# 第064話 昨日の敵は、今日の味方
榊原がこじ開けた防火扉の向こうでは、非常灯と赤紫色の光が交互に明滅していた。
天井材が落ち、廊下の中央には折れた案内板が横たわっている。その先で、二人の警備員が倒れた職員を運ぼうとしていた。
『日本代表五名の登録を確認。現在位置から東階段までの避難支援を要請します。地下搬入区画より先への進入は、警備本部の指示を待ってください』
非常回線から届いた声は、背後で飛び交う報告に何度もかき消された。
各国の警備部隊が動いていないわけではない。複数区画で同時に術式が起動し、閉鎖された扉と取り残された人間への対応で分断されているのだ。
「了解した。まず避難路を確保する」
久我は即答すると、四人へ視線を巡らせた。
「久世は床へ触れずに通れる道を作れ。鳴海は避難者の防護。榊原は壁と床から敵の位置を探れ。瀬名は術式と誘拐経路を見ろ。私は全体を繋ぐ」
競技場では、一人ずつ戦った。
今は違う。
誰か一人の敗北で終わる試合ではなく、一つの見落としが他人の命へ届く実戦だった。
「前方十八メートル。角の向こうに三人いる」
床へ手を当てた榊原が告げる。
「二人は動いてる。一人は止まったまま、壁際で何かを操作している」
直人は床に残る光を追った。円環から伸びた線が、前方の節点へ収束している。
「止まってる奴が起動具を持ってる。あと五秒で次が来る」
「久世」
「うん」
久我が名前を呼ぶだけで、透明な足場が廊下の上部へ三枚並んだ。
直人は一枚目を踏み、崩れた案内板の上を越える。二枚目へ移ると同時に、角の向こうから金属製の短矢が二本飛来した。
鳴海の障壁が一方を天井へ受け流す。
もう一方は、久我が作った横風に押されて軌道を外れた。
「上だ、瀬名!」
榊原の声に合わせ、三枚目の足場を強く蹴る。直人の身体は角の内側へ飛び込み、保守作業服を着た男の腕を蹴り上げた。
黒い起動具が宙へ離れる。
男の仲間が警棒を振り抜くより先に、床から振動が走った。踏み込みだけが崩れ、警棒の先は直人の肩を掠めて壁へ当たる。その瞬間、直人は男の手首を取り、関節を返して床へ伏せさせた。
残る一人が円環へ手を伸ばす。
「動くな」
久我の低い声とともに、男の周囲だけ気圧が上がった。膝が床へ落ち、呼吸を奪われた手が止まる。
三人を無力化するまで、十秒もかからなかった。
「初めて合わせた気がしないね」
久世が避難者用の足場を追加しながら言う。
「互いに倒し方を調べたからな」
榊原は直人の横を通り、落ちた起動具を靴先で遠ざけた。
「昨日までの情報を、敵だけに使う必要はない」
直人は、榊原が床へ流す振動の速さを知っている。久我が気圧を変える直前、空気にどんな境界が生まれるかも知っていた。
二人もまた、直人が敵のどこを見て、どの瞬間に予定を捨てるかを知っている。
敵として積み重ねたものが、そのまま共闘の距離を縮めていた。
五人は職員たちを東階段へ送りながら、会議棟の奥へ進んだ。
次の分岐には、床だけでなく左右の壁にも術式が刻まれていた。中央には負傷した警備員と、動けない会議職員が五人。赤紫色の線が彼らを囲み、通路の三方向へ節点を伸ばしている。
「三方向から来るぞ」
榊原の感知と同時に、鳴海が障壁を展開した。
一枚は避難者の正面。二枚目は左。三枚目を右側へ置いた瞬間、正面の障壁が僅かに透ける。
多方向へ分けたため、強度が落ちている。
直人は壁の光を見た。
右の節点だけ、起点から届く明滅が一拍遅い。攻撃を出す線ではない。三枚目を使わせるための囮だ。
「鳴海、右を捨てろ。正面へ二枚重ねろ」
「右にも避難者がいる」
「そこは俺と榊原が取る」
「外したら、全員が食らうぞ」
鳴海の迷いは弱さではなかった。
防御を担う者として、守れるかもしれない方向を自分から捨てることへの責任だった。
「お前一人に、五人分を守らせるために来たんじゃない」
直人は右通路へ身体を向けた。
「守れない一方向を、俺たちへ預けろ。お前は俺が示した二枚を絶対に落とすな」
赤紫色の光が強まる。
決断へ残された時間は、一秒もない。
鳴海は右の障壁を消した。
「競技場の外で必要になれば決めると言ったな」
二枚の障壁を正面へ重ね、灰褐色の瞳で直人の背中を見る。
「今決めた。右は任せる、瀬名!」
「任された」
正面の円環が爆ぜた。
轟音と衝撃が二枚の障壁へ突き刺さる。一枚目が大きく軋み、受け流し切れなかった力を二枚目が天井方向へ弾いた。
左から飛んだ金属片は、鳴海が残した一枚に阻まれる。
右の術式は光っただけで、衝撃を出さない。
代わりに、偽装壁の内側から二人の侵入者が飛び出した。
「床を借りるぞ」
「もう取ってる」
榊原の振動が一人目の足を崩す。直人は沈んだ肩へ掌底を入れ、勢いを横へ流して壁へ押さえつけた。
二人目の警棒が振り下ろされる。
直人は避けなかった。
警棒が届く直前、その柄へ榊原の振動が流れた。侵入者の指が痺れ、握りが緩む。直人は落ちた警棒を蹴り飛ばし、鳩尾への一撃で男の息を詰まらせた。
同時に久我が気流を反転させ、正面の衝撃で舞った破片を無人の廊下へ集める。久世の足場が倒れかけた職員の背を受け止めた。
五方向へ分かれていた役割が、一つの結果へ繋がった。
全員、生きている。
鳴海は障壁を解くと、直人へ短く頷いた。
「今度は一勝じゃない。背中を預けられると認める」
「判断が早いな」
「結果が出た後まで疑うのは、慎重じゃない。ただの意地だ」
初対面の時と同じ、率直な声だった。
だからこそ、その評価が変わった重みを直人も正面から受け取った。
『日本代表へ。地下搬入口へ向かった対象を確認。警備制圧班は別区画の閉鎖により到着まで六分。対象が外周搬送路へ出るまで、推定四分です』
「追尾許可を求める」
久我が即座に返す。
短い沈黙の後、警備本部から条件付きの許可が下りた。位置情報を常時共有し、要人の生命へ危険が迫った場合以外は、制圧班到着まで接触を維持する。
直人は最後に残った円環の終端を見た。
赤紫色の線は地下へ降りた後、西へ曲がっている。
その先で、通信端末の表示が一斉に乱れた。
地下搬送路を塞ぐ金属隔壁が落ち、電子錠の表示が消える。さらに奥からは、同じ術式の残光が続いていた。
「道は合ってる」
直人は隔壁の向こうへ耳を澄ませた。
「だが、ここから先は向こうも時間を稼ぐ気だ」
非常回線へ、新しい指示が流れる。
『各国代表団へ。警備本部の個別指示を受けていない代表は、指定警護区画で待機。フランス代表は西側要人警護区画から離れないでください』
金属隔壁の先と、シャルロットが留められた区画は、同じ西側にあった。
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