# 第091話 世界最強の無職
「帰る場所がないって、どういう意味」
朱音が問い直しても、天城は面談室の出口へ向かう足を止めなかった。中央区画の複合施設は営業終了が近く、長い廊下には清掃機械の駆動音だけが響いている。白い髪の背中を追い、朱音はエレベーターの前でその腕を掴んだ。
「言ったとおりだ。戻る施設もねぇ。今まで使ってた回線も金も、全部切られた」
「住所は?」
「施設」
「そこには戻れないんでしょう。じゃあ、今の住所」
「ねぇよ」
天城は所有者情報のない端末を取り出した。残っているのは最低限の通信機能と、面談室までの経路履歴だけで、報酬を受け取っていた専用口座への認証は終了している。朱音には、彼が困窮を隠して強がっているようには見えなかった。住所も金も寝床も、強さに関係がないから考えていないだけだった。
「今夜は、どこで寝るつもりだったの」
「夜になりゃ、その辺で寝る」
「学園都市のど真ん中で?」
「襲ってくる奴がいたら、返り討ちにすりゃいい」
「そういう問題じゃない!」
閉じかけたエレベーターの扉が、朱音の声を拾ったように開き直した。天城はうるさそうに耳へ指を入れたが、乗り込まずに彼女を見下ろす。
「兄の仇に宿代でも出す気か。随分と親切だな」
「貸すだけよ。明日、返してもらう」
「仕事も金もねぇって話をした直後だろうが」
「なら働いて返しなさい」
「何をすりゃ仕事になる」
「……本気で聞いてるの?」
「今までは対象を潰せば金が入った。それ以外は知らねぇ」
朱音は言葉を失った。天城が生活へ無関心なのではなく、生活を成り立たせる過程そのものを教えられていない。誰かが決めた対象を殺し、数字だけの報酬を受け取り、次の指示まで施設へ戻る。それを仕事と呼んできた男に、明日から普通に働けと言っても届くはずがなかった。
「それは、あんたが選んだ仕事じゃない」
「分かった顔すんな」
「分かってないから聞いてるのよ。次に何をして金を受け取るかは、少なくとも自分で確かめて決めなさい」
天城の目に不快さが浮かんだが、否定の言葉は出なかった。自分で選んだと断言した等級六計画とは違い、それ以前の暮らしは、命令と報酬を疑わないことだけで成り立っていた。
朱音はそこで言葉を切り、掴んでいた腕を離した。兄を殺した相手へ寝床を用意する。その形だけを見れば、自分でも吐き気がするほど歪んでいる。それでも、達哉の名前を一度言わせただけで天城を夜の街へ消せば、何者かが再び拾い上げ、今までと同じ場所へ戻すかもしれない。
「勘違いしないで。あんたを助けたいわけじゃない。勝手に消えて、何も知らないまま終わらせることを許さないの」
「俺を見張るつもりか」
「等級五を私が見張れると思う?」
「思わねぇな」
「だから約束させる。今夜は指定した場所に泊まる。端末の電源を切らない。誰かを殴らない。明日の朝、私の連絡に返事をする」
戦闘能力を持たない女が、現存最強と噂された男へ四つの条件を突きつける。天城はその無謀さを笑わず、面倒そうに眉を寄せた。
「俺が従う理由は」
「私には、まだ兄のことを話す理由がある。あんたは、それを聞いた後で何が変わるか自分で決めるって言った。今消えたら、決める前に逃げたのと同じよ」
琥珀金色の目が細くなる。命令なら踏み潰せた。だが、自分で口にした言葉を逃げ道へ変えることは、敗北を誤魔化すのと同じだった。
「……一晩だけだ」
「それでいい」
◇
朱音が端末で取ったのは、駅に近い簡易宿泊棟の個室だった。華美ではないが、施錠できる扉と寝台、浴室があり、路上よりは遥かにましだった。受付へ向かう前、朱音は一階の売店へ天城を連れていく。
「夕飯は?」
「いらねぇ」
「最後に食べたのは」
天城が黙った。医療区画で目を覚ましてから、栄養剤以外を口にした記憶がないらしい。朱音は弁当の棚を指し、どれか選ぶよう促した。
「何でも同じだろ。腹に入れば動ける」
「同じじゃない。食べたいものを選んで」
「ねぇよ、そんなもん」
「じゃあ今、決めなさい。強くなるとか、勝つとか、誰かを殺すとか関係ないことで」
並んだ食事を前に、天城は敵の布陣を見る時より長く黙った。栄養表示を順に見た後、最も量の多い焼き肉弁当へ手を伸ばす。
「これだ」
「理由は?」
「肉が一番多い」
「それも選んだ理由にはなるわ」
朱音は笑わなかった。代金を自分の端末で支払い、表示された額を天城にも見せる。
「これが高いか安いかは分かる?」
「知らねぇ。足りなきゃ次の報酬から引かれてた」
「買った物の値段も見てなかったの?」
「必要なら出てきた。必要がなきゃ使わねぇ」
数十人を相手にしても揺らがない等級五が、弁当一つの値段を判断できない。その不均衡は滑稽ではなく、朱音には腹立たしいほど不気味だった。彼女は宿泊費と食事代を合計した数字を端末へ残し、天城にも確認させる。彼は受けた恩としてではなく、返すべき額としてその数字を一度で記憶した。
宿泊棟の受付を済ませると、朱音は個室の前で予備端末へ自分の連絡先を登録した。連絡先一覧には、篠原朱音という一件だけが残る。
「これは監視用。困った時の相談窓口じゃないから」
「誰がてめぇに相談するか」
「なら朝の返事だけでいい。それと、宿代と夕飯代は必ず返して」
「借りたままにする気はねぇ」
朱音は頷いたが、安心した顔はしなかった。扉の向こうへ入ろうとする天城へ、最後にもう一つだけ念を押す。
「逃げないで。兄のことからも、ほかに殺した人たちのことからも」
「何度も言わせんな。逃げるくらいなら、最初からお前の話なんざ聞いてねぇ」
乱暴な返答を聞き、朱音はようやく廊下を離れた。許せないという感情は変わらず、天城を一人にした不安も消えない。それでも今夜だけは、彼の居場所を知っている。
エレベーターを待つ間、朱音は直人との位置共有を終了し、《面談終了。けがなし。今夜だけ宿を取らせた》と送った。すぐに返ってきたのは、《分かった。お前も帰って休め》という短い文面だった。天城の処遇を尋ねる言葉も、正しい選択だったと評価する言葉もないことに、朱音はわずかに息を抜く。今日の判断まで、直人に決めてもらうつもりはなかった。
個室へ入った天城は、買った弁当を机へ置いた。施設で与えられていた食事と違い、自分で選んだというだけで容器が妙に目につく。蓋へ手を掛けた時、寝台に放った端末が短く震えた。
差出人の表示はない。面談を指定した時と同じ形式で、新しい時刻と場所、その下に短い文面だけが現れている。
《仕事を必要とするなら、明日十時に来い。報酬と当面の滞在場所を用意する》
「今度は仕事かよ」
天城は鼻で笑い、削除画面を開いた。だが指を止める。命令に従う理由はなく、顔も見せない相手に飼われるつもりもない。それでも、行くかどうかを決める前に情報を捨てるのは、朱音の言葉から逃げるのと同じだった。
通知を閉じると、その下に登録された篠原朱音の名が残った。
世界最強と呼ばれた男の手元にあるのは、借りた宿代と、忘れるなと突きつけられた名前と、正体不明の仕事の誘いだけだった。
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