# 第092話 仕事の条件
翌朝、天城皇牙は端末の振動で目を開いた。簡易宿泊棟の薄いカーテンから朝の光が差し、机には空になった弁当の容器が残っている。施設の起床時刻を告げる照明も、次の対象を示す通知もない朝は、目覚めた後に何をするかを誰も決めてくれなかった。
《起きてる?》
表示された名前は篠原朱音。昨夜、自分以外の手で初めて登録された連絡先だった。
天城は《うるせぇ》とだけ打ち込んだ。すぐに既読がつき、《返事にはなってる。宿を出る時に連絡して》と返ってくる。命令なら無視したが、朝に返事をすると決めたのは自分だった。舌打ちしながらも、端末の電源は切らなかった。
宿泊棟を出る時、天城は借りた金額が記された画面と共に《出た》と送った。朱音からは間を置かず、《この後は?》と返ってくる。
《仕事の話を聞く》
《誰から、何の仕事?》
《知らねぇ。だから聞きに行く》
入力欄の点滅が何度か続いた後、《分からないまま決めないで》という一文だけが届いた。天城は返事をせずに画面を閉じたが、その通知を削除もしなかった。
洗面台の鏡には、無造作な白髪と不機嫌な顔が映っている。昨夜借りた金額も、十時の指定場所も覚えていた。その二つに繋がりがあるだけで、正体不明の誘いへ行く理由としては十分だった。
◇
指定されたのは、中央区画から外れた業務街にある貸会議室だった。表の案内板には予約中としか表示されず、企業名も担当者名もない。天城が扉を開けると、灰色のスーツを端正に着た女が、長机の向こうで薄い書類端末を揃えていた。
「時間どおりですね。天城皇牙さん」
年齢は二十代前半ほど。化粧も装飾も控えめで、声には威圧も愛想もない。会社員にしか見えない女だったが、天城が入っても呼吸の速さは変わらなかった。
「てめぇが昨日の通知を送ったのか」
「通知を用意した者とは別です。私は黒瀬綾乃。あなたが仕事を受ける場合、現場班の責任者になります」
「誰の指示で来た」
「現時点では開示できません」
「なら帰る」
天城が踵を返しても、綾乃は引き止めなかった。扉へ手が届く直前、背後から平坦な声が続く。
「拘束も命令もありません。帰れば今回の話は終わりです。ただし、報酬経路と当面の滞在場所も得られません」
「脅してるつもりか」
「取引条件を伝えています。あなたには力があり、私たちにはその力が必要な案件がある。あなたには仕事と生活基盤が必要です。互いの事情が一致しているだけです」
善意も更生も口にしない説明だった。天城は扉から手を離し、椅子には座らず長机の前へ戻る。
「仕事は何だ」
「公的機関が通常の手続きでは対処しにくい能力犯罪です。高位能力者、違法実験、人身売買、殺し屋。表の捜査が届く前に証拠や人質が消される案件を扱います」
「正義の味方ごっこか」
「違います。必要なら違法な侵入も行い、対象を殺害する場合もある。胸を張って公表できる仕事ではありません」
綾乃は視線を逸らさずに答えた。天城が笑わないのを確認すると、契約条件の画面を長机へ表示する。
「案件を受ける前に、判明している対象情報、危険、目的、達成条件を提示します。受諾前なら拒否できます。受諾後も、開示されていない重大情報が判明した場合は撤退を提案できます」
「提案だけか」
「現場班長は私です。全体の撤退判断は私が持ちます。ただし、あなた自身が戦闘を続けられないと判断した時まで、命令で立たせるつもりはありません」
「俺に勝てもしねぇ奴が、俺を止めるのか」
「あなたに勝つことは、班長の採用条件ではありません」
声色は変わらない。それでも綾乃は、世界最強と噂された男の力を否定せず、その力が決定権のすべてではないと言い切った。
「報酬は案件ごと。医療費、装備費、移動費は別枠です。契約期間中の滞在場所も用意します。ただし、組織名義の資産であり、あなたの所有物にはなりません」
「俺が今まで殺した奴はどうなる」
綾乃は初めて、答えるまでに僅かな間を置いた。責任を問われることを恐れている顔ではない。契約が過去を消す抜け道かどうか、天城は事実として確かめていた。
「この契約は免責でも赦免でもありません。あなたの過去を正当だったと認定する権限も、罪を消すという条件もない。私たちは、これから行う仕事と報酬についてだけ契約します」
「上等だ。善人にするなんて言い出したら、机ごと潰してた」
「備品の破壊は報酬から差し引きます」
冗談ではない声で返され、天城は机へ置きかけた手を離した。昨夜覚えた宿泊費と食事代に、さらに借りを増やす理由はなかった。
「殺すかどうかは」
「案件の目的と現場状況によります。必要な殺害を禁じませんが、あなたが気に入らないという理由で殺す権利は与えない。拘束や聴取が必要な対象を勝手に殺せば、契約違反です」
天城の目に鋭い光が宿る。施設でも等級六計画でも、対象を示された後に理由を尋ねる必要はなかった。殺せば報酬が入り、強さへ繋がる。それだけで成立していた。
「対象の名前は」
「案件ごとに提示します」
「何をした奴か。誰に何をしたのか、証拠はどこまである」
綾乃の指が画面上で止まった。能力、警備、逃走経路ではなく、天城が最初に確認したのは、これまで切り捨てていた部分だった。
「確認済み事実と推定を分けて提示します。被害者情報は必要範囲のみ。知った情報の外部利用は禁止です」
「最初から全部出せ。等級と場所だけ渡して、後は潰せって仕事なら受けねぇ」
「理由を聞いて、殺す価値があるか決めるのですか」
「俺が何をするかを決める。てめぇらの正しさに従う気はねぇ」
それは反省でも、被害者のための誓いでもなかった。篠原達哉の名を覚えたことで、天城は殺した後に残るものを一つだけ知った。次も同じ道を選ぶにしても、誰かが削った情報だけで選ばされることを拒んだにすぎない。
「承知しました。その条件は受け入れます」
「随分簡単だな」
「質問せずに命令だけを求めるなら、あなたは採用できませんでした」
綾乃は契約画面を閉じ、別の扉へ視線を向けた。天城が入ってきたものとは反対側。曇りガラスの向こうに、複数人分の影が待っている。
「残る条件は一つです。任務は原則として班で行います。追跡、通信遮断、侵入、人質救出、治療を別の担当者が受け持ち、あなたは主対象を制圧する」
「邪魔だ。俺一人で足りる」
「敵を倒すだけなら、そうでしょう」
綾乃は初めて、ほんの僅かに目を細めた。
「ですが、私たちの仕事は敵を倒した後にも残ります。人質を生かし、証拠を持ち帰り、次の被害を止める。あなた一人でできないことを認められないなら、ここで終わりです」
直人との戦いで突きつけられた、強さの使い方という言葉が蘇る。天城は不快そうに舌打ちしたが、帰るために扉へ向かうことはなかった。
「そいつらが使えるか、俺が決める」
「ええ。向こうも、あなたを使えるか決めます」
綾乃が操作すると、曇りガラスの扉が静かに開き始めた。
世界最強の男が仕事を選ぶために最初に突きつけられたのは、敵ではなく、仲間と働けるかという問いだった。




