# 第045話 幼馴染の、その先
《翠環回廊》の事故から十日が過ぎた。
芦原奏太は緊急手術を終え、急変の危険が下がった後も入院を続けている。ルーカスも胸部と左脚の治療に加えてリハビリが必要となり、教室へ戻るにはまだ時間がかかるらしい。
それでも、十一人全員が生きている。
ルーカスから実習班の共有端末へ届いた第一声が、退院したら直人へ大盛り料理で再戦を挑むという宣言だったため、少なくとも本人の気力は心配なさそうだった。
透子は呆れ顔の画像を返し、真壁はまず医師の許可を取れと注意した。紗良も無茶は禁止と書き込んだ後で、画面を見ながら長く息を吐いていた。以前なら、その安堵の後にも自分がもっと治せたのではないかと考え続けただろう。今も悔しさは残っている。それでも、治療を引き継いだ医療者の手まで自分の救命から切り離すことはしなかった。
直人の脇腹の傷も既に塞がり、紗良も能力の過剰使用による消耗から回復している。長期実習は事故発生時点で中止となったが、二人には事故より前から残っている約束があった。
「今日は私が案内役だからね」
休日の中央駅前で、紗良が念を押した。
栗色の髪をいつもより低い位置でまとめ、淡い青の上着を羽織っている。制服では何度も隣を歩いてきたのに、私服で二人きりというだけで、見慣れた幼馴染が少し違って見えた。
「第二区画の水辺公園から旧商店街を回って、最後に中央展望回廊。勝手に危ない場所へ寄るのは禁止」
「観光案内に禁止事項があるのか」
「直人には必要なの」
反論できる材料がなく、直人は黙って従った。
◇
紗良が選んだのは、能力用品店や訓練施設とは無関係な場所ばかりだった。
人工水路に沿って植えられた木々は夏の光を受け、遊歩道では親子連れが水鳥へ餌を投げている。旧商店街には能力者向けの最新設備より昔ながらの飲食店が多く、紗良は子供の頃に家族で食べたという焼き菓子を直人へ渡した。
「悠真さんも、これが好きだったのか」
「うん。最後の一つになると、いつも私へ譲ってくれた」
紗良は少しだけ目を伏せたが、話を逸らさなかった。
「今でも考えるよ。あの時、お兄ちゃんへ集中していたらって。でも、今回みたいに誰かを選べたからって、あの時の答えが分かったわけじゃない」
「分からないままでいい」
直人は焼き菓子を一口で食べず、半分に割った。
「過去の答えを作るために芦原を選んだんじゃない。あの場にいたお前が、今救える命を選んだ。それで十分だ」
「……うん」
紗良は頷き、直人が差し出した残り半分を受け取った。
兄を失った記憶が消えることはない。選べなかった十五歳の自分を、すぐ許せるわけでもない。それでも紗良は、もう過去のやり直しだけを求めて能力を使うのではなかった。
目の前の命を見て、自分にできないことを認め、仲間へ託す。
その選択で奏太も、ルーカスも、ほかの負傷者も生きて帰った。
◇
午後の商業区は人が多かった。
交差する人波を避けた際、紗良の指が直人の手の甲へ触れた。戦場では迷わず掴めた手なのに、日常の中では互いに僅かに動きを止める。
「ごめん」
「謝る必要はない」
紗良は手を引き、何事もなかったように前へ進んだ。だが歩く距離は、それまでより半歩だけ広がっていた。
十一か月前なら、肩が触れる距離に理由など要らなかった。幼馴染という言葉が、二人の間にあるすべてを説明してくれた。
今は、その言葉だけでは足りないものが増えている。
中央展望回廊へ着いた頃には、日が傾き始めていた。透明な防護壁の向こうへ、能力者用施設と住宅区画、その外側に広がる街並みが続いている。
紗良は手すりへ両手を置き、しばらく景色を見ていた。
「直人」
「どうした」
「あの約束、本当に守る?」
問いの意味を聞き返す必要はなかった。
「守る。今日も傷が開かない移動距離を選んだ。念のため帰路も二つ確認してある」
「観光にまで戦術みたいな準備をしなくてもいいと思う」
「自分の状態を計算へ入れた結果だ」
紗良は呆れたように息を吐き、それから小さく笑った。
「そっか。ちゃんと入れたんだ」
笑みはすぐに消えた。
紗良の指が手すりを握り締める。何度か息を整えた後、直人ではなく、夕日に染まり始めた街へ向けて言葉を絞り出した。
「私、ずっと幼馴染だから直人を心配するんだって思ってた。帰ってきたばかりで危なっかしいから、放っておけないだけだって」
声が震えた。
「でも、あの時は違った。お兄ちゃんと同じようにいなくなるのが怖かっただけじゃない。直人が、自分から私の手の届かないところへ行こうとしたことが、どうしようもなく嫌だった」
紗良はようやく直人を見る。
「幼馴染だったから助けたかったんじゃない。直人だから、いなくなるのが嫌だったの」
それが何という感情なのか、紗良は口にしなかった。
だが直人も、曖昧な慰めで逃げることはできなかった。
「なら、幼馴染という言葉の中へ戻して隠すな」
紗良が目を見開く。
「お前の言葉は、俺が四年間続けてきた命の使い方を変えた。守られる側だと思っていたお前が、俺を生かすために立っていた。俺はそれを受け入れて帰ってきた」
直人は紗良へ向き直った。
「幼馴染だから聞いたんじゃない。お前の判断を信じたから聞いた。次も俺が自分を数から外そうとしたら、同じように止めろ。今度は、止められる前に相談する」
「また危ないことをする前提なんだね」
「危険から逃げるとは約束していない」
「そこは少しくらい格好いいこと言えないの?」
「嘘で安心させるよりはいい」
紗良の目に浮かんでいた涙が、一粒だけ頬を伝った。それでも表情は、泣き顔より笑顔に近かった。
「……うん。直人はそういう人だった」
帰路へ向かう人波の前で、今度は直人から手を差し出した。
「案内はまだ終わってないんだろ」
「私が案内役なのに、どうして直人が手を出すの?」
「はぐれたら、またお前に怒られる」
紗良は少し迷い、その手を取った。
人波を抜けても、どちらからもすぐには離さなかった。
「まだ見せてない場所、たくさんあるよ」
「なら、次も頼む」
「今度は何か月も待たせないでね」
「善処する」
「約束」
「……分かった。約束する」
二人は再び歩き出した。
幼馴染という関係が消えたわけではない。その積み重ねの先に、互いの選択と生き方へ踏み込める、新しい信頼が加わったのだ。
まだ名前を付けない想いと、今度こそ守る約束を、繋いだ手の間に残しながら。
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