# 第073話 勇者を必要としない世界
地球側の模式図には、最後まで《勇者》の文字が現れなかった。
直人が異世界で選ばれた時、勇者は魔王へ対抗するための仕組みとして存在していた。誰が作ったのかも、なぜ自分だったのかも分からない。それでも、魔王の出現に応じて勇者が生まれる法則だけは確かにあった。
地球には、それがない。
「だから能力者を代わりにするのか」
『代わり、という表現は正確ではありません』
加工音声は淡々と答えた。
『一人の英雄へ集約された力ではなく、再現可能な防衛手段を構築する。能力者の進化、複数能力の連携、ダンジョン法則への対処。検討している経路は一つではありません』
「その中から都合のいい人間を選んで、数字を取る」
『観測しなければ、可能性の比較はできない』
壁面の模式図が切り替わる。
七つの固定点。これまでに確認された大流出災害。各国が保有する高等級能力者の配置と、ダンジョン対応戦力。固有名は伏せられていたが、どの国がどれだけの余力を持つかが色分けされている。
一か所なら抑えられる。
二か所、三か所と同時に崩れれば、防衛線から人が足りなくなっていく。
『現在の戦力は、発生した災害へ対処するためのものです。魔王級の意思を持つ存在が、複数地点を意図的に動かした場合の保証にはならない』
「保証がないのは、異世界でも同じだった」
『だから、あなたは四年を費やした』
声に感情はなかった。
だが、その言葉だけは奇妙に重かった。
『あなたが勝てたから、あなたの世界は救われた。しかし勇者が敗れた世界は、記録を残す者さえいない』
「まるで見てきたみたいに言うな」
統括者は答えなかった。
沈黙を認めることも、否定することもしない。その逃げ方に、直人はまた一歩、声の主が隠している過去へ近づいた気がした。
「俺が聞いたのは、危機があるかどうかじゃない。何を作るつもりで、そのために誰へ何をさせるのかだ」
『研究途上の情報には、開示によって成立しなくなるものがあります』
「人に見せられない方法だからか」
『非公開であることと、非合法であることは同義ではありません』
「聞いてるのは法律の話じゃない」
直人の声が低くなる。
「勇者を必要としないと言いながら、代わりの誰かを壊して同じ場所へ立たせるなら、何も変わってないと言ってる」
壁面の数字は動き続けていた。
人員。損耗。対応可能時間。救助優先度。
その一つ一つが必要な計算であることを、直人は否定できない。戦場で数字を見ずに全員を救えるほど、現実は甘くなかった。
だが、数字へ変えた瞬間に消えるものも知っている。
『犠牲を一切想定しない防衛計画は成立しません』
「犠牲をゼロと言えなんて頼んでない」
直人は画面を指した。
「誰に何を背負わせるのか。本人が選べるのか。戻る道を最初から用意してるのか。それを隠したまま、必要だから使うなと言ってる」
『あなた自身は、異世界で選べたのですか』
問いが、正面から返ってきた。
魔王を倒さなければ世界が終わる。
逃げ道などなかった。選んだ形をしていても、選ばなかった先にあるのは他人の死だった。
『勇者は最後に自分を数から外す。自分一人の損失で多数が生きるなら、それを最適解と呼ぶ』
翠環回廊で、一人だけ後方へ残ろうとした自分を思い出す。
統括者は、あの時の記録も見ていた。
「前の俺なら、そうした」
『今は違うと?』
「違う」
即答すると、加工音声の向こうで僅かな間が生まれた。
「俺が死ねば一番簡単でも、それを最初の答えにはしない。自分が帰る道も、仲間が俺を助ける可能性も、勝手にゼロへしない」
『それでも、他に手段がなければ』
「戦う」
迷いはなかった。
「魔王が来れば俺は戦う。家族も、この街の連中も、守りたい人間がいるからだ。けど、死ぬ前提で戦うことと、死ぬ可能性があっても生きて帰る道を探すことは同じじゃない」
胸の奥に、紗良の声が蘇る。
直人も、救う命の一つなのだと怒った声。
「勇者を必要としない世界を作ることには反対しない」
直人は、姿のない相手をまっすぐ見た。
「でも、俺一人を世界の外へ置くな。俺の代わりに別の誰かを外へ置くな。守るために戦う人間まで、最初から失っていい数へ入れるな」
長い沈黙が落ちた。
画面上では合理的な数字が更新され続ける。そのすべてを扱える統括者が、直人の言葉へ返答を選びあぐねているように見えた。
『あなたの回答は、帰還直後の行動傾向と一致しません』
「人は変わる。観測してたなら、それも記録にあるだろ」
『あります』
短い返答だった。
「行動が変わった理由まで、お前の表に入ってるのか」
『周囲の発言と、その後の選択から推定はできます』
「推定と、本人が決めた答えは同じじゃない」
紗良の怒りも、麗華が選んだ救助も、透花が能力のない自分を否定しなかったことも、結果だけなら短い記録へ変えられる。
だが、そこへ至るまで何を恐れ、何を捨てずに残したのか。それを抜いた数字だけで、その人間の次の選択までは決められない。
『だから、あなたを観測する価値が増した』
「勝手に価値を決めるな」
『では、あなたも私を見極めればよい』
壁面から七つの固定点と各国戦力の表示が消える。
『能力者の進化を含む対抗手段の研究は続けます。具体的な研究内容と対象について、現時点でこれ以上は開示しません』
「なら、協力もしない」
『要請はしていません』
「要請する時は、目的、方法、危険、誰が責任を取るのかを全部出せ。俺を使うなら、俺が断れる状態で話せ」
『記録しました』
扉のロックが外れる音がした。
直人は最後まで椅子へ座らなかった。
「もう一つ残ってる。検査前から俺を見つけていた方法と、お前が勇者を知っている理由だ」
『その問いは、まだ回答できません』
「なら、次も聞く」
それだけ告げて、直人は暗い面談室を出た。
白い廊下では、志摩美冬が同じ場所で待っていた。銀縁眼鏡の奥の目が、戻ってきた直人の顔を静かに確かめる。
「必要な説明は受けられましたか」
「半分だけです。残りは拒まれました」
「異議申立てを記録しますか」
「お願いします。横断監視の目的と、研究協力を求める場合の事前開示について」
志摩は理由を尋ねず、端末へ正式な記録を作った。
地上へ戻る昇降機の中で、預けていた学園端末が通信を取り戻す。通知欄には、学校、能力教育関係者、取材窓口を通じた面談希望が並んでいた。
地下では、人類全体の未来を理由に観測された。
地上では、日本代表として得た一勝を理由に評価される。
どちらの視線も、直人という人間のすべてを知っているわけではない。
次に向き合うのは、秘密の計算ではなく、公になった評価の方だった。
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