# 第075話 もう一人の勇者
正式異議への回答が届いたのは、等級四の大会後評価が学園中の話題になった二日後だった。
放課後、直人が指定された校内面談室へ入ると、志摩美冬が一人で待っていた。紺色のスーツも銀縁眼鏡も以前と変わらない。ただし机の上にあるのは分厚い資料ではなく、封印表示の付いた薄い端末一枚だけだった。
「まず、制度上の回答からお伝えします」
着席した直人へ、志摩は画面を向けた。
「瀬名さんが提出した異議は、能力情報の横断利用に対する正式な意思表示として受理されました。今後、教育・研究目的で新しい分析へ利用する場合は、目的、利用範囲、危険性、責任部署、拒否した場合の扱いを事前に示し、改めて同意を得ます」
「全部の監視が止まるわけじゃない」
「はい。都市防衛、重大犯罪への対応、生命に関わる緊急解析まで停止するものではありません。すでに保有している記録も消去されません」
都合のいい全面撤回ではない。だが、声を上げた事実が記録の底へ沈められたわけでもなかった。
「曖昧に研究へ回される範囲には、拒否権が付いた」
「正確には、利用の都度、説明と意思確認を受ける権利です。拒否できない法的根拠がある場合は、その根拠と異議申立先を示します」
直人は画面を最後まで確認し、承認ではなく受領の欄へ指を置いた。
「分かった。回答は受け取る」
志摩は小さく頷いた。
「ここから先は、制度上の回答ではありません。統括者が、瀬名さん本人にだけ伝えると判断した内容です」
彼女が端末を操作すると、室内の窓が自動で曇り、扉の施錠表示が青から赤へ変わった。壁面端末には音声接続中の文字だけが現れる。
志摩は席を立った。
「私は室外におります」
「知らされてないのか」
「知る必要のない機密を聞かないことも、私の仕事です」
扉が閉じる。
短い無音の後、聞き覚えのある加工音声が流れた。
『正式異議に対する回答は確認しましたか』
「確認した。次は、あんた自身の回答だ」
直人は空席の向こうにある画面を見た。
「どうしてレベルとスキルポイントを知っている。どうして勇者の考え方を、経験したみたいに話す」
機械音だけが均一に響く。だが、その沈黙はこれまでの演算待ちより長かった。
『以前、私は異世界から来た者ではないと答えました』
「覚えてる」
『あれは事実です。私は地球で生まれ、別の世界へ呼ばれ、そして地球へ戻った』
直人の指が、膝の上で止まった。
『私もかつて、勇者でした』
たった一文だった。
それでも、加工された声の奥に初めて一人の人間が立った。
直人はすぐには答えなかった。異世界へ呼ばれ、勇者として戦い、地球へ戻った人間。自分以外に存在する可能性を考えなかったわけではない。だが、勇者を知る観測者と、同じ経験を持つ者とでは、言葉の意味が違う。
「証拠は」
『現時点では提示しません。私の身元、召喚先、帰還時期、勇者としての能力は、いずれも現在の防衛体制へ直結する機密です』
「なら、信じろとは言えないな」
『言いません。レベルとスキルポイントという語を知るだけなら、あなたの記録から推測した可能性も残る。今回の開示は、信用を要求するためのものではありません』
自分に不利な可能性まで認める。その返答は、少なくとも同情を利用して距離を詰めるものではなかった。
「だったら、何のために言った」
『あなたが、私の目的と責任を問うたからです』
声は平坦なままだった。
『一人の勇者を世界の唯一の回答にしてはならない。これは理論から得た結論ではありません。私自身の経験から得た判断です』
「勇者が足りなかったから、代わりを作るのか」
『勇者が勝てるかどうかに、世界の存続すべてを預けないためです』
「同じだ」
直人の声が低くなる。
「一人じゃ足りないから、使える人間を増やす。本人に何をさせるかも知らせず、断る前から観測する。それで誰かが潰れても、世界全体が助かれば正しいって計算になる」
『正しいとは言っていません』
「必要ならやるって顔をしてる」
顔は見えない。名前さえ知らない。それでも、これまで示された記録と沈黙が、その人物の立つ場所を形作っていた。
『勇者は、助けを求められれば断りにくい。たとえ拒否する権利が形式上は存在していてもです』
「……あんたもそうだったのか」
『そう問える程度には』
肯定に近く、説明には遠い答えだった。
直人の胸へ熱が差す。
「だったら、なおさらだ」
机へ置いた手に、自然と力が入った。
「断れなかった過去を、次の誰かも断れない仕組みを作る理由にするな。勇者だったなら分かるはずだ。役目を与えれば、人間が痛くなくなるわけじゃない。世界のためって言葉を付けても、選ぶ権利を奪えば、それはただの強制だ」
加工音声は反論しなかった。
「俺は勇者だったあんたを信用するんじゃない。今のあんたが、目の前の人間をどう扱うかを見る」
『あなたが紗良さんたちへしたように、選択を返せと』
「記録しただけで分かった気になるな」
直人は画面から目を逸らさない。
「迷って、怖がって、それでも自分で決めたんだ。次に誰かを使おうとするなら、その人にも目的と危険を話せ。断る余地を残せ。決めた後だけ責任を押し付けるな」
『すべてを保証するとは答えられません』
「なら、越えた時は俺が止める」
同じ勇者だったという事実は、免罪符にはならない。むしろ、その重さを知っていてなお同じ構造を作るなら、知らない者より厳しく問うべきだった。
『その可能性も想定しています』
「もう一つ。能力検査より前に、どうやって俺を見つけた」
『その回答は保留します。開示すれば、現在も運用中の検知手段を示すことになる』
「異議を受けた直後に、また非公開か」
『はい。あなたが納得しないことも含めて、記録します』
以前なら、一方的な拒絶で終わっていた。今回は拒否そのものが、誰の判断で、何を守るために行われたかという記録へ残る。
十分ではない。
だが、何も変わっていないわけでもなかった。
「元勇者だって話も、今は保留だ。証明されるまではな」
『妥当です』
「ただし、本当なら一つだけ覚えておけ」
直人は立ち上がった。
「勇者だったことは、人を選ぶ側に立つ資格じゃない。選ばれる痛みを忘れないための理由にしろ」
返答までに、僅かな間があった。
『……記録します』
「今度は、記録した後に考えろ」
接続が切れる。
施錠表示が青へ戻り、曇っていた窓へ夕方の学園が映った。
室外で待っていた志摩は、直人の顔を見ても内容を尋ねなかった。
「回答は得られましたか」
「一つだけ。代わりに、分からないことが増えた」
「そうですか」
それ以上踏み込まない声に見送られ、直人は面談室を出た。
昇降口へ向かう途中、廊下の表示板が通常番組から緊急速報へ切り替わる。
画面に表示されたのは、大会の話題でも、学園都市の広報でもなかった。
国内の複数地域で、登録済みの等級四能力者と相次いで連絡が取れなくなっている。警察と公的ギルドは、現時点で事件同士の関連は確認されていないとしながらも、共同で所在確認を進めているという。
等級四。
つい先日、その価値がどれほど大きいかを誰もが語っていた階級だった。
直人は足を止め、速報の続報を見上げた。
もう一人の勇者が何を隠しているのか。その答えさえ得られないまま、地上では別の異常が動き始めている。
複数の失踪が偶然ではないと、この時点ではまだ誰も証明できていなかった。
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