# 第054話 今の私を否定するな
九条の左手に集まった熱が、白く煙る床を赤く照らした。
直人は踏み込む。直後、凝縮された熱が横薙ぎに走り、背後の計測架台を飴のように歪めた。正面から受ければ、現在の身体でも無傷では済まない。だが、九条の肩が動いてから熱が放たれるまでには、僅かな遅れがある。
能力が戻ったのではない。壊れた経路を、装置が無理に動かしているだけだ。
「来るな……! 俺にも、もう止められん!」
「だから止める」
直人は熱線の内側へ潜り、九条の脇腹へ掌底を打ち込んだ。倒すための一撃ではない。固定架台から身体を離し、周囲の構成員へ向いていた左腕を逸らすための打撃だった。
九条がよろめく。しかし背部筐体から延びる配線が軋み、彼の身体を無理やり引き戻した。その瞬間、室温がさらに落ちた。壁際にいた男が膝をつき、白くなった唇から震える息を漏らす。
「透花、まだか」
「急かさないで! 三本とも切ったら、溜め込んだ熱が九条さんの中で弾ける!」
透花の前で、《レイヤー・スコープ》の表示が幾重にも重なっていた。
第一系統は、九条の残留経路へ外部エネルギーを押し込む主供給。第二系統は、旧式能力センサーを利用して出力を増幅し続ける帰還回路。そして第三系統は、吸い上げた熱を床下の蓄熱設備へ逃がす排出路だった。
「先に増幅を切る。排出路は残す。その後で主供給を止める!」
「順番を言え」
「青、赤。黒には触らないで!」
直人は即座に青い補助線へ向きを変えた。
九条の右腕が跳ねる。床から奪われた熱が拳の前へ集まり、空気を歪ませた。直人は攻撃位置を読んで身を沈めたが、散った熱が頬を焼く。それでも足は止めず、青い接続器を蹴り折った。
低い破裂音とともに、室内を満たしていた振動が一段弱まる。
「止めるな……。ここで失敗すれば、俺たちはまた『要経過観察』の札を下げられたままだ」
床へ片膝をつきながらも、九条は左腕を持ち上げた。失った力を取り戻さなければ、救助の現場へ戻れない。その焦りだけは、装置に作られたものではなかった。
「そこに倒れてる人間を代金にして、何を証明する」
「力がなければ、救えない!」
「救う側へ戻るために人を死なせるなら、お前が戻りたかった場所はもう残らない」
九条の顔が歪んだ。怒りか、痛みか、それとも自分の周囲で震えている仲間を見たためか。答えるより先に筐体が彼の神経を跳ねさせ、再び熱を集め始める。
直人は倒れた計測板を蹴り上げ、熱の奔流へ斜めに差し込んだ。金属板は一瞬で赤熱したが、流れが割れた隙に壁際の二人が這って射線を抜ける。直人は熱を凌いだのではない。何が焼け落ちるまで何秒あるかを見切り、その時間を避難へ変えていた。
「増幅停止! でも天井架台が熱差で割れる!」
透花は工具ケースから《フレーム・アンカー》をつかみ、亀裂の走った支柱へ二基を打ち込んだ。端末同士が位置を照合し、崩れかけた架台と停止端末を仮固定する。攻撃のための装備ではない。それでも今は、数百キロの機材が落ちるまでの時間を買っていた。
「そんなものに縋る必要はないでしょう」
東條が第二装置の固定具を持ち上げた。
「《構造解析》が戻れば、機械に時間を使わなくても全部分かる。九条さんも、あなたなら救える。能力を失って苦しんでいるのに、どうして認めないんです」
「今、それを言うの?」
「僕はずっと見てきた。能力があった頃の記録も、失ってから無理に笑っている姿も。瀬名君より、僕の方があなたの願いを理解している」
透花の指が止まった。
否定すれば簡単だった。能力など要らない。今の自分で十分だと笑えば、東條の言葉を切り捨てられる。
