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# 第087話 守るものがある者



 天城が床を蹴った瞬間、砕けた破片だけがその場へ残った。直人は左へ身を投げたが、進路を変える前から拳が胸元へ迫る。途中で魔力の配分を変えても、今度の天城は修正へ追いつこうとせず、ずれた先まで力で薙ぎ払った。


 左腕を挟んだ上から衝撃が胸へ突き抜け、直人の身体が床を滑る。止まった先は観測窓へ続く直線上だった。ここで横へ逃げれば天城の次撃は防護ガラスへ向かい、その向こうにいる朱音まで巻き込みかねない。


 直人は逃げやすい側を捨て、観測窓と反対の壁へ走った。天城は一歩で追いつき、右肩を庇って沈んだ身体へ蹴りを放つ。直人は左腕で軌道をずらしたが、爪先が脇腹を抉り、補強柱へ背中から叩きつけられた。


 胸の奥で何かが折れる音がした。息を吸っても左側だけが広がらず、喉へ鉄の味がせり上がる。それでも直人は柱から背を離し、天井から垂れたままの切断測定線へ一度だけ目を向けた。


「まだ何か残してんのか」


「残ってるから立ってる」


「なら全部出せ!」


 天城が真正面から踏み込む。直人は左拳を上げ、途中で魔力を脚へ戻して外側へずれた。天城はその変化も構わず肩から突っ込み、退路ごと壁へ押し潰そうとする。


 直人はさらに配分を変え、前へ出た。回避ではなく、天城の右腕と胸の間へ左肩を差し入れる。肩口へ拳が掠め、身体の向きが強引に回されたが、その勢いで天城の背後へ垂れていた測定線の束を左手へ絡め取った。


 太い被覆線を天城の右腕へ一周させ、首の前を通さず肩口へ回す。天城は《領域掌握》で線の動きも捉え、左手で掴んだ。引きちぎるため背中と腕へ力が集まる始動は、密着した直人の胸へそのまま伝わった。


 直人は抵抗せず、天城が引く方向へ線を送った。天井の固定具が軋み、線を支えていた金属レールが片側から外れる。天城が落下位置を避けるため右足を引いた瞬間、直人は動作途中で脚へ魔力を集め、その背中へ回った。


 左腕を天城の首へ入れ、被覆線を補助にして血流だけを絞る。気道を潰して殺すためではない。意識を落とすのに必要な圧力と位置は、異世界で身につけた対人制圧の技術が知っていた。


「この程度で止まると思うな!」


 天城は直人の左腕を掴み、力任せに引き剥がそうとした。骨が軋み、肘の感覚が薄れる。それでも直人は筋肉が動く起点を背中越しに拾い、腕を強める前に脚、脚を外す前に胴へ魔力を移し、支点を一つずつ変えた。


 《領域掌握》はその変化を全て捉えている。だが、首へ回った腕を外すには、天城自身も腕、肩、腰のどれかから先に動かなければならない。直人は見えた未来を上回ったのではなく、接触から伝わる始動へ、僅かに早く次の支点を渡し続けた。


 天城は背中の直人ごと補強柱へ突っ込んだ。一度目の衝撃で折れた肋骨が深く軋み、二度目には息が完全に止まる。三度目を受ければ意識を保てないと分かっても、直人は腕を緩めなかった。


『瀬名、もう――!』


「まだだ」


 朱音へ返した声は掠れていた。天城を止める。次の等級四を殺させない。朱音へ兄の仇を勝手に死なせた結果を背負わせない。そして、自分もここから生きて帰る。そのどれかを切れば、もっと楽な戦い方はいくつもあった。


 だからこそ、一つも切らなかった。


 天城が三度目の衝突へ腰を沈める。直人はその始動へ合わせ、柱へ向かう力を止めずに左脚を天城の膝裏へ掛けた。前へ出る力が一度下へ流れ、首を締める被覆線へ天城自身の体重が加わる。


 琥珀金色の瞳から焦点が消え始めた。天城はなお左手で直人の腕を掴んだが、指へ力が届く順序が遅れていく。直人は心拍と抵抗の変化を接触から数え、意識が落ちた瞬間に被覆線を外した。


 天城の身体が膝から崩れる。直人は動く左腕で頭だけを支え、後頭部が床へ打ちつけられるのを防いだ。殺さずに止めるという、最初に選んだ勝利条件を最後まで変えなかった。


 白い実験区画から、《領域掌握》の圧迫感が消えた。


 直人も天城の隣へ片膝をつき、狭い呼吸を繰り返した。右腕は垂れたまま動かず、左胸は吸うたび鋭く痛む。立っているのではなく、倒れる方向を左脚だけで選び続けている状態だった。


