第36話 失敗したと、言えること
鷹宮ホールディングス本社の役員応接室は、華美ではなかった。
磨かれた長机と、必要な資料だけを映す壁面端末。窓の外には学園都市の高層区画が広がっているが、麗華は一度もそちらを見なかった。背筋を伸ばし、膝の上で重ねた指先へ余計な力が入らないよう、静かに呼吸を整えている。
直人をここまで案内したのは、鷹宮隆臣の直属秘書、橘香澄だった。三十代半ばの女性で、黒髪をうなじの低い位置にまとめ、濃紺のスーツを隙なく着こなしている。必要な資料と飲み物を過不足なく配置すると、彼女は室内後方へ下がった。
長机の正面には、一人の男が座っていた。
鷹宮隆臣。四十八歳。鷹宮ホールディングス代表取締役社長であり、麗華の父親でもある。
身長は百八十三センチほど。細身寄りの体格を上質だが派手さのない黒いスーツが包み、整えられた短い黒髪のこめかみにだけ、僅かな白髪が混じっている。黒に近い瞳と鋭さを帯びた顔立ちは落ち着いており、大声を出さずとも、黙って見られるだけで判断のすべてを測られているような圧を生んだ。
「始めなさい」
低い声に促され、麗華が立ち上がる。
《霧晶坑道・未確認資源区画調査計画》の目的。入域後の経過。《霧脈反転》直前に受信した救難信号。調査中止と目的変更。未登録空洞、《蒼脈晶》の有望反応、《晶甲獣》との戦闘、葛城チーム四人の救助。
麗華は事実を順に説明した。隆臣は途中で口を挟まず、直人も外部協力者の席からその横顔を見ていた。
報告が終わると、隆臣は卓上の資料を閉じた。
「当初の調査目的である鉱脈位置と規模の推定は、達成できなかった。間違いないな」
未登録ルートは見つかった。資源反応も、《晶甲獣》の情報も得た。四人の命を救い、葛城からは麗華個人への最初の信用も得ている。
以前の麗華なら、それらを先に並べていたのだろう。失敗ではなかったと証明するために。
「はい」
麗華は父の視線を受け止めた。
「予定していた調査は失敗しました」
隆臣の表情は動かない。
「調査中止を決めたのは誰だ」
「わたくしです。瀬名さんから救助を命じられたのではありません」
「現場裁量資格を最低一年失う可能性は理解していたか」
「理解していました」
「では、なぜ救助を選んだ」
麗華の指先が一度だけ震えた。
「救助隊の到着には四十五分以上掛かり、わたくしたちなら十五分前後で近づける見込みでした。黒岩さんは自力歩行不能、藤宮さんも能力消耗が進んでいた。調査を優先すれば、四人の生存可能性を下げると判断したからです」
「合理性は聞いていない」
隆臣の声は静かなままだった。
「新ルートも、資源反応も、上位個体の情報も得られなかったと仮定する。救助した結果、当初計画の失敗だけが残ったとしても、同じ判断をするか」
麗華の呼吸が止まった。
父の前で失敗を認めることが怖かった。現場へ立つには早かったと断じられることも、今回の企画が令嬢の社会勉強だったと片づけられることも、自分の名前から判断だけを取り除かれることも。
その恐怖は消えていない。だからこそ、今度は隠さなかった。
「します」
麗華の声が僅かに震える。
「何も得られなかったとしても、もう一度救助を選びます」
「その結果、裁量を失ってもか」
「それでもです!」
張り詰めていた声が、初めて室内へ強く響いた。
「わたくしは、ずっと失敗しなければ認めていただけると思っていました。結果を出しても鷹宮だから当然で、失敗すれば鷹宮なのにと言われる。だから、誰にも否定できない成功だけを積み上げようとした」
麗華は逃げずに父を見る。瞳の奥へ滲んだものを落とすまいとしながら、それでも言葉だけは止めなかった。
「ですが、人を見捨てて得た成果を、わたくしは成功とは呼べません。失敗したことは認めます。損失も説明します。批判も受けます。それでも、わたくしが何を考えて選んだのかまで、家の名前や偶然得た成果に決められたくありません!」
長い沈黙が落ちた。
直人は口を挟まなかった。これは麗華が自分の言葉で父へ届かせなければならないものだった。
