# 第083話 選んだのは、お前だ
天城の拳が握られた直後、実験区画の空気が弾けた。
直人は顔を狙った一撃へ両腕を合わせ、力の向きに沿って上体を沈めた。受け流したはずの衝撃が腕から肩へ突き抜け、靴底が円形の目盛りを二本越える。続く蹴りだけは左脚で逃げ切れず、脇腹を掠めた爪先に身体を浮かされ、防護壁の手前まで転がされた。
「誰も殺さず俺に勝つ? 自分が何を言ってるか分かってんのか」
「分かってる。お前が千人殺すより先に、ここで止める」
「殺さず止めるのが正しいとでも思ってんのか。そこの女は、俺が死ぬ方を望んでるかもしれねぇぞ」
天城の言葉は、直人の宣言に含まれた別の矛盾を正確に突いていた。兄を殺された朱音へ、仇を生かすことまで受け入れろと命じる権利は直人にない。彼女の沈黙を都合よく同意へ変えず、直人は天城だけを見た。
「朱音が何を望むかは、俺が決めない。お前を止めるために殺すしかなくなれば、その時は俺も自分で選ぶ。だが今は、殺さずに勝つ道がある」
「甘いな」
「お前が知らない道を、最初からないことにするな」
壁へ手をついて立ち上がると、右肩だけでなく左腿にも鈍い痛みが残っていた。正面から受ければ次は骨が折れる。それでも天城の怒りが、単なる出力の上昇ではなく、直人の言葉を無視できなかった結果だということは分かった。
だが、怒りによって精度を失ったわけではない。直人が右へ踏み出すため腰を捻れば、天城は動きが形になる前に進路へ入る。連続した動作へ切り替えても、力を生んだ位置と向きが把握される以上、領域の内側で先手を取られる構造は変わらなかった。
「お前が何を知ってるか、勝手に決めるな」
「なら答えろ。強さ以外に、自分で欲しいと思ったものはあるのか」
「ねぇよ」
迷いのない返答と同時に、天城の掌が直人の胸元へ迫った。直人は腕を交差させず、半身になって右肩だけを差し出す。負傷箇所を狙った手が触れる寸前、左手を天城の肘へ添えて外へ流したが、軌道を変えられた腕はそのまま直人の首筋を打ち、視界を大きく揺らした。
完全には避けられない。それでも天城が直人の反応に合わせ、一撃ごとに足の位置と打撃の角度を選び直していることは確認できた。見えていることと、選ばずに済むことは同じではない。
『あなたの記録を見た』
防護ガラスの向こうから届いた朱音の声に、天城は顔を向けなかった。彼女は震えの残る手で端末を操作し、幼い白髪の少年へ複数の測定器が取り付けられた画像を表示している。年月の離れた記録にも同じ被験番号があり、出力、耐久、適応という項目だけが繰り返されていた。
『家族も、学校も、普通に暮らしていた記録もない。あんたも、あそこで人として扱われていなかったんじゃないの』
「だから何だ」
『あんたも被害者だったのかもしれない』
天城の目が初めて観測窓へ向いた。そこに救いを求める色はなく、むしろ触れられたくないものを勝手に暴かれた苛立ちが浮かんでいる。その僅かな変化を攻撃へ使えば朱音の問いを奪うことになるため、直人は構えを維持したまま踏み込まなかった。
「勝手に分かった顔をするな」
『許すために言ってるんじゃない!』
朱音は操作卓へ置いた拳を強く握り、滲んだ涙を拭おうともしなかった。兄を殺した相手が同じ実験の被害者だったとしても、失われた命は戻らない。理解できる事情が増えるほど憎しみの置き場は複雑になったが、それを許しへ置き換えるつもりだけはなかった。
『殺したいと思った。今だって、あんたが死ねばいいと思ってる』
その言葉を口にしても、朱音の指は緊急防護解除へ動かなかった。天城を自分の手で殺せば兄の時間が戻るわけではなく、何も知らないまま死なせれば、達哉が奪われた意味までまた記録の外へ消えてしまう。憎しみと向き合った末に残ったのは、簡単な許しではなく、生きた相手へ問い続けたいという厄介な願いだった。
『でも、兄の名前も、奪ったものも知らないまま勝手に死ぬのは許さない。あんたには、生きて自分が何をしたか知ってもらう』
『あんたが何をされたか知っても、兄を殺したのはあんたよ。でも、最初から人が死んでもいいと思って生まれたんじゃないなら、今も殺し続ける理由にはならない!』
「理由にならなくても殺した。俺が選んだ」
「そうだ。選んだのは、お前だ」
直人が一歩を踏み出すと、天城の意識が即座に戻ってきた。施設で異常を当たり前として与えられ、ほかの生き方を知らずに育ったことは、天城が作った過去ではない。しかし朱音の兄が人間だったと知り、その妹の声まで聞いた今、同じ理屈で次を殺すなら、それはもう過去だけの責任にはできなかった。
「何も知らなかった子供に、外の正しさを選べとは言わない。だが、今のお前は違う。知った後でも殺すなら、そのたびに選んだ責任はお前へ残る」
「うるせぇ」
「悪だと言えば終わると思うな。お前が奪ったものを知りもしないで、どうしようもない悪を名乗るな」
天城の琥珀金色の瞳から、今度こそ侮りが消えた。踏み込みと同時に床が砕け、これまでとは比較にならない速度で拳が迫る。直人は避けるためではなく、その一撃へ選ばせるため、傷んだ左脚で円形目盛りの外側へ踏み出した。
これまで天城が外した拳や踵は、白い床へ放射状の亀裂を残していた。直人が円を描いて動き続けたのは、始動を切らさないためだけではない。天城が進路を塞ぐ位置を少しずつ選び、複数の亀裂が重なる一点へ自分から足を置かせるためだった。
右から塞ぐ天城の足が、直人の予測した交点へ置かれる。そこは直前までの攻防で何度も衝撃が集中し、白い床の亀裂が二方向から重なった場所だった。直人は天城を殴らず、爪先で浮いた床片を蹴り上げる。顔へ向かった破片を天城が左手で払った瞬間、その体重を受けた床が数センチだけ沈んだ。
等級五を転ばせるには足りない。天城は右足へ力を戻し、崩れた姿勢を一瞬で修正する。しかし、床の沈下へ反応して生まれたその動きは、天城自身が選んだものではなく、直人にも初めて始動を読めるほど明確だった。
直人は沈み込んだ右側へ回らず、天城が立て直す方向へ先に入った。払われた床片の陰から左手で手首を押さえ、身体を寄せながら右肘を顎へ打ち上げる。天城は首を捻って直撃を避けたが、肘の先が唇を掠め、白い床へ小さな血滴が落ちた。
直後の裏拳が直人の胸を捉え、身体を観測窓の下まで吹き飛ばした。背中を床へ打ちつけ、呼吸が止まりかけても、直人は血を吐かずに飲み込む。純粋な威力では勝負にならないままだが、一方的に読まれるだけだった戦場へ、天城自身の反応を利用する道を作ることはできた。
天城は親指で唇の血を拭い、赤くなった指先を見た。怒りに歪んでいた口元がゆっくり持ち上がり、実験区画へ響いた笑いから、弱者を見下すだけの乾いた響きが消えていく。
「ハッ――ハハッ! お前、名前は」
直人は痛む身体を起こし、天城の目を正面から見返した。
「瀬名直人」
「覚えたぞ、瀬名直人」
天城皇牙は、ようやく目の前の少年を名のある敵として見た。
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