# 第090話 名前を覚えろ
指定された面談室は、中央区画の複合施設、その最上階に近い一室だった。受付にも予約者名はなく、朱音の端末へ届いた一時鍵だけが扉を開いた。入室前に位置情報が直人へ届いていることを確かめ、指定場所が変わっていないことまで確認してから、朱音は灰色の扉へ手を掛けた。
室内には長机と椅子が二脚あるだけだった。監視機器らしいものも、二人を呼び出した人間の姿もない。窓際の壁へ背を預けた天城が、白い髪の隙間から朱音を見ている。
「随分遅ぇな」
「指定時刻の一分前よ」
「待たせたことには変わらねぇだろ」
一般的な時間感覚を知らないのか、単に相手を苛立たせたいのか判別しにくい。朱音は言い返す代わりに扉を閉め、退路を背後へ置いたまま席には座らなかった。
天城の琥珀金色の瞳が、彼女の端末へ向く。位置共有の表示を隠していなかったため、その意味にはすぐ気づいたらしい。
「瀬名に泣きつく準備か」
「一人で真相へ突っ込まないって約束したの。あんたと違って、私は自分だけで全部できるとは思ってない」
「ハッ――ハハッ! あれだけ壊されても、まだ他人の面倒を見てんのか。物好きなガキだな」
「そのガキに負けたのは誰?」
天城の笑いが止まった。怒気は浮かばない。代わりに、傷口へ正確に指を差し込まれた時だけ見せる鋭さが目へ宿る。
「俺だ。それで?」
敗北を誤魔化さない返答が、朱音の用意していた皮肉を奪った。彼女は長机の前へ進み、十一秒の記録を表示した端末を中央へ置く。
「私たちを呼んだ人間は、出てこないみたいね」
「顔を隠して人を動かす奴に用はねぇ。来ねぇなら、お前の話だけ聞く」
天城は室内を探ろうともしなかった。誰かの意図で用意された場所だと分かっていても、ここへ来ると決めた理由まで呼び出した人間へ預けるつもりはないらしい。
「篠原達哉を覚えてる?」
「三か月前に殺した等級四だろ」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
映像の中で、達哉が白髪の若者へ天城皇牙と呼び掛ける。画面はそこで大きく乱れ、残るのは破損した音だけだった。何度も見た十一秒を、天城は初めて見る資料のように黙って眺めた。
「兄は、怪しい仕事へ行く時、必ず記録を外へ残した。家族には余計な心配をさせたくないから詳しく話さないくせに、自分が帰らなければ誰かが調べられるようにしてた」
朱音は端末へ触れず、そこに残った兄の横顔を見た。話そうと決めてきた言葉は、病室で考えていた順番どおりには出てこない。それでも、綺麗に整えるための面談ではなかった。
「朝は弱かった。起こしても返事だけして二度寝するし、ブラックコーヒーが好きだって言い張るくせに、見てないところで砂糖を二本入れてた。私が失敗した料理も、まずいって言いながら全部食べた」
胸の奥にしまっていた生活を口へ出すたび、達哉が本当に帰らないのだという事実が新しい形で刺さった。朱音は息を震わせながらも、天城から目を逸らさない。
「あんたが殺したのは、そういう人よ」
「それを聞いて、死んだ奴が戻るのか」
「戻らない」
「なら、何が変わる」
天城は嘲笑っていなかった。本当に分からないものを、不要な情報かどうか確かめるように問い返している。その目を見た瞬間、朱音の中で堪えていた怒りが熱へ変わった。
「何も戻らないから、あんたが覚えるの!」
掌が長机を打ち、乾いた音が室内へ響いた。端末の中の達哉は笑いも動きもせず、記録された最後の横顔だけを残している。
「殺して、証拠も遺体も残さないで、必要な一人だったで終わらせて――それで何も変わらないなら忘れていいなんて、そんな都合のいい話があると思ってるの!?」
「俺が覚えて苦しめば、お前は満足か」
「苦しんでほしいわよ!」
即答した声が掠れた。朱音の目から涙が落ちても、天城は慰めず、視線も外さない。彼女もそれを望んではいなかった。
「兄の名前を聞くたびに、二度と戻らない人がいるって思い知ってほしい。あんたが悪人だから仕方ないなんて、自分で自分を一言にして逃げないで。何を奪ったのか知らないまま、勝手に全部終わった顔をしないで!」
天城の眉が僅かに動く。悪と呼ばれることには慣れている。だが、悪という言葉を逃げ道として使うなと責められたことはなかった。
「だったら、俺にどうしろってんだ」
「知らない。考えるのはあんたの仕事よ」
朱音は端末を持ち上げ、画面を天城の正面へ向けた。泣きながらも、その指は達哉の顔を隠さない。
「まず名前を覚えて。篠原達哉。あんたが殺した、私の兄の名前」
沈黙が落ちた。命令を受ければ必要か不要かで切り分け、敵の動きなら一度で記憶する天城が、戦いに使えない一人の名前を前に口を閉ざしている。
「言って」
「俺に命令すんな」
「なら、自分で選んで」
直人から突きつけられた言葉と同じ場所へ、別の声が触れた。天城は不快そうに目を細めたが、扉へ背を向けることも、朱音の端末を壊すこともしなかった。
「……篠原達哉」
ただ名前を繰り返しただけだった。謝罪も後悔もなく、朱音の憎しみを軽くする言葉にはならない。それでも天城が初めて、等級四でも実験数でもない形で達哉を口にした。
「一度で覚えた?」
「俺を誰だと思ってやがる」
「なら、忘れないで」
「そいつは、最後まで記録を外へ逃がそうとしてた。俺の名前を呼んだのも、そのためか」
「兄は、負けると分かっても何も残さず消える人じゃなかった」
「なら、俺が覚えたところで何が変わるかは、俺が決める」
「そうして。私に許し方を聞かないで」
朱音は端末を閉じた。許せない気持ちは一つも減っていない。天城も人を殺したことを悔いたわけではないが、聞いた事実を不要だと捨てず、自分の判断へ持ち帰ろうとしていた。
二人が廊下へ出ると、面談室の一時鍵は自動的に消えた。天城は案内表示も見ずに出口へ向かい、朱音は数歩遅れてから、その進路に目的がないことへ気づく。
「どこへ行くの」
「知らねぇ」
「帰る場所は?」
「ねぇよ」
天城は当然のように答えて歩き続けた。指示も報酬も施設も失い、今夜の寝床すら決めていないのに、困るという発想を持っていない。
「待ちなさい」
「まだ何かあんのか」
振り返った天城へ、朱音は涙の跡を残したまま睨み返した。一つの名前を覚えさせただけで、兄のことも、ほかに奪われた人たちのことも終わってはいない。
「あんたに聞かせることは、まだ残ってる」
行き先を失った天城を最初に引き止めたのは、彼を許さないと決めた女の声だった。
この小説をお読みいただきありがとうございます。
よければ★★★★★マークとブックマークで応援していただけると嬉しいです!
ここで約半分!折り返し地点です!