 数秒後、天城の瞼が震えた。焦点の戻った目が先に捉えたのは、自分より弱く、傷も多いまま隣に残っている直人だった。


「……なんでだ」


 天城は起き上がろうと左手を床へついた。しかし腕が体重を支え切れず、肘から崩れる。純粋な力が失われたわけではなく、脳と身体の接続がまだ戻っていなかった。


「俺の方が速い。力も、領域も、全部上だった」


「最後まで上だった」


「なら、なんで俺が下にいる」


 直人は息を整えることもできないまま、天城の目を見返した。勝因を仲間の名だけへ預けるつもりも、自分の傷を美談に変えるつもりもない。天城より弱い自分が、何を最後まで戦場へ残したかを言葉にする。


「お前は一人で強くなるために、邪魔なものを捨ててきた。俺はお前を止めることも、朱音を守ることも、次に狙われる奴を生かすことも、待ってる奴のところへ帰ることも――自分の命も、全部勝つ条件に入れた」


「抱えた分、動きは鈍っただろ」


「鈍った。傷も増えた。それでも捨てなかったから、お前に道を一つ潰されるたび、別の勝ち方を探せた」


 直人は残る左手を床へつき、倒れそうになる身体を支えた。声を張る力さえ残っていなかったが、言葉だけは逸らさない。


「お前は、一人で強くなることしか知らない。俺は守るためなら、何度でも勝ち方を探せる。それが、お前をそこへ倒した差だ」


 天城は笑わなかった。理解したとも、間違っていたとも言わない。ただ、これまで価値がないと切り捨ててきたものが、自分より弱い人間を最後まで立たせたという結果だけは消せなかった。


「……それが強さだって言うのか」


「強さの使い方だ」


 天城の左手が一度だけ握られた。再び立つためではなく、まだ受け入れられない何かを掴むような動きだった。やがて指から力が抜け、天城は床へ背を預ける。


「今回は、お前だ。瀬名直人」


 戦闘の決着が確定した。


《レベルが上昇しました》


《レベル:5》


《スキルポイントを1獲得しました》


 心臓から熱が弾け、傷ついた筋肉の内側を強制的な再構築が走る。だが、外れた右肩は戻らず、折れた肋骨も肺を締めつける痛みも消えない。増えた力を受け止める前に、次の熱が重なった。


《レベルが上昇しました》


《レベル:6》


《スキルポイントを1獲得しました》


 視界の遠近が崩れ、吐き気と激しい悪寒が同時に押し寄せる。直人が床へ倒れ切るより早く、三度目の変化が身体の奥を貫いた。


《レベルが上昇しました》


《レベル:7》


《スキルポイントを1獲得しました》


『瀬名!』


 防護扉が開き、朱音が実験区画へ駆け込んだ。直人の左肩を支えようとして、右腕と呼吸の異常へ気づき、触れる直前で手を止める。兄の仇である天城へ一度だけ目を向けたが、今は直人の意識を繋ぐことを優先した。


「救助が来る。聞こえる?」


「ああ。天城も、生かして引き渡せ」


「……分かってる。まだ、聞かせることが残ってるから」


 遠くで金属扉を破る衝撃が響いていた。位置共有が途絶えてから規定時間を超え、表側の部隊が西側地下検査路を強制開放している。その音が届くより先に、側壁の保守扉が内側から解錠された。


 入ってきたのは、所属章を付けていない灰色の装備の二人だった。片方が一時移送の許可表示を端末へ浮かべ、説明も求めず天城の両腕へ複数の拘束具を装着する。《領域掌握》は戻り切っておらず、天城自身も抵抗しない。二人は天城だけを簡易担架へ固定すると、正規部隊と顔を合わせる前に保守通路の奥へ運び去った。


 保守扉が閉じた直後、破壊された正面扉から複数の足音が実験区画へ流れ込んだ。公的な救急担当者は天城が倒れていた場所を横切り、直人の前へ膝をついた。


「右肩は脱臼。胸部も複数箇所の骨折と肺損傷の疑いがあります。最優先で搬送します」


 酸素マスクが当てられ、頸部と体幹を固定される。戦えるかではなく、生きて戻るために何が必要かを決める場面だった。直人は処置を拒まず、僅かに頷いた。


 担架が持ち上がる直前、天城と目が合った。敗北への怒りも、直人の言葉を受け入れた色もない。ただ、自分の知らなかった強さを初めて目にした疑問だけが、琥珀金色の瞳へ残っていた。


 救急車の扉が閉じる。サイレンが動き出したところで、直人はようやく意識を手放した。


この小説をお読みいただきありがとうございます。

よければ★★★★★マークとブックマークで応援していただけると嬉しいです!

完結作品にはなりますが、応援が多ければ第二章突入も考えています!

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