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# 第085話 読み合いの代価



 天城の左手首へ触れたまま、直人は互いの足が入れ替わる狭い間合いを離れなかった。掌へ伝わる腱の張りが先に変わり、その直後に天城の肘が跳ね上がる。直人は頭を外へ逃がしながら腕へ体重を預け、顎を狙った一撃の下へ潜り込んだ。


 視線より早く、触覚が天城の始動を伝えてくる。脇腹へ左拳を打ち込むと、天城は腰を引いて衝撃を逃がしたが、完全には間に合わなかった。鈍い打撃音が響き、初めて直人の狙った場所へ拳が届く。


「読んだつもりか」


「今のは読めた」


 直人が答えた瞬間、触れている手首の力が抜けた。攻撃の予兆ではないと判断した直後、天城は崩れた腕を直人の首へ巻きつけ、片腕だけで身体を持ち上げる。始動を消したのではなく、直人が圧力の変化へ反応することまで利用し、わざと力を抜いたのだ。


 直人は締まる腕と首の間へ左手を差し込み、気道が潰れる前に身体を捻った。それでも天城の膝が背中へ突き刺さり、床へ投げ落とされた胸から空気が漏れる。立ち上がろうとした右肩を踵で押さえられ、骨の奥に残っていた鈍痛が鋭く跳ねた。


「触れりゃ俺も読める。だが、お前が一つ知る間に、その身体は何発持っていかれる?」


 踵へ両腕を当て、直人は関節が壊れる前に身体を横へ転がした。天城の足を押し返すことはできない。床との間に生まれた僅かな隙間へ肩を滑らせ、踏み抜かれる直前に抜けるしかなかった。


 接触によって情報差は縮まるが、身体能力の差までは消えない。始動を感じ取っても、避ける速度が足りなければ打撃を受ける。読み返すため近づくほど一撃の威力は逃がしにくくなり、得られる情報と引き換えに直人の身体だけが削られていく。


『瀬名、右腕……動くの?』


 朱音の声が防護ガラス越しに落ちた。端末へ残る映像ではなく、床から起き上がろうとする直人の指先を見ている。右手は開閉できたが、肩を上げるたびに痛みが走り、無意識に肘が胴へ寄っていた。


「まだ使える」


「使えるかどうかを決めるのは、お前の根性じゃねぇぞ」


 天城が直人の返答を切り捨てた。心配した声音ではない。壊れた部位を使えると思い込み、戦闘の計算を誤る者への冷淡な指摘だった。


「次に同じ腕で受ければ、肩が外れる。それでも来るか」


「受けなければいい」


「ハッ――ハハッ! なら、やってみろ」


 直人は右腕を下げ、左半身を前へ出した。《魔力循環》は傷を消さず、疲労した筋肉を元へ戻してもくれない。それでも体内を巡る魔力は、痛みで乱れかけた動作を支え、残された力を必要な部位へ通すことだけはできる。


 先に左足を踏み出し、拳ではなく肩から天城へぶつかる。天城は直人の重心が前へ移った時点で右腕を立て、進路へ肘を置いた。領域が拾った始動に対する答えは、直人の胸が届くより先に完成している。


 直人は止まらなかった。動き始めた後で、左脚を巡る魔力の流れだけを強める。床を蹴る力が予測された量を僅かに越え、肘へ衝突するはずだった肩が数センチだけ内側へ滑った。


 天城の腕を潜り、直人の左掌が胸の中央へ触れる。足、腰、肩へ順に伝えた力を一息で押し込み、掌底を叩き込んだ。天城の上体が揺れ、右足が床を擦って半歩下がる。


 天城は下がった足へ一瞬だけ目を向けた。威力そのものは防御を抜くほどではなく、胸元にも大きな損傷は残っていない。それでも《領域掌握》で捉えたはずの到達位置と、実際に直人の掌が触れた場所には、無視できないずれが生まれていた。


『今……』


 朱音が息を呑んだ。直人の動作は最初から最後まで記録画面に映っていた。それでも天城の防御だけが、完成する瞬間に僅かにずれた。


「何を変えた」


「教えると思うか」


 天城は問いを重ねず、胸元へ残った直人の手を掴んだ。握り潰すより先に直人が手を引くと、その退路へ左拳が放たれる。直人は触れていた指先から肩の動きを拾い、頭を下げたが、拳は途中で開かれて進路を変え、掌が右肩を正面から打った。


 関節が外れかける感触とともに、直人の身体が横へ飛ぶ。左手で床を叩いて回転を殺したものの、右腕はすぐには持ち上がらなかった。天城は読めなかった変化を追うのではなく、変化した後でも避けられない広さへ攻撃を変えている。


 直人は右手の指を順に握り、肘を曲げて肩へ繋がる感覚を確かめた。関節は外れておらず、神経も途切れていないが、次に正面から受ければ戦闘中には戻せなくなる。右腕を庇うのではなく、残された一度をどこで使うかまで計算へ入れ直した。


「読めねぇなら、変わる前から潰せばいい」


「それでいい」


「何?」


「今のずれを、お前も無視できなかった」


 直人は右腕を垂らしたまま立ち、左脚へ体重を寄せすぎないよう足幅を整えた。《領域掌握》は身体の始動を正確に拾い、地球の能力なら出力が形になる位置へ干渉できる。しかし、直人の内側を巡る力は遮断されず、動作の途中で生じた出力の変化だけが、完成した身体の動きとして天城へ届いている。


 差は数センチにも満たない。天城の反応速度なら、一度見せた変化へ次から合わせることもできる。それでも、何もかも先に知られていた領域の中へ、天城が結果を見てから修正しなければならない瞬間が生まれた。


「一度遅らせたくらいで、勝てると思ってんのか」


「一度で足りないなら、増やす」


「その前に、お前が壊れる」


 天城の指摘どおりだった。右肩は動かず、左脚も踏み込むたびに沈み、呼吸を深くすれば脇腹が軋む。接触で始動を読むにも、魔力の配分を途中で変えるにも、次の一撃を受け止められる身体が必要だった。


 それでも直人は構えを解かなかった。天城が情報を得る速さは変わらないが、直人の動作へ答えを返した後、もう一度修正する手間は増やせる。接触、出力の変化、床に残る破損。そのすべてを別々の仕掛けにせず、一つの攻防へ重ねればいい。


「勝つまで変える」


「身体がなくなってもか」


「なくすつもりはない。俺はここから帰る」


 直人の返答に、観測区画で朱音が握っていた指を僅かに緩めた。天城は笑わず、右足を後ろへ引いて初めて明確な構えを取る。直人を壊れかけた獲物ではなく、先に答えを用意しなければならない相手として見ていた。


「なら見せろ。俺より先に、何度変われる」


 直人は動く右手を捨てず、動かない瞬間だけを天城へ見せた。痛みと出力差を消す方法はない。だが、天城が読んだ答えを一つずつ過去へ変える道は、確かに目の前へ残っていた。


この小説をお読みいただきありがとうございます。

よければ★★★★★マークとブックマークで応援していただけると嬉しいです!

完結作品にはなりますが、応援が多ければ第二章突入も考えています!

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