# 第084話 領域の内側
名を告げた後も、直人を取り巻く実験区画は何一つ変わっていない。それでも、唇の血を拭った天城が両腕を下ろすと、今までとは違う静けさが満ちた。侮りによって残されていた隙が消え、琥珀金色の瞳が直人の呼吸から爪先までを見渡している。
「同じ手が二度通ると思うなよ、瀬名直人」
天城は床の亀裂を一度だけ見下ろし、踵で交点を踏み砕いた。沈みかけていた床板が細かな破片となり、姿勢を崩すために使えた起伏まで平らに潰される。直人へ反応を選ばされる前に、選択を生む仕掛けそのものを消したのだ。
「俺の《領域掌握》の中じゃ、覚えた手はもう使えねぇ」
「領域掌握、か」
「名前が分かったところで、何も変わらねぇよ」
踏み込みの音は、言葉が終わる前に消えていた。直人は右肩を庇う動きをあえて見せ、反対側へ逃げるため左脚へ力を集める。天城は誘いへ乗らず、左右のどちらにも逃げられない正面から肘を押し込み、受けた直人の両腕ごと胸を打ち抜いた。
靴底が床を滑り、背中が防護壁へ激突する。肺から空気が押し出され、遅れて首の後ろへ痛みが走った。右か左かを選ぶ必要がある攻撃ではなく、逃げ道ごと狭める最短の一撃へ切り替えられている。
直人が壁を蹴って斜めへ走ると、天城は追わずに掌打だけを置いた。進行方向を変えれば、その切り返しへ次の拳が重なる。距離を詰める速さだけではなく、直人が使える床を狭くし、最後には中央へ戻らざるを得ない順序まで組まれていた。
連続した二撃を前腕で逸らし、三撃目を沈んだ身体の上へ通す。それでも最後の蹴りは腰へ食い込み、直人は床へ手をついた。立ち上がるより先に追撃が止まったのは、天城が余裕を見せたからではなく、崩れた直人がどの手足へ力を戻すか確かめていたからだった。
「俺を動かしたいなら、先に立ってろ」
天城は追撃へ急がず、区画中央から直人を見据えた。必要な距離だけ詰め、最小の動作で潰すなら、崩れた床へ足を置かせることも、視界を遮る破片を払わせることもできない。先ほど血を流した事実を捨てず、自分の戦い方へ即座に組み込む修正の速さこそ、等級五の出力以上に厄介だった。
直人は壁から背を離し、《魔力循環》を全身へ保ったまま呼吸を整えた。使える仕掛けを一つ失っただけで、領域の構造が変わったわけではない。天城は思考を読まず、直人の身体に生まれた始動を捉え、それより速く最適な答えを返している。ならば、始動を読ませた後にも動作が変わり続ける距離へ入るしかなかった。
直人は正面へ踏み込んだ。右拳を顔へ向け、天城が左手で払う前に肩を沈めて胴へ移る。変化の起点を拾われ、拳は途中で手首を掴まれたが、直人は腕を引かず、さらに胸元へ身体を寄せた。
「またそれか」
天城の膝が腹へ突き刺さる。直人は左肘を挟んで直撃だけを外したものの、衝撃は傷んだ脇腹へ抜け、口元から血が散った。掴まれた右腕を軸に身体を回そうとした瞬間には肩を押さえられ、床へ叩きつけられる。
『瀬名!』
観測区画から朱音の声が響いた。端末を握る手には、先ほど感情をぶつけた時とは別の震えが生まれている。天城を生かして向き合わせるという自分の願いが、直人一人へ死ぬ危険を負わせているように見えた。
『私は、あんたに代わりに死んでほしいなんて言ってない!』
「分かってる。俺も、そのつもりはない」
直人は短く返し、倒れた勢いを使って天城の足首へ左手を伸ばした。しかし指が触れる前に蹴り上げられ、床を二度転がってから片膝をつく。言葉だけで生還を約束するのではなく、ここから勝てる形を作らなければ、紗良へ返した約束まで同じところで踏み外すことになる。
「近づけば読めるとでも思ったか」
「一度じゃ、分からないこともある」
「何度でも同じだ。お前が動く前に、全部見えてる」
天城の言葉に誇張はなかった。領域を直人一人へ絞った今、僅かな重心移動も、拳へ力が集まる順序も隠せない。離れている限り、直人が得る情報は天城の姿勢と床を踏む音に限られる一方、天城には攻撃へ変わる前の身体の内側まで知られていた。
だが、右手首を掴まれた瞬間だけは違った。骨を締める指の圧力が変わり、膝を上げる前に天城の肩が僅かに沈む。視覚で捉えられない始動も、触れていれば自分の皮膚と関節を通して返ってくる。情報の速さを奪えなくても、一方だけが見ている状態なら崩せるはずだった。
直人が立ち上がると、天城は待ち構えるように右手を開いた。朱音の言葉を受けた直後より表情は静かだが、その目はもう直人を弱者として追い払おうとしていない。次に何を見せるのか確かめ、その上から潰すことを楽しみ始めていた。
「ハッ――ハハッ! まだ来るか、瀬名直人」
「名前を覚えただけで、分かったつもりになるな」
「分かる必要があるか? 強いか、折れるか。それで十分だ」
「だから千人分の名前も、選んだ理由も残らなかった」
天城の笑いが止まった。朱音の兄を数字へ変えたことは、戦闘の外へ置いておける過去ではない。どれほど強くても、その事実を知らずに済む場所へはもう戻れなかった。
「俺に背負わせたいなら、まず勝て」
「そのつもりだ」
直人は左脚の痛みを押し込み、今度は構えを狭くした。遠い間合いから天城より速く動くことも、反応を誘う仕掛けを同じ形で作ることもできない。ならば、領域の外へ逃げようとする考えそのものを捨てる。
天城が真っ直ぐ距離を消した。直人は右へ避ける始動をあえて作り、進路を塞ぐ左腕が伸びる瞬間に足の力を抜く。拳が頬を掠めて傷を開いたが、倒れ込む身体で天城の懐へ入り、左前腕をその胸へ押し当てた。
天城の右手が直人の首へ回る。指が締まる前に、胸へ触れた腕から背中の筋肉が引かれる感触を拾い、直人は顎を引いて半歩だけ内側へ入った。首を掴むはずだった掌が肩へずれ、代わりに肘が脇腹へめり込んだが、直人は接触を切らなかった。
「捕まったまま何をする」
「触れてるのは、お前も同じだ」
天城が腰を落とす。直人はその圧力が腕へ伝わった瞬間、投げられる方向へ先に足を運び、崩れかけた身体を天城の肩へ預けた。力では抗わず、離されそうになれば手首から肘、肘から肩へ接触点を移し、動作の始まりを皮膚で拾い続ける。
天城は肩を跳ね上げて直人を剥がそうとした。伝わった力へ逆らわず背後へ回れば、肘打ちがすぐに追ってくる。その始動を腕越しに拾い、直人は頭を下げながら接触点を天城の背から左手首へ移した。
領域の中で、天城には直人のすべてが見えている。だが接触を保つ限り、直人もまた、天城が答えを選んだ瞬間を知ることができる。速さも出力も対等にはならなくても、一方的だった情報の差だけは狭まり始めていた。
直人は、その中心から目を離さない。天城の口元が、再び獰猛に持ち上がった。
「見えるのは、お前だけじゃない」
「なら読んでみろ、瀬名直人」
等級五の領域の最深部で、初めて二人の読み合いが始まった。
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