# 第082話 必要な犠牲
「なら立ってろ。次は、その足から潰す」
天城が一歩踏み込んだ。
先ほどまでとは違う。床を砕くほどの力も、目で追えない速度もない。それなのに、直人は逃げる方向を選べなかった。
右へ動くため足裏へ力を掛けた瞬間、その先へ天城の爪先が置かれる。左へ切り替えれば、僅かに沈んだ腰へ掌が迫った。
読まれた後に変えるだけでは遅い。
直人は退く力を捨て、前へ倒れ込んだ。天城の掌を肩で擦り抜け、懐へ入る。左肘を肋部へ打ち込むより早く、膝裏を蹴られた。
脚から力が消える。
床へ落ちる直前、直人は左手をついて身体を回した。天城の追撃が頬を掠め、白い床を穿つ。砕けた破片が頬へ走り、細い血が垂れた。
「さっきの一歩で、攻略したつもりか」
「入口は見えた」
「入り口で潰れる奴は、中へ来たとは言わねぇ」
天城の踵が直人の左腿へ落ちた。
直撃の寸前に筋肉を緩め、衝撃を受けてから後方へ転がる。それでも骨まで痺れ、立ち上がった左脚が僅かに揺れた。
天城は、もう直人を無視して朱音へ近づこうとはしない。
狭められた意識も、力も、すべて直人一人へ向けられている。弱者という評価は変わっていなくても、確実に倒してから先へ進む対象にはなった。
その変化が、今は唯一使えるものだった。
直人は左脚の痛みを悟らせないためではなく、止まった状態から新しい動きを起こさないため、円を描くように歩き続ける。始動を一つずつ読まれるなら、途切れない動作の途中で選択肢を増やす。
天城は二歩だけ追い、直人の進路へ右足を差し入れた。
歩幅も速度も変えていない。それでも、次に床へ触れるはずだった場所を正確に塞がれる。直人は足を下ろさず、片脚のまま上体を傾けた。拳を避け、床へ手をつく。蹴り上げた踵は天城の顎へ届く前に前腕で止められた。
連続した動きでも、領域の中から逃げられるわけではない。
だが天城は、直人が次の選択を決めるたびに対応している。すべてが決められた未来なら、わざわざ進路を塞ぐ必要はない。
「等級四を狙う理由は何だ」
直人は左脚へ体重を乗せ切らず、円形の目盛りに沿って動いた。
「朱音の兄だけじゃない。消息を絶った奴らも、お前が殺したのか」
「だったらどうする」
「次を止める」
「ハッ――ハハッ! 自分の脚も守れねぇ奴が、次の心配かよ」
天城が床を蹴る。
直人は視線ではなく、足音が消えた瞬間に身体を沈めた。頭上を腕が抜ける。天城の胸元へ拳を返すが、その手首を掴まれた。
握力だけで骨が軋む。
直人は抵抗せず、掴まれた腕を軸に跳んだ。両脚を天城の胴へ向ける。膝が届く寸前、身体ごと床へ叩き落とされた。
「がっ……!」
肺が潰れたように息が止まる。
それでも直人は手首を捻り、掴まれた腕を抜いた。床を這うように距離を取り、片膝を立てる。
『答えなさい!』
防護区画から朱音の声が飛んだ。
『兄に必要だったと言った。何のために、等級四の人たちを殺してるの』
天城は振り返らない。
直人の呼吸、足の震え、次に力が生じる場所。それだけを捉えたまま、何でもないことのように答えた。
「次へ行くためだ」
『次……?』
「等級五が上限だと、誰が決めた」
直人の呼吸が一瞬止まった。
公開された能力等級は、零から五まで。
等級五は国家の対応方針さえ変える戦略級であり、その上は制度上存在しない。だが天城の言葉は、未知を夢想する者のものではなかった。既に条件を知り、その確認へ手を掛けている人間の声音だった。
「その先へ行く方法があるのか」
「可能性がある。だから試す」
「何を」
天城が右手を開いた。
構えではない。次に告げる数字と、直人の命を同じ程度にしか見ていない手だった。
「最高位の等級五が、同じ等級五を十人。等級四なら千人。生き死にを賭けた実戦で殺せば、今の限界を越えられる」
