# 第089話 許さないまま
天城皇牙が目を覚ました時、両手首に拘束具はなかった。白い天井と簡素な寝台、壁際の医療機器だけが置かれた個室には、警備員どころか監視装置も見当たらない。最後に覚えているのは、所属章のない灰色の装備を着た二人が両腕を固定し、保守通路の奥へ運び込んだところまでだった。
上体を起こしても、誰も制止に来なかった。天城が足を床へ下ろすと、正面の黒い端末だけが淡く点灯する。
『覚醒を確認した』
感情を削った加工音声が、時刻も名も告げずに響いた。天城は医療着の胸元を直し、閉じた扉と端末を順に見る。
「ここはどこだ」
『公的記録に接続されていない一時医療区画だ。君の負傷は、すでに行動へ支障のない範囲まで処置されている』
「俺を拘束した連中は」
『君を回収した者は、公的な捜査官でも救急担当者でもない。正規の現場対応者が到着した時、君はすでに地下区画から移送されていた。公的機関が君を拘束し、搬送した記録は初めから存在しない』
「てめぇの手の者か」
『その理解で構わない。地下区画の事案は、閉鎖設備の崩落事故として処理された。正規部隊の現場報告、提出された映像、過去の失踪記録は、同一事件として結びつかない形へ整理されている』
朱音の端末に残る記録も、直人が受けた傷も存在する。だが正規の捜査官も救急担当者も、天城本人を見ても触れてもいない。証言、映像、能力痕跡を別々の案件へ切り離せば、ひと続きの犯罪として天城へ届かなくなる。
「俺を助けたつもりか」
『助けた、という表現は正確ではない。君がここで公的処分を待ち続けることは、今後の選択肢を不必要に減らす』
「何をさせる気だ」
『今は何も』
短い返答の後、端末へ専用回線の終了通知が表示された。これまで対象、時刻、報酬を伝えていた端末は初期化され、戻る施設も、次の指示も、報酬経路も失われている。世界最強と噂された力だけが残り、それを使う先は消えていた。
「瀬名は生きてるのか」
『生存している。最低七日間の入院予定だ』
「そうか」
天城はそれ以上を聞かなかった。直人が帰ることまで勝つ条件へ入れたと言った以上、病院へ辿り着いたなら、あの勝敗は途中で崩れていない。
端末へ、翌日の時刻と場所が新しく表示された。差出人も目的もない。ただ一行、《篠原朱音は、君へまだ言葉を残している》と記されていた。
「勝手に用意してんじゃねぇ」
『行くかどうかは君が決めればいい。退室後、この区画へ戻ることはできない』
そこで音声は途切れた。部屋の扉が乾いた解錠音を立て、外へ続く通路を開く。扉脇の棚には天城の私服と、所有者情報のない小型端末が置かれていた。
◇
同じ日の夕方、朱音は直人の病室を訪れた。薄い赤銅色の髪はいつものように右側だけ編み込まれていたが、灰緑色の瞳の下には、事件が終わってからも眠れていない影が残っている。
「天城は、公的な拘束下にいたことすらない扱いになってる」
挨拶より先に出た言葉へ、直人は左手の端末を卓上へ置いた。朱音は椅子へ座らず、捜査窓口から返された通知を画面へ表示する。
「私が出した記録は、真正性を否定されたわけじゃない。でも、地下区画の事故と兄の失踪を結ぶ公的資料がないって。天城を運んだ人たちの所属も、一時移送の許可番号も、照会先そのものが残ってない」
「現場にいた人間の報告は?」
「正規部隊が入った時には、天城はもういなかったことになってる。あの人たちは瀬名くんを救助しただけで、天城には会っても触れてもいない。実験区画の映像も途中から破損扱い。私と瀬名くんの供述だけじゃ、天城を公的な事件の被疑者として扱えないって」
全てを消されたのではない。残された事実同士の間へ、意図的に越えられない断絶を作られている。捜査担当者も処理の不自然さには気づいていたが、どの権限が記録を分けたのかまでは追えていなかった。
「それで、これが来た」
