# 第077話 目撃者
「退くのはお前だ」
直人は天城から目を離さないまま、片膝をつく男との間へ身体を入れた。
「公的ギルドの救助班が来る。ここで続ければ、逃げ道が減るぞ」
背後で男の呼吸が乱れている。外から分かる出血はない。だが右腕は舗装へ押しつけられたまま動かず、能力を使おうとするたびに肩が痙攣していた。
「俺は、いい……逃げろ」
「話せるなら、意識を保ってくれ。脚は動くか」
「左なら、何とか」
答えを聞いた天城が、琥珀金の目を細めた。
「ハッ――ハハッ! 人の話も聞けねぇらしいな」
白髪の少年は構えもしない。正面へ立つ直人を、障害と呼ぶことさえ大げさだと思っている。
「何も知らねぇガキが、助けに来ましたってか。そいつが何者かも、ここで何してたかも知らねぇくせに」
「知らない」
直人が認めると、天城の口元がさらに歪んだ。
「なら、黙って帰れ」
「何者だろうと、助けを求めたことは分かる。それで今は十分だ」
笑いが止まった。
怒ったわけではない。ただ、理解する価値もない答えを聞いたように、天城の目から僅かな興味まで消える。
「救えねぇな」
声が届いた時には、天城の姿が目の前にあった。
速い。
踏み込む予備動作も、地面を蹴った音も、直人の認識へほとんど残らなかった。白い髪が視界を横切り、開いた右手が胸元へ伸びる。
直人は半歩沈み、腕を外から払った。まともに受け止めれば骨ごと持っていかれる。軌道を逸らし、脇を抜ける――はずだった。
天城の手首が、払われた方向へ逆らわず回る。
直人の動きを最初から見ていたように肘が折り畳まれ、掌底が肩口へ滑り込んだ。
衝撃が全身を貫く。
直人は自分から後ろへ跳び、威力を逃がした。靴底が舗装を削り、三メートル近く押し戻される。それでも倒れず、背後の男へ続く線だけは外さなかった。
「……へえ」
天城の口から漏れたのは、感心よりも意外さだった。
「力はねぇくせに、逃げ方だけは知ってんのか」
軽い一撃だった。
肩の奥まで痺れているが、本気ならこの程度では済まない。天城は今も、直人を倒すために戦ってはいなかった。
それ以上に厄介なのは、最初の一手だった。
天城はこちらの動きを見てから対応したのではない。重心が落ち、筋肉が動き、力が流れ出す、その起点から把握していた。視線を外しても、死角へ入っても、おそらく同じだ。
直人は《魔力循環》を速めた。
外へ放つ能力ではない。身体の内側へ魔力を巡らせ、痺れた右肩を支えながら呼吸を整える。
天城の眉が、ほんの僅かに動いた。
しかし、その変化はすぐ侮りへ戻る。
「二度目だ。退け」
「断る」
「正義の味方は大変だな。会ったこともねぇ奴のために、死ぬ順番まで早めるのか」
「正義だからじゃない」
直人は痺れる腕を下げ、左半身を前へ出した。
「ここで見捨てたくないだけだ」
天城は一瞬、言葉を返さなかった。
次の一歩で終わらせるつもりなのだろう。空気へ満ちた圧迫感が、さらに狭く、濃くなる。
その時、資材管理路の反対側から硬い足音が響いた。
「天城皇牙!」
若い女の声だった。
現れたのは、直人より少し年上に見える若い女性だった。薄い赤銅色の髪を肩口で切り、右側だけ細く編み込んでいる。灰緑色の目は走ってきた息苦しさより、天城を見つけた怒りに大きく見開かれていた。
灰色の薄手ジャケットの胸元で、記録端末が赤い作動灯を点している。
天城は驚かなかった。
彼女が角を曲がる前から気づいていたように、僅かに顔を向けただけだった。
「今度は何だ。知らねぇ女まで増えやがった」
「あんたは……!」
少女の指が震えた。
怒りに任せて踏み出そうとしながら、身体は天城との距離を拒絶している。その恐怖を、本人だけが認めまいとしていた。
遠くで警告音が重なる。
救助班の車両だけではない。複数人の足音が二方向から近づいていた。
天城は舌打ちし、片膝をつく男から手を引いた。
「人が増えすぎた。今日はやめだ」
「待ちなさい!」
少女が走り出しかける。
直人は左腕でその進路を塞いだ。天城を追えば、今度こそ見逃されない。
「離して! あいつを――」
「追って何をする。今はこの人を助ける」
天城が防音壁の上へ視線を向ける。五メートル近い高さがあるにもかかわらず、膝を浅く曲げただけだった。
「逃げるのか」
直人が投げた言葉に、天城の動きが止まる。
振り返った顔へ、再び嘲る笑みが浮かんだ。
「ハッ――ハハッ! 弱ぇくせに、挑発だけは一人前か」
「次も俺が邪魔をする」
「次があればな、正義のガキ」
天城の足元で舗装が砕けた。
白い影が防音壁の上へ跳び、その向こうへ消える。追跡を選べる速度ではなかった。
直後、公的ギルドの救助班が管理路へ入り、警備担当が周辺の封鎖を始めた。
直人は参加要請への応答者として、見たことだけを順に報告した。天城の名。能力発動を阻害されたように見えた状況。短い接触。逃走方向。推測は混ぜない。
救援対象の男は意識を保ったまま担架へ移された。右腕の感覚障害と能力使用後の強い疲労はあるが、現時点で命に関わる外傷は確認されていないという。
赤銅色の髪の少女も、封鎖の内側へ残されていた。
身元確認へ差し出した端末から、篠原朱音、十九歳という情報が読み上げられる。能力者登録は等級0。捜査機関にも公的ギルドにも所属していない。
「どうして現場へ来たんです」
警備担当の問いに、朱音は口を閉ざした。
記録端末を握る手だけが白くなる。怒りが消えたのではない。公的機関へ何度話しても届かなかった人間の沈黙だった。
「私からも聞きたい」
応急確認を終えた直人が声を掛けると、灰緑色の目が鋭く向けられた。
「あなた、誰」
「瀬名直人。近くで救難要請を受けた」
「学生が、天城の前へ立ったの」
「結果的には」
朱音は信じ難そうに直人の右肩を見た。腫れは出始めているが、動かせないほどではない。
「あの人が狙われると知ってたのか」
直人が救援対象の担架へ目を向けると、朱音の唇が固く結ばれた。
「……可能性があると思って、見てた」
「根拠は」
「警察には渡した。でも、天城を犯人だと決める証拠にはならないって言われた」
責める声ではなかった。証拠が足りないことを、朱音自身も理解している。それでも止まれない理由がある。
直人は質問を重ねず、彼女が握り締めた端末を見た。
「何を探してる」
長い沈黙の後、朱音は逃げずに直人を見返した。
「私の兄」
声は震えなかった。
けれど、端末を持つ指はまだ白いままだった。
「篠原達哉。登録等級四。みんなは失踪したって言ってる」
朱音は一度だけ息を詰め、それから天城が消えた防音壁を睨んだ。
「違う。兄は、天城皇牙に殺された」
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