かつては指先を触れさせるだけで、装備の亀裂も素材の歪みも流れ込んできた。今は測定杭を打ち、複数の波形を重ね、何度も仮説を捨てなければ同じ答えへ届かない。失った資格も、閉ざされた研究区画も、能力があれば取り戻せるかもしれない。
その願いを知られたことまでが悔しいのではない。願いを理由に、能力を失ってから積み上げた自分のすべてを空白にされたことが許せなかった。
けれど、それは嘘になる。
「欲しいよ!」
張り詰めていた声が、地下室の轟音を裂いた。
「戻せるなら、戻ってほしいに決まってる! 今だって、能力があればって何度も思ってる! 触るだけで分かった頃に戻りたいって、夢に見るくらい思ってるよ!」
灰青色の瞳から涙が溢れた。それでも透花は俯かない。第二装置を見据え、その向こうにいる東條へ、自分の願いも怒りも叩きつけた。
「でも、能力がない今の私を、勝手に偽物にするな! 怖いか、苦しいか、幸せか――私のことを、私より先に決めるな!」
「透花さん、僕は君を救おうと――」
「それは救うことじゃない! 私の答えを消して、あんたの欲しい私を作ってるだけだ!」
九条の熱が再び膨れ上がる。直人はその正面へ身体を滑り込ませ、焼けつく腕で九条の肘を抱え込んだ。膝裏を崩し、床へ押さえながら叫ぶ。
「欲しいなら、欲しいと言え! 失ったものを欲しがったくらいで、今のお前が消えるわけじゃない!」
透花が直人を見る。
「だが、今のお前を捨てる理由まで他人に渡すな! お前の価値も、お前の選択も、あいつには渡すな!」
熱を受け止める直人の腕から煙が上がる。それでも、九条を押さえる力は緩まなかった。
「何を壊す、透花!」
問われたのは、能力を取り戻したいかではない。今ここで、技術者として何を選ぶかだった。
透花は涙を拭わず、解析画面へ向き直った。
「中央中継核。赤を抜いた二秒後に壊す。黒の排出が落ち着くまで、九条さんを床から離さないで!」
「分かった」
透花は停止端末を《フレーム・アンカー》で固定し、絶縁工具を中継核へ差し込んだ。
「三、二、一――赤!」
直人が主供給線を引き抜く。九条の身体が大きく痙攣し、蓄積熱が一瞬だけ膨張した。黒い排出路が唸り、床下へ熱を逃がす。
透花は躊躇しなかった。
「これは、私を戻す装置じゃない!」
振り下ろした工具が中継核を砕いた。
第二装置の表示も同時に消え、地下室を覆っていた異常共鳴が途切れる。残った熱は排出路から徐々に抜け、凍りついた壁から水滴が落ち始めた。
直人の腕の中で、九条が力を失う。脈は乱れているが、生きていた。
直後、防爆隔壁の横から切断音が響いた。資材搬入口を回った能力犯罪対策課の制圧班が突入し、東條を床へ伏せさせる。後方では鬼塚たち自衛派が低体温の構成員を運び、施設外の牧瀬が名簿を照合しながら救護班へ引き渡していた。
「透花さん、まだ調整できます。あれは失敗作じゃない。あなたなら――」
拘束された東條が、消えた第二装置へ手を伸ばそうとする。
「だから、私が壊したの」
透花の声はもう震えていなかった。
「戻りたいかどうかも、何を使わないかも、私が決める。あんたが作った『本当の私』に、私を入れないで」
「外部通信の記録が消去されています!」
制圧班員の報告へ、透花は壊れた制御卓を見た。残っているのは、既存技術と噛み合わない設計痕と、危険情報が意図的に抜かれていた証拠だけ。誰が東條へ渡したのかまでは届かない。
それでも、目の前の装置は止まった。
能力を取り戻したいという願いを捨てたからではない。
能力を失った現在まで、誰かの願望に奪わせないと決めたからだった。
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