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第33話 重圧領域



 淡い青白色の両眼が、霧の上へ持ち上がっていく。


 最初に現れたのは、岩壁を擦るほど張り出した肩だった。その表面を青灰色の結晶装甲が幾重にも覆い、続いて大型の狼と爬虫類を無理に継ぎ合わせたような頭部が姿を見せる。全長は三メートル半ほど。頭から背中へ連なる装甲は特に厚く、一歩踏み出すたび、四肢の爪が岩床へ深い傷を刻んだ。


「《晶甲獣》……事前資料にない上位個体です」


 麗華が探査端末を伏せ、《重圧領域》の射程へ入った魔物を正面から見据える。背後には二人が抜けてきた狭い亀裂、前方には救難信号へ続く空洞しかない。迂回路を探している時間はなかった。


 晶甲獣が咆哮し、背中の結晶を震わせた。


「散って!」


 麗華の警告と同時に、鋭い結晶片が霧を裂く。直人は左へ跳び、頬を掠めた一片が背後の岩へ突き刺さる音を聞いた。麗華も反対側へ退きながら、晶甲獣の全身へ地面方向の荷重を集中させる。


 巨体が僅かに沈んだ。四肢の爪が岩床を砕き、背中の高さが目に見えて下がる。人間や《岩殻猪》なら動きを奪える重圧だったが、晶甲獣は低く唸ると、押さえつける力へ抗って前脚を踏み出した。


「止まりませんの……?」


「止めなくていい。速度を落とせ」


 直人は《魔力循環》で身体を強化し、鈍った突進の脇を抜けた。すれ違いざまに短剣を肩へ叩き込む。刃が青灰色の装甲へ触れた瞬間、衝撃が表面を走って周囲の結晶へ散り、硬い反動が手首から肘までを痺れさせた。


 傷は浅い。晶甲獣はほとんど速度を失わず、前脚を横薙ぎに振るった。


 直人は身を沈めて爪を躱したが、続けて翻った尾までは避け切れなかった。脇腹へ結晶の塊が叩きつけられ、身体が岩床を滑る。息が肺から押し出され、視界の端で青白い光が揺れた。


「瀬名さん!」


「全体へ掛け続けるな。お前が先に潰れる」


 麗華は歯を食いしばり、なおも巨体を押さえようとしていた。焦点を一体へ絞っても、晶甲獣の重量と筋力は彼女の出力を上回る。目の奥に痛みが走ったのか、僅かに眉が寄っていた。


「ですが、解除すれば――」


「正面からは俺も壊せない。だから、止め方を変える」


 直人は痛む脇腹を庇いながら立ち、晶甲獣の足運びを見た。結晶装甲は強固でも、それだけで生き物の全身を覆うことはできない。首を回し、脚を曲げ、腹を縮めるためには、硬い殻が途切れる場所が必ずある。


