# 第081話 等級五
白い実験区画に、天城の笑いだけが残った。
直人は円形の目盛りの外縁で足を止める。背後には階段と、防護ガラスに隔てられた観測区画。朱音が退路を確保したのを反射越しに確かめ、正面へ意識を戻した。
天城は構えていない。
それでも隙とは呼べなかった。半径も境界も見えない何かが、区画全体へ張り巡らされている。呼吸を変えただけで、その理由まで指先で探られるような圧迫感があった。
「来ねぇなら終わりか?」
「今、見てる」
「何をだ」
「お前が、どこまで分かるのか」
天城の口元が歪んだ。
「ハッ――ハハッ! 分かったところで、どうなる」
最後の音が届く前に、白い姿が消えた。
直人は左へ踏み出す気配だけを作り、重心を右へ残していた。だが天城の手は、実際に動くはずだった右側へ最初から伸びてくる。
思考を読まれたわけではない。
足裏へ掛かった圧。腰の捻り。筋肉が力を伝え始める位置。そのすべてを、目に見える動きになる前から拾われている。
直人は腕で受けず、身体ごと沈んだ。頭上を抜けるはずの掌が急角度で落ちる。左前腕を添えて軌道を逸らした瞬間、天城の肩が僅かに入った。
追撃が来る。
右肩を庇って捻った脇腹へ、膝が掠めた。
「ぐっ……!」
直人の身体が床を滑る。肺から空気を吐き出しながら片手をつき、倒れ切る前に立ち直った。
一撃ごとの重さが違う。久我やシャルロットも等級四の名に相応しい強者だったが、天城はその延長にいない。速さと力だけではない。自分に有利な空間の中で、相手の始動を奪ってから殴ってくる。
「どうした、正義のガキ。見るだけで勝てると思ったか」
「思ってない」
直人は《魔力循環》を速めた。
右肩の鈍痛も、脇腹に残る熱も消えない。だが身体の内側を巡る流れは途切れなかった。天城の視線が僅かに細くなる。何かが動いたことは捉えても、その流れ自体へ手を入れた様子はない。
直人は視線だけを天城の右へ流した。反応はない。左足の爪先で床を擦り、上体を僅かに沈めると、天城の重心もすぐ追ってくる。見ているのは目線や表情ではない。実際に身体が力を生み、動きへ変えようとする瞬間だ。
続けて左手の指先へ力を集め、拳にする前に解く。その小さな変化にも琥珀金色の瞳が動いたが、直人の内側を巡る魔力は乱されなかった。
最初の遭遇で見た男の能力は、発動した後に消されたのではなかった。地面へ力を通し、現象を成立させようとした場所を先に潰されていた。
ならば、万能な能力消去ではない。
少なくとも、直人の内側にあるものへ同じ方法は通じていない。
「まだ立つか」
「聞くことが残ってる」
その時、天井のスピーカーが雑音を吐いた。
外部通信は切れている。繋がったのは、防護区画と実験区画だけを結ぶ古い有線回路だった。
『篠原達哉を殺したのは、あなた?』
朱音の声は低かった。
天城が観測窓へ顔を向ける。直人はその瞬間にも踏み込まない。今ここで答えを奪えば、朱音が来た意味まで奪うことになる。
「名前じゃ分からねぇ」
天城は面倒そうに言った。
『三か月前。高等級能力者向け非公開適応確認。兄は、あなたの映った記録を残して消えた』
僅かな間が落ちた。
天城の目に浮かんだのは後悔ではない。過去の実験記録を順に確かめ、その一つへ該当したというだけの冷たい納得だった。
「ああ。そいつなら俺が殺した」
操作卓の向こうで、朱音の指が止まった。
ずっと分かっていた答えだった。それでも、推測と本人の口から告げられる事実は同じ重さではない。
『……どうして』
「必要だったからだ」
『それだけで、人を殺したの?』
「それ以外に何が要る」
天城の声音には愉悦も、怒りもなかった。本当に理解していない。人が死ぬことと、必要な結果が出ることを、別の秤へ載せる発想そのものがない。
観測ガラスの向こうで朱音の肩が震えた。
『兄は、あなたの実験材料じゃない』
「だから何だ」
天城は朱音へ理解を求めず、自分の過去を持ち出しもしなかった。彼女の怒りを否定するのではなく、その怒りに答える必要そのものを切り捨てている。
朱音の手が、防護扉の解錠部へ伸びかけた。
けれど、触れる直前で止まる。ここを出ても兄の仇へ届かず、直人の動きを縛るだけだと理解している。それでも留まるには、指が白くなるほど操作卓の縁を握らなければならなかった。
『……それを、当たり前だと思ってるの』
「当たり前かどうかで、死んだ数が変わるのかよ」
答えは冷酷だった。しかし、自分の行いから逃げる響きでもなかった。天城は殺した事実を隠さず、それを悪と呼ばれても構わない代わりに、なぜ悪いのかを考えることまで放棄している。
直人は息を整えながら、天城を見据えた。
「誰にそう教えられた」
琥珀金色の瞳が戻ってくる。
「お前には関係ねぇ」
「ある。お前が、その理屈で次も殺すならな」
今度の天城から、笑いは出なかった。
一歩。
床の目盛りが靴底の下で砕ける。
直人は退かず、左の拳を真っ直ぐ放った。天城には始動から見えている。拳を外へ払い、そのまま胸骨を折る掌底へ繋ぐはずだった。
だから、払わせた。
直人は拳を引かなかった。天城の腕へ触れたまま力を抜き、払われる勢いで身体を回す。見えている動きを途中で捨てたのではない。相手が選ぶ反応まで含め、最初から一つの動きにした。
右肩が悲鳴を上げる。
構わず沈み込み、左の踵を天城の足首へ滑り込ませた。
天城の身体が半歩ずれた。
床の目盛りを、一つだけ越える。
直人の追撃は届かなかった。振り返った天城の肘が胸元へ入り、衝撃が背中まで突き抜ける。直人は五メートル近く吹き飛ばされ、床へ肩から落ちた。
視界が白く弾ける。
それでも受け身を取り、片膝をついたまま顔を上げた。
天城は追ってこなかった。
自分の靴が越えた一本の目盛りを見下ろしている。
存在も動きも、始まる力も捉える。能力の成立点へ干渉し、圧倒的な身体能力で先を取る。
だが未来を知るわけではない。
読まれる起点を偽るのではなく、読ませた動きへ複数の結末を持たせれば、触れる余地はある。
「……へえ」
天城が顔を上げた。
「ハッ――ハハッ!」
響いた笑いは、さっきまでの嘲りと僅かに違った。目の前の弱者がまだ自分を倒せるとは考えていない。ただ、踏めば折れるだけだと思っていたものが、牙を返したことを面白がっている。
「一度立った程度で、俺と戦えるつもりか」
「一度で足りないなら、次もやる」
直人は立ち上がった。
右腕の感覚は薄い。呼吸のたび、脇腹と胸が痛む。それでも、天城の力が何でも消せるわけではないと分かった。
そして朱音は、兄の死を推測ではなく事実として聞いた。
ここから先は、退いて終われない。
天城が両腕を下げたまま、初めて腰を僅かに落とす。
実験区画を満たす圧迫感が、直人一人へ絞られていく。皮膚の上から骨の位置まで掴まれるような密度に、呼吸さえ重くなった。
「なら立ってろ。次は、その足から潰す」
等級五は、ようやく直人を倒す対象として見始めていた。
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