# 第038話 救えなかった兄
「私、お兄ちゃんを選べなかった」
紗良の声は小さかった。それでも、静まり返った部屋では痛いほど明瞭に聞こえた。
直人は慰めの言葉を飲み込んだ。自分のせいではないと、紗良も何度となく言われてきたはずだ。それで九か月抱えてきたものが消えるなら、今こうして指先を白くするほど制服を握ってはいない。
「最初から聞かせてくれ」
紗良は一度だけ目を閉じた。
「……事故があった日、お兄ちゃんは私を迎えに来てたの。魔物が出たって警報が鳴って、避難場所へ向かう途中だった」
約九か月前。直人が行方不明になってから、まだ二か月ほどしか経っていない頃だった。
学園都市の外で、局地的な魔物流入が発生した。混乱する避難路で、悠真は泣いて動けなくなった子供を見つけた。紗良を安全な場所へ先に行かせ、自分は子供のところへ戻ったという。
昔から、そういう人だった。
紗良にも直人にも、できることまで取り上げるような守り方はしない。転んだなら自分で立たせる。その代わり、本当に危険な時には迷わず前へ出た。
直人が水瀬家で夕食を食べれば、当たり前のように自分の隣へ座らせた。年下だからと何でも譲るのではなく、皿に残った最後の一つを賭けて本気でじゃんけんをするような人だった。
その悠真が、子供を庇った。
「通路が崩れたの。お兄ちゃんだけじゃなかった。お兄ちゃんが助けた子と、近くにいた女の人。それから、救助を手伝って怪我をした男の人。四人とも動かせる状態じゃなかった」
救助隊はすぐには来られなかった。周囲ではまだ魔物の足音が響き、粉塵の向こうで避難誘導の声が交錯していた。
十五歳だった紗良の《生体同調》は、発現して間もなかった。医療訓練も受けていない。それでも傷ついた四人を前に、自分にしかできないことがあると思った。
「最初にお兄ちゃんへ触った。心臓が速くて、息も浅くて、身体の中が冷たくなっていく感じがした。でも、隣で子供が泣いてた。女の人も苦しそうで、男の人は返事をしなくなって……だから、全員に繋いだの」
四つの心拍。四つの呼吸。別々の痛みと冷たさが、一度に紗良へ流れ込んだ。
一人なら見分けられたはずの異常が、互いに重なった。誰かの呼吸苦と別人の痛みが混ざり、どの血流が急激に弱まっているのかさえ曖昧になる。それでも紗良は接続を切れなかった。一人から離れれば、その人を見捨てることになると思ったからだ。
「お兄ちゃんは意識があった。私を見て、ちゃんと喋ってた。だから、もっと危ない人を先に見なきゃって思った」
「悠真さんは、何て言った」
紗良の唇が震えた。
「『俺はいい。他の人も見てやれ』って。笑おうとしてた。大丈夫だからって、いつもみたいに」
だが、大丈夫ではなかった。
崩落の衝撃で傷ついた悠真の身体では、見えない場所から出血が続いていた。会話ができるという表面の状態に対し、内部の損傷は四人の中でも深刻だった。
やがて救助隊が到着し、四人は搬送された。子供も、成人女性も、救助中に負傷した男性も生き残った。
悠真も病院までは生きていた。
そして、緊急手術の途中で死亡した。
「先生は、私が悪いんじゃないって言った。お父さんもお母さんも、誰も私を責めなかった。一人だけに力を使っても、お兄ちゃんが助かった保証はないって」
「お前は、そう思えなかったんだな」
「だって、分からないから」
押し殺していた声が、初めて強く揺れた。
「お兄ちゃんだけをちゃんと見てたら、出血に気づけたかもしれない。もっと長く繋いでたら、手術まで持ちこたえられたかもしれない。でも、そうしたらあの子が死んでたかもしれない。女の人か、助けに来た人が――私が選ばなかった誰かが、死んでたかもしれない!」
紗良は膝の上で拳を握った。堪えていた涙が頬へ落ちても、拭おうとしなかった。
「どっちを選んでも、誰かを見殺しにしたことになる。だったら、もう選ばなくていいくらい、私が全員を助ければいい。もっと上手くなって、もっとたくさん繋いで、誰も置いていかなければ――」
「紗良」
直人の声が、その言葉を断ち切った。
異世界で仲間を失った時、何度も考えた。自分がそこにいれば。あと一歩早ければ。もっと強ければ。
だが今、その後悔を口にすれば、紗良の九か月を自分の痛みで覆うことになる。直人は湧き上がった思いを押し戻し、彼女だけを見た。
「医者は、お前が力を分けたから悠真さんが死んだと言ったのか」
「……言ってない」
「一人に集中していれば、必ず助かったと?」
「言ってないよ。でも――」
「なら、助けた三人まで、お前が悠真さんを見捨てた証拠に使うな」
紗良が顔を上げた。
「三人が生きたことを見るたびに、兄さんを選ばなかった罰だと思ってるんだろ。違う。あの三人は、お前が十五歳で、何も知らなくて、それでも逃げずに繋いだ命だ」
「そんなふうに分けられないよ……。三人が助かって嬉しいのも本当なの。お兄ちゃんを助けたかったのも、本当で……どっちも本当だから、苦しいんだよ!」
「ああ。だから、片方を消さなくていい」
直人は身を乗り出した。紗良が逸らしかけた視線を、逃がさず受け止める。
「悠真さんを救えなかった痛みも、三人を救った事実も、お前の中にあっていい。だが、次は全部一人で背負えば選ばずに済むなんて、自分を壊す答えへ逃げるな」
「逃げてなんか――」
「俺たちは、そんなに頼れないか」
紗良の息が止まった。
「お前にしか救えない命はある。だが、お前一人にしか救えない命ばかりじゃない。俺も、真壁も、ルーカスも、透子もいる。次に選ばなきゃならない時、お前は十五歳で、たった一人だったあの日とは違う」
「それでも、怖いよ。また間違えたらって思う」
「怖がるなとは言わない。迷うなとも言わない。それでも目を逸らさずに選べ。選んだ後は、俺たちにも背負わせろ」
熱を帯びた言葉のあとに、長い沈黙が落ちた。
紗良はすぐには頷かなかった。ただ、固く握っていた拳をゆっくり開き、頬の涙を手の甲で拭った。
「……直人って、時々ずるい」
「何がだ」
「自分は何でも一人で背負うくせに、私には背負わせろって言うところ」
否定できず、直人は口を閉じた。紗良は泣きながら僅かに笑ったが、その指摘だけは引っ込めなかった。
「話してくれて、ありがとう」
「うん」
二人は冷めた肉じゃがを温め直した。悠真の死は変わらず、紗良の罪悪感も一度の会話で消えはしない。それでも、九か月閉ざされていた痛みは、初めて直人の前へ置かれた。
◇
翌日の実習教室で、榊美鈴は正面端末へ新しい資料を表示した。
「次の課程は、学園と公的ギルドによる合同長期実習だ。二泊三日。場所は《翠環回廊》。長時間行動、野営、交代警戒に加え、救助訓練も行う」
巨大な植物の根と古い石造回廊が絡み合う画像へ、教室の視線が集まる。
隣の席で、紗良の指が一瞬だけ強く端末の縁を掴んだ。
直人は何も言わなかった。
ただ、今度は彼女を一人で選ばせないと決め、画面に記された名を見つめた。
――《翠環回廊》。そこが、次の実習地だった。
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