第9話 等級1の再評価
救護所の測定端末が警告を発した瞬間、水瀬紗良は瀬名直人の腕を掴んだまま動きを止めた。
《実習中の生体数値に非連続的変化を確認》
《登録能力との不一致を検出》
《能力等級の再評価を開始します》
表示を見た救護所の医師が、すぐに隣の検査台を空けるよう職員へ指示した。五十代ほどの男性で、短い灰色の髪と深く刻まれた眉間の皺が、白衣よりも現場経験の長さを感じさせる。直人を横たえると、瞳孔、脈拍、筋肉、骨格の順に測定し、最後に戦闘前の記録と現在値を並べた。
「筋力、反応速度、魔力反応が同時に上昇している。誤差で片づけられる幅ではないが、等級が変わるほどの出力でもない。瀬名君、実習中に薬物や未登録装備を使ったか?」
「使っていません。魔物を倒した直後に、身体が変化しました」
紗良が驚いて直人を見る。隠そうと思えば、戦闘中で記憶が曖昧だったと答えることもできた。だが《生体同調》で変化を直接感じた紗良の前では、下手な嘘は疑いを深めるだけだ。
「自分の能力に、心当たりがあるのか?」と医師が重ねる。
「登録された通り、成長型だとは思っています。ただ、何を条件に、どこまで変わるのかは俺にも分かりません。今回初めて確認できました」
嘘ではない。地球で魔物を倒して経験値を得られると分かったのは今日が初めてであり、レベル制度がなぜ再起動したのかも不明だった。直人が伏せたのは、視界に表示されたレベルと、異世界で同じ仕組みを九十九まで育てた事実だけである。
再測定は二十分ほど続いた。結果は《成長型自己強化能力・仮》のまま、能力等級も一。ATLASは変化を検出しても、その原因を既存の評価式へ落とし込めていなかった。
「数値だけなら健康な高校生の上限を少し超えた程度だ。ただし、短時間で肉体が変化した反動が出る可能性がある。発熱、筋肉痛、感覚異常、強い空腹があれば、我慢せず申告しなさい」
「分かりました」
「君の言う『分かりました』は、信用していい方か?」
医師の視線が左足の固定具へ落ちる。直人が返答に詰まると、紗良が隣で小さく息を吐いた。
「私が見ています。無理をしたら、すぐ連れてきます」
「それなら瀬名君本人より信用できそうだ」
「俺の同意は必要ないんですか」
「必要だと思う?」
紗良が笑顔で問い返したため、直人はそれ以上の抵抗を諦めた。
◇
治療後、五人は榊美鈴と共に実習記録室へ移った。腕へ包帯を巻いたルーカスは椅子へ座るなり机へ突っ伏し、額に小さな絆創膏を貼った透子が、その背中を指でつついている。
「起きて。反省会だよ」
「命を懸けて戦った英雄には、食事と睡眠が必要なんだ」
「英雄は実習一日目で先生に運ばれたりしないよ」
「俺は自分の足で歩いた!」
「最後の廊下だけね」
二人のやり取りを横目に、真壁は榊から渡された報告書を黙って読んでいた。普段より強く結ばれた口元には、班長として全員を危険へ入れた責任を、自分一人で引き受けようとする硬さがあった。
榊は机の正面に立ち、全員を見回した。
「先に結論を言う。今回の異常個体侵入は、ギルドの事前調査と学園側の情報確認、双方の不備だ。お前たちに処分はない。むしろ、瀬名が映像の異常を指摘し、真壁が警戒態勢を申請した記録が残っている。その二つがなければ、被害はさらに大きかった可能性が高い」
「それでも、撤退経路を一つしか確保しなかったのは俺の判断です」
真壁が顔を上げると、榊は否定も慰めもしなかった。
「なら次は二つ作れ。責任を感じることと、自分を罰することを混同するな」
真壁はしばらく黙り、やがて「はい」と答えた。直人には、その返事が戦闘前より少しだけ柔らかく聞こえた。
報告書には、五人それぞれの行動が実績として記録されていた。真壁の指揮と拘束、紗良の生命維持、ルーカスの防御、透子の索敵、そして直人の弱点看破と戦術提案。個人冒険者にランクはなくとも、こうした実績がギルドの公的記録へ蓄積され、将来の入域許可や依頼判断に使われる。