朱音が開いたのは、公的機関からではない匿名の通知だった。明日の時刻と中央区画にある無記名の面談室だけが示され、《天城皇牙へ言葉を届ける機会を用意する》と記されている。先ほどまで天城が見ていたものと、同じ時刻だった。
「罠かもしれない」
「分かってる。だから瀬名くんにも見せに来た。位置情報を共有して、指定が変わったら入らない」
以前、一人で死にに行くなと告げられたことを、朱音は忘れていなかった。行くかどうかの答えを直人へ預けず、危険を減らす条件まで自分で持ってきている。
「それでも行くのか」
「行きたい。でも、何を言えばいいのか分からなくなった」
朱音はようやく椅子へ腰を下ろし、端末に残る十一秒の記録を見た。天城の姿だけでなく、帰れなかった場合へ備えて証拠を外へ残した、達哉自身の判断がそこには残っている。
「瀬名くんは、私が何を言うべきだと思う?」
「俺が決めた言葉じゃ、お前が行く意味がない」
朱音の眉が寄った。突き放されたとは受け取らず、固定具に留められた直人の右肩を一度見てから、逃げかけた視線を戻す。
「なら聞き方を変える。お前は、天城に何を聞かせたい」
「兄が、千人のうちの一人じゃなかったこと」
答えはすぐに出た。続く言葉だけが喉に引っ掛かり、組んでいた腕へ指が食い込んでいく。
「あいつに苦しんでほしい。兄の名前を聞くたび、自分が殺した人間のことを思い出してほしい。なのに私は、あいつがどうしてあんな人間になったのかまで考えてる」
声が震え、朱音は自分の腕をさらに強く掴んだ。天城の幼い姿が残る施設記録を見つけた時から、憎しみだけでは済まない問いが胸へ入り込んでいる。
「許せないのに、知りたいの。兄を殺した相手が何を見て、何を当たり前だと思って生きてきたのか。そんなことを考える自分が、一番許せない!」
病室へ鋭い声が響いた。朱音は息を乱したまま、止められることも慰められることも拒むように直人を睨む。
「理解したら、兄を裏切ることになるの? あいつにも事情があったなんて考えたら、私まで兄を千人の一人にすることになるの?」
「ならない」
直人は左手で寝台の縁を掴み、浅くなった呼吸を整えた。傷へ響いても、ここで声の強さを逃がすつもりはなかった。
「お前は許すために天城を追ったんじゃない。達哉さんに何が起きたのか、誰が奪ったのか、なかったことにさせないために追った。相手を知ろうとしたことまで裏切りになるなら、お前は真実へ近づくたび兄を裏切ったことになる」
「でも、私はあいつを憎んでる」
「憎んだままでいい。許せないなら許すな。知りたい気持ちまで、憎しみに合わせて捨てる必要はない」
朱音の目から、堪えていた涙が一筋だけ落ちた。直人は彼女の感情を正しい一つへ整えず、矛盾したまま抱えることを許すように言葉を重ねる。
「達哉さんを数字にさせたくないなら、お前自身も『怒っている遺族』の一言へ縮むな。憎しみも、知りたい気持ちも、今も兄を大事にしていることも、全部お前のものだ。天城に勝手に一つへ決めさせず、お前の言葉で全部ぶつけてこい」
長い沈黙の後、朱音は腕を解いた。涙を手の甲で拭っても、怒りの消えない目は真っ直ぐだった。
「……分かった。許さないまま、聞かせてくる」
「位置共有は切るな。俺への連絡が途切れたら、入室前でも離れろ」
「分かってる。今度は一人で真相へ突っ込まない」
朱音は病室を出る前に、匿名通知の時刻と場所を直人へ共有した。事件を消した何者かが、今度は二人を同じ場所へ動かそうとしている。目的は読めなくても、朱音はその盤面へただ乗せられるのではなく、自分の条件を持って天城へ会うことを選んだ。
同じ頃、名もない医療区画を出た天城の無記名端末にも、指定場所までの経路が一度だけ表示された。彼は削除せず、白い髪を掻き上げて、誰もいない通路へ足を踏み出す。
「俺に何を言うか、聞いてやる」
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