隆臣は、重ねた手をゆっくりと解いた。
「ならば、その判断で発生した損失を、お前が説明しろ」
「……はい」
「その判断で得た成果も、お前が説明しろ。失敗を隠すな。成果で失敗を塗り潰すな。どちらも自分の判断から生じたものとして引き受けろ」
低い声が、今度は僅かに柔らかくなる。
「それが責任者だ。お前の判断は理解した」
麗華が目を見開いた。
失敗しないことを認められたのではない。失敗した上で、何を選んだかを見られている。その違いへ気づくまで、父娘にはあまりに長い時間が掛かっていた。
「現場裁量資格については、制度に従って改めて審査する。私情で免除はしない」
「承知しています」
「それから――よく戻った」
僅かな一言に、麗華の唇が震えた。
「……はい。ただいま戻りました、お父様」
完全な和解ではない。隆臣がこれまでの言葉の不足を詫びたわけでも、麗華の緊張が消えたわけでもなかった。それでも、二人の考える責任という言葉が、初めて同じ場所へ触れていた。
隆臣は麗華へ退室を促し、続いて直人を見た。
「救助を選ばせたのは君か」
「違います」
「では、君は何をした」
「選ばせました」
隆臣の眉が僅かに動く。
「俺が救助へ行けと言えば、それは俺の判断になる。あの企画は麗華のものだった。自分で決めなければ、成功しても失敗しても、あいつのものにはならない」
「決めた後は?」
「一緒に行っただけです。麗華が選んだ責任を押しつけて、外で待つつもりはなかった」
隆臣はしばらく直人を見た。
「功績の分離を求めたそうだな。娘へ手柄を譲ることもせず、鷹宮側へまとめることも拒んだ」
「誰が何をしたか、事実どおりにしただけです」
「以前の麗華なら、失敗ではなかったと証明しようとしただろう。娘が変わった理由は、君か」
「決めたのは麗華です」
直人は迷わず答えた。
隆臣の黒い瞳から、試すような鋭さが僅かに薄れる。
「そう言える人間だからなのだろうな。君を全面的に信用したわけではない。だが、信用する価値はあると判断する」
「十分です」
直人が退室すると、廊下で麗華が待っていた。
「父は、何と?」
「自分で聞け」
麗華は一瞬だけ不満そうに眉を寄せ、それから小さく頷いた。
「そうします。今度は、わたくしから」
二人の足音が遠ざかる。
室内で、隆臣は閉じた扉をしばらく見つめていた。
「失敗するなと言ったつもりはなかった」
誰へ聞かせるでもなく、言葉が落ちる。
「鷹宮だから、社長の娘だからと、あの子自身の価値まで奪わせたくなかった。誰にも家名だけの人間だと言わせないよう、自分の判断で立てる人間にしたかった」
隆臣は眉間へ指を当てた。
「……いや、同じか。成功を当然とし、失敗した時だけ理由を求め続ければ、あの子が失敗を許されないと思うのも無理はない」
企画報告書を受け取った時、最初に確認したのは成果ではなかった。
全員生還。
その一行を見て、ようやく息ができた。娘が戻った安堵を、本人へは「よく戻った」としか言えなかった。
「失敗を認め、それでも自分の判断を否定しなかった。ようやく、自分の足で立ったか」
厳格な顔から、ほんの僅かに力が抜ける。
「瀬名直人、か。教えたわけでも、導いたわけでもない。決めろと言い、決めた後は隣に立った。……私には、それができなかったのかもしれんな」
「良いお父様ではありませんか」
室内後方から届いた声に、隆臣の言葉が止まった。
書類を整理していた香澄が、何事もなかったように端末を閉じる。隆臣は考えに沈み、彼女が残っていたことを一瞬だけ意識から外していたらしい。
「……今のは忘れろ」
「承知しました。議事録には残しません」
「記憶からも消せ」
「それは業務範囲外です」
隆臣は視線を逸らし、再び眉間を押さえた。
香澄はそれ以上何も言わず、誰にも語らない本心とともに資料を抱える。
鷹宮麗華が家名ではなく、自分の選択で得たものを、静かに見送るように。
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