「一つ確認する」
榊が直人へ目を向けた。
「お前は、あの魔物を以前から知っていたな。どこで見た?」
室内から軽口が消えた。
「失踪していた間です」
「国内の未登録ダンジョンか?」
「場所は説明できません。ただ、失踪してから俺の感覚では約四年が経っています。その間に、あれとよく似た魔物と何度も戦いました」
ルーカスがゆっくり身体を起こし、透子も瞬きを忘れたように直人を見る。真壁は驚きを表へ出さなかったが、握っていた報告書の端がわずかに曲がった。
「信じてもらえる証拠はない」
直人は四人の反応を見ながら言葉を続けた。
「だから、俺の話だけで判断しろとは言いません。傷や習性が一致した時に、選択肢の一つとして検討してくれればいい」
榊はすぐに結論を出さず、直人の顔を見つめた。
「分かった。今日のところは、それでいい。ただし次に同じ知識を使う時は、知っている範囲を出し惜しみするな。秘密を守ることと、仲間へ必要な情報を渡さないことは別だ」
「はい」
その言葉は、直人が異世界で何度も他人へ向けたものだった。今度は自分が突きつけられ、反論する余地はなかった。
榊が退室すると、数秒の沈黙を破ったのはルーカスだった。
「つまり直人は、行方不明の間に四年分の冒険をして、帰ってきたら一年も経ってなかったのか?」
「大まかにはそうなる」
「ずるいな。俺より年下の顔で、俺より人生経験が長い」
「気にするところ、そこ?」
透子が笑いながら、机から身を乗り出す。
「でも、魔物の先生が班にいるなら心強いよ。次から授業料取られる?」
「生きて帰れたら十分だ」
「じゃあ格安だね」
冗談へ変えて受け止めた二人に、直人はわずかに肩の力を抜いた。真壁も報告書を閉じると、真正面から直人を見る。
「お前が何を隠しているかは、今は聞かない。ただ、班の命に関わる情報は共有しろ。俺も、お前の意見を等級一という理由で軽く扱わない」
「ああ。約束する」
差し出された手を、直人は握り返した。
◇
全員が帰った後も、紗良だけは救護所の廊下に残っていた。
「さっきの説明、全部じゃないよね」
「ああ」
否定しなかったことで、紗良の瞳が揺れた。責めたい気持ちと、無理に聞けば直人がさらに遠ざかるという恐れが、表情の中でせめぎ合っている。
「身体が変わった時、直人は驚いてなかった。初めて起きたことじゃないんでしょう?」
「地球では初めてだ。向こうでは、魔物と戦うたびに強くなる仕組みがあった。帰ってきた時に全部失ったが、今日、もう一度動き始めたらしい」
「それを調べるために、またダンジョンへ行くの?」
「行く。放っておけば、家族の近くで何が起きるか分からない」
紗良は俯き、直人の袖を掴んだ。止めても行くと分かっているからこそ、引き止める言葉が出ないのだろう。
「だったら、一人で全部決めないで。危険だから黙るって言われる方が、何もできないまま待つより怖い」
直人はすぐに答えられなかった。守るために遠ざけることが、守られる側を傷つける。その事実を異世界でも知っていたはずなのに、家族や紗良を前にすると、また同じ選択をしようとしていた。
「全部を話せるとは約束できない。でも、戦う前に伝える。戻った後も誤魔化さない」
「うん。それなら今は信じる」
紗良が袖を離した直後、直人の端末へ新しい通知が届いた。
《初回実習における特別功績を確認》
《個人冒険者登録・事前講習の受講資格を付与します》
画面には、公的ギルドで行われる登録講習の日程と、低危険度ダンジョンへの個人入域審査が表示されていた。
直人が望んでいた、単独で魔物と戦うための正規の道だった。
その一方で、通知の最下部には別の項目が追加されている。
《瀬名直人の全ダンジョン活動を、継続観測対象に指定》
力を取り戻すための扉は開いた。
だが、その向こう側で何かが、直人の成長を待っていた。
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