 異世界でも、硬い魔物ほど同じだった。装甲を砕けないなら、動くために残された隙を狙う。


 首の付け根。前脚の内側。腹部。後脚の関節。


 弱点は見えている。ただし、踏み込める時間がない。晶甲獣は麗華の重圧から抜け出すたびに速度を取り戻し、狭い空洞そのものを武器にしている。


「麗華。全身は要らない。右前脚だけ重くできるか」


「できます。ですが、あの速度では長く捉えられません」


「長くなくていい。次に体重が乗る瞬間だけだ」


 晶甲獣が頭を低くした。直人は短剣を構え、あえて空洞の中央へ立つ。


「三歩目。俺が合図する」


「外せば、あなたが壁との間に挟まれます」


「だから、お前に頼んでる」


 麗華の瞳が一瞬だけ細くなる。躊躇ではなかった。直人が何を見ているのかを追い、自分の力を重ねるための集中だった。


 晶甲獣が岩床を蹴った。一歩目で巨体が加速し、二歩目で霧が左右へ弾ける。直人は動かない。青灰色の頭部が目前まで迫り、右前脚が三度目の踏み込みへ持ち上がる。


「今だ!」


 脚が着く寸前、その一本だけへ重圧が落ちた。


 晶甲獣の右肩が沈み、突進の軸が傾く。だが止まりはしない。直人が狙った前脚の内側へ踏み込むより早く、魔物は力任せに頭を振って軌道を変えた。


 直人は短剣で牙を逸らし、肩から岩床へ転がる。刃は内側の薄い装甲を切ったが、致命傷には遠い。晶甲獣が怒りに尾を叩きつけ、空洞の天井から砂礫が降った。


「次は後ろです」


 麗華が言った。


 直人が視線を向けると、彼女は全身を押さえようとはしていなかった。晶甲獣の傷ついた右前脚と、そこを庇うために深く踏み込む左後脚だけを見ている。


「右を庇えば、次は左後脚へ体重が移ります。そこを落とします」


「分かった。俺が向かせる」


 役割を決めたのではない。互いが見つけた次の一手を、その場で組み合わせた。


 直人は壁を蹴り、晶甲獣の右側へ回り込む。傷を守ろうとした巨体が追って向きを変え、尾が横薙ぎに迫った。直人は完全には避けず、左肩で浅く受けて勢いを逃がす。骨まで響く痛みに耐え、もう一歩だけ内側へ入った。


 晶甲獣が右前脚を庇い、左後脚へ体重を預ける。


 その瞬間、麗華の重圧が関節へ集中した。


 巨体を押し潰す力ではない。次に動くための一本だけを、地面へ縫い止める力だった。


 後脚が折れ、晶甲獣の腹が岩床すれすれまで落ちる。首の付け根で、厚い結晶装甲の継ぎ目が大きく開いた。


 直人は《魔力循環》を限界まで回した。痛む脚で岩床を蹴り、振り下ろされる前脚の内側を抜ける。短剣を逆手に持ち替え、露出した継ぎ目へ深く突き入れた。


 晶甲獣が激しく身を捩る。麗華の顔から血の気が引き、重圧が一瞬揺らいだ。それでも彼女は全身を押さえようとはしない。立ち上がるために動く前脚、次いで後脚へ、必要な瞬間だけ力を移していく。


「瀬名さん、そこです!」


 開いた傷へ、直人は残る力を叩き込んだ。


 刃が深部へ届く。晶甲獣の咆哮が途切れ、巨体が結晶の砕ける音とともに沈んだ。直人は短剣を抜いて距離を取り、麗華も重圧を解かずに呼吸と四肢を見定める。


 淡い両眼から光が消え、床を掻いていた爪が止まった。二人がなお数秒待った後、麗華がようやく能力を解除する。


 戦闘の終了が確定した、その直後だった。


《レベルが上昇しました》


《レベル:4》


《スキルポイントを1獲得しました》


 熱が直人の身体の内側から一気に広がった。筋肉が強く軋み、遠近感が僅かにずれる。増した魔力が馴染み切らず、酔いに似た感覚が胃を持ち上げた。激しい空腹まで重なったが、脇腹と肩の痛みも、戦闘で削られた呼吸も消えてはいない。


「瀬名さん?」


 麗華が眉を寄せる。直人の立ち方と呼吸が、戦闘前とも、単なる疲労とも違うことに気づいたのだろう。


「……少し、身体が馴染んでないだけだ」


「普通は戦闘後に、身体能力の感覚そのものが変わったりはしませんわ」


「俺の能力、成長型って登録されてるだろ」


「便利な説明ですこと」


 麗華は納得していない顔だったが、今ここで問い詰めることはしなかった。彼女自身も頭痛を堪え、呼吸を整えている。勝ったのは直人の力が急に増したからではない。二人が、戦闘前に持っていた力を最後まで噛み合わせた結果だった。


 直人は獲得したポイントへ手を付けず、短剣を収める。身体の変化は大きい。それでも、久我玲司の全出力を越えられると断じられるほどではなかった。


『……こちら、管制……自動信号の強度が上がっています。遭難地点まで、残り僅かです』


 途切れがちな真紀の声が通信機から届く。その直後、霧の向こうから、何かが岩へぶつかる鈍い音が響いた。


 直人と麗華は痛む身体を起こし、晶甲獣の巨体を回り込む。


 救助を待つ者たちは、もう遠くなかった。


この小説をお読みいただきありがとうございます。

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完結作品にはなりますが、応援が多ければ第二章突入も考えています!

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