ってから返して》
死ぬなとは書かれていない。それでも、金を返す時までを仕事の後へ置いた一文だった。天城は返事を打たず、通知も消さないまま端末をポケットへ収める。
仲間ではなく、出来上がった班と、その一員になれるかを試される新人。帰る場所も一時的に借りただけだった。それでも天城が自分で選んだ最初の仕事が、今度こそ始まった。