観測区画から、物音が消えた。
「《等級6計画》。そう呼ばれてる」
白い実験区画の静けさが、言葉の異常さを際立たせた。
「聞きたかったことは終わりか」
天城が再び距離を詰める。
直人は答える代わりに、円形目盛りの交点へ爪先を置いた。来るのは左脚を潰す蹴り。その予測を天城にも読ませた上で、回避ではなく迎撃を選ぶ。
振り下ろされた足へ左腕を添え、真下ではなく外へ流す。身体ごと押し潰されかけながら、右の拳を天城の胸元へ滑り込ませた。
拳は届いた。
だが、厚い鉄板を素手で殴ったような感触しか返らない。天城は僅かにも揺れず、直人の腹へ掌を当てた。
衝撃が爆ぜる。
直人は床の目盛りを四つ越えて転がった。口内へ血の味が広がる。すぐには立てず、左肘と右膝で身体を支えた。
「触れりゃ勝てると思ったか」
「触れられることは分かった」
「それで死んだら、何も残らねぇぞ」
直人は血を飲み込み、もう一度立った。
「まだ死んでない」
千人。
篠原達哉にも、ほかの失踪者にも、それぞれの生活があった。天城が告げた数字の中では、それがすべて同じ一へ潰される。
久我、榊原、鳴海、シャルロット。直人が知る等級四の顔が浮かぶ。誰も能力出力だけでできてはいない。考え、負け、選び、その後も生きてきた人間だ。
天城にとっては、そのすべてが限界を越えるための数でしかない。
『兄は……』
朱音の声が掠れた。
『兄は、その千人のうちの一人だったっていうの』
「そうだ」
『名前も覚えていなかったのに?』
「名前で結果が変わるのか」
『変わる!』
朱音の声が防護ガラスを震わせた。
『篠原達哉は数字じゃない。私の兄だった。帰ってくるのを待ってる人間がいた。あの人が死んだ後も、ずっと時間が止まったままの人間がいる!』
『死んだと言えば証拠がないと言われた。生きていると思えば、どこにいるのか答えられなかった。あんたが何も残さなかったから、私は兄が死んだことさえ今日まで確定できなかった!』
記録端末を握る手が震えている。怒りだけではない。本人の口から死を確定され、ようやく泣くことさえ許された人間の震えだった。
天城は謝らない。
反論もしなかった。朱音が名前を叫ぼうと、その事実を自分の選択へ加えるつもりがないのだ。
「誰かに命令されたのか」
直人が問う。
天城の目が細くなった。
「命令なら、俺が殺したことじゃなくなるのか?」
「ならない」
「だったら聞く意味もねぇ」
「お前が何を選んだのかを聞いてる」
短い沈黙の後、天城は迷いなく答えた。
「俺が選んだ。強くなれるならやる」
誰が条件を示したにせよ、天城はそれを言い訳に使わなかった。
だからこそ、直人もその責任を別の誰かへ逃がすつもりはない。
「強くなって、何をする」
「強さに理由が要るか」
天城の答えには迷いがなかった。
強くなることが目的で、その先は存在しない。能力を測り、耐えさせ、限界を越えさせる場所で育った天城にとって、強さは何かを得る手段ではなく、それだけで自分を成立させる唯一の価値だった。
「千人殺しても、終わらないな」
「何?」
「等級六になったら、その上を探す。見つからなければ、また誰かを材料にして作る」
直人は痛む左脚で床を踏み締めた。
「お前は強さを選んでるんじゃない。強くなり続ける以外の選び方を、何も知らないだけだ」
琥珀金色の瞳から、僅かに温度が消えた。
「知ったような口を利くな」
圧迫感が膨れ上がる。
直人は、それでも視線を外さなかった。
「知らないなら、今から見せる」
朱音の兄を含む千人を殺さなければ届かないという計画。
その前提ごと、ここで壊す。
「誰も殺さず、お前に勝つ」
天城の拳が、初めて明確な怒気を伴って握られた。
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