# 第056話 罠の先
夜の九時を回った頃、透花は学生用住宅の作業机で、小型探査器の記録を整理していた。
窓の外を人影が横切ったのは、それが三度目だった。
一度目は帰宅する学生だと思った。二度目で端末の時刻を確認し、三度目には照明を落としてカーテンの隙間から外を見る。街路灯の下に立っていた細身の男が、僅かに顔を上げた。
整えられた黒髪。細い眼鏡。その奥から、東條恭介が透花の部屋を見ていた。
喉が音もなく狭まった。いつもなら恐怖を冗談へ変える言葉が、今夜は一つも浮かばない。
透花は窓から離れながら、机の下に取り付けた緊急通報を作動させた。次いで、登録済みの連絡先を呼び出す。
「ナオくん。東條が、家の外にいる」
『分かった。今から行く。窓には近づくな。』
直人の声は低く、落ち着いていた。大丈夫だとは言わなかった。代わりに内側の扉を施錠し、通話を切らず、物音がしても玄関へ近づかないよう告げる。
透花が作業室から居間へ下がった時、建物の裏手で硬いものが擦れる音がした。
「ナオくん……今、裏で――」
言葉の途中で、通信へ鋭い雑音が走った。
続いて、施錠したはずの廊下側から、ゆっくりと扉が押し開かれる。
「ようやく、二人で話せる」
東條の声は、以前と同じ穏やかさを装っていた。だからこそ、異常さが際立った。
「話したい人は、勝手に家へ入ってこないよ」
透花は端末を握ったまま、出口と東條の距離を測る。彼の視線は透花ではなく、その手にある端末へ一度だけ落ちた。
「彼を呼んだんだね。君は、あいつに頼らされている。能力を失ったままでもいいと言って、弱い君を自分のそばへ置いているんだ」
「違う」
震えそうになる声を、透花は腹の底で支えた。
「ナオくんは、私が何を選ぶかを勝手に決めない。私を助けたいんじゃなくて、自分を選ぶ私が欲しいだけの人とは違う」
東條の表情から、薄い笑みが消えた。
踏み込みは突然だった。透花は椅子を蹴って間へ倒したが、腕を掴まれ、床へ押し倒される。背中に衝撃が走り、息が詰まった。
東條の手に、小型の注入器があった。
「少し眠ればいい。目を覚ました時には、全部終わっている」
「それを、助けるって言うな……!」
透花は押さえ込まれた腕を無理に引くのではなく、身体ごと横へ捻った。針先が床を掠める。肩を打ちながら這い出し、近くに落ちた工具箱を蹴り上げると、東條が反射的に顔を庇った。
玄関側から激しい足音が迫る。
扉が開いた瞬間、東條は透花から離れた。入ってきた直人は、床に倒れた彼女と注入器を見て、一瞬だけ注意をそちらへ向ける。その隙を狙って、東條が狭い玄関で全体重をぶつけた。
直人の身体が壁へ当たる。東條はその脇を抜け、夜の通路へ駆け出した。
追える。だが直人は、すぐには追わなかった。
「透花。刺されたか」
「避けた。たぶん、入ってない」
直人は露出した腕と首筋を確かめ、意識と呼吸に異常がないことを見る。その間に透花は震える指で端末を操作し、東條が逃げた方向を警備局へ送った。
「あいつ、ナオくんが来たのを知ってた。外にいたのも、私を見つけさせるため……狙いは、私じゃない」
恐怖の中でも、透花は東條の視線と動きを組み立てていた。
「俺を呼ぶためか」
「行ったら、たぶん罠がある」
「分かった。位置情報は共有した。警備が来るまで内側を閉めろ」
直人は透花が頷くのを待ち、東條の後を追った。
◇
逃走先は、住宅区画の外れにある閉鎖中の設備通路だった。
直人が薄暗い通路へ踏み込んだ途端、床に埋め込まれた板が鈍い赤紫色に発光した。幾何学模様と文字列が幾重にも走り、足首へ光の帯が絡みつく。
能力ではない。
直人は、その文字に見覚えがあった。異世界で魔王軍が用いていた術式文字に酷似している。ただし描いた者の魔力はなく、薄い媒体へ刻んだ術式を、別の動力で使い捨てにしていた。
「あの人たちは、君を消せる方法までくれた」
通路の奥で、東條が起動器を握っていた。
第二の陣が光り、視界の左右がずれる。続けて壁際の紋様から衝撃が放たれ、直人の左肩を打ち据えた。治りかけの腕に熱が走る。
「君がいなくなれば、透花は分かる。自分を本当に理解していたのが誰か」
「まだ、そんな話をしてるのか」
直人は拘束を力任せに破らず、光が強まる順を見た。どの陣も単独では循環を保てない。起点から三つの節点を通り、最後に効果を固定する。術者が扱っているのではなく、完成品を順番に起動しているだけだ。
「透花がお前を選ばなかったんじゃない」
直人は歪んだ視界の中で一歩踏み込み、最初の節点を踵で砕いた。足首の拘束が揺らぐ。
「お前は最初から、透花が選ぶ権利を認めていない」
東條が起動器を連打する。方向を限定された衝撃が正面から来ると読み、直人は身体を半歩だけずらした。壁を打った力が、次の陣を刻んだ薄板ごと砕く。
「救うと言いながら、あいつを薬で黙らせて餌にした。お前が見ていたのは透花じゃない。お前を正しいと言う人形だ」
「黙れ!」
最後の陣が発光する。しかし、起動範囲も向きも固定されていた。直人は光が閉じる寸前、その内側へ踏み込む。残った節点を左腕で庇いながら蹴り抜き、起動器を握る東條の手首を打った。
乾いた音とともに機器が落ちる。
罠を失った東條に、直人と戦える力はなかった。振り回された腕を外から絡め、床へ伏せさせる。なおも暴れようとする身体を、傷つけすぎない力で封じた。
「あいつが怖いと言って助けを求めた。それでも、お前に屈したことにはならない」
遠くから複数の足音が近づく。位置情報を追ってきた能力犯罪対策課が通路へ突入し、東條の両腕を拘束した。
◇
住宅へ戻った直人を、透花は警備員から借りた上着に包まれて待っていた。
押収された注入器からは即効性の鎮静薬が確認され、透花の身体に注入痕はなかった。それでも彼女の手は、まだ小さく震えている。
「私が呼んだから、ナオくんがあの罠へ行った」
「違う」
直人は正面へ膝をつき、逃げ場を塞がない距離で透花を見る。
「お前は餌じゃない。助けを求めて、薬を避けて、生き残った。罠へ行くと決めたのは俺だ。あいつの罪を、お前の選択へすり替えるな」
「でも、怖かった……!」
押し殺していたものが、声と一緒に溢れた。
「家の中に入ってきて、押さえられて、針が見えて……怖かった。でも、それより、ナオくんまで戻らなかったらって思ったら……私が呼んだせいで、いなくなったらって……!」
「戻った」
直人の声が、震える言葉を真正面から受け止める。
「次も戻る。助けを求めたお前を、後悔させない」
透花は俯いたまま手を伸ばし、直人の上着の袖を掴んだ。からかうための距離ではない。今ここにいる相手を、自分の意思で確かめるための手だった。
「警備の人が来ても……もう少し、ここにいて」
「いる」
短い返事に、透花の指から僅かに力が抜けた。
窓の外では、押収された魔法陣が黒い証拠品袋の中へ消えていく。地球の能力とも技術とも異なる文字は、新たな何者かが異世界の術を人間へ渡した事実だけを残した。
それでも透花の手は、自分で選んだ相手の袖を、もう離さなかった。
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