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第30話 予定外の救難信号



 第一中継地点を離れてから一時間あまり、直人と麗華は青白い霧の濃くなる坑道を深部へ進んでいた。


 通信には数秒の遅れが混じり、携行端末の地図も時折現在位置を見失う。それでも経路そのものは事前調査の予測から大きく外れていない。麗華は定められた地点ごとに周囲の魔力濃度を記録し、直人は霧の流れや岩床の痕跡から、端末が示す道に異常がないかを確かめた。


 二人の間で交わされる言葉は、入域直後より短くなっていた。


「前方、蹄の跡。一体だ」


「進行方向は?」


「こっちへ来る。右へ誘う」


 霧の奥から現れた《岩殻猪》が、頭部の外殻を低く構える。直人が右側の壁を短剣の柄で叩くと、魔物は音へ向けて突進した。


「二歩目、左前脚」


「分かりました」


 岩殻猪が踏み込むより早く、麗華の視線は左前脚を捉えていた。地面方向の荷重が一点へ集中し、突進の軸が傾く。直人は変更の意図を先に伝え、麗華は理由を問い返す前に進路と足運びから判断した。前話のような一拍のずれはなく、露出した脚の付け根へ直人の刃が入り、崩れた胴を麗華の重圧が押さえる。


 戦闘は長く続かなかった。


「今度は、事前の手順どおりではありませんでしたわね」


 麗華は倒れた魔物から視線を外さず、僅かに呼吸を整えた。


「予定を変えることまで予定に入れただろ」


「便利な言い方ですこと」


 口調には皮肉が混じっていたが、前回のような不満はなかった。麗華は直人の変更を待つだけでなく、短い言葉から次の意図を拾おうとしている。直人もまた、彼女なら状況さえ共有すれば判断できると理解し、必要な情報を先に渡していた。


 完全な連携にはまだ遠い。それでも、互いの考えを一から説明しなければ動けない段階は越えつつあった。


 さらに奥へ進むと、坑道は天然洞窟に近い広がりを見せた。天井から垂れた結晶が霧の中で淡く光り、その下を流れる魔力粒子が、目には見えない潮のように探査端末の波形を揺らしている。


『《霧脈反転》の予測まで、残り三十八分。第一観測地点まで、現在の速度で十一分です』


 雑音を挟みながら届いた真紀の報告に、麗華は端末上の工程表を確認した。予備時間は削られているが、探査装置に異常はなく、予定経路も開いている。このまま進めば反転前に機器を設置し、最適観測時間へ間に合わせられる可能性は高い。


 自分で企画を組み、直人を交渉で同行させ、現場で生じたずれにも修正を加えた。ここまで積み上げてきたものが、初めて一つの結果へ繋がろうとしている。


 麗華の肩から僅かに力が抜けた。しかし歩調は緩めず、次の分岐と退路を確かめる視線にも慢心はなかった。


「間に合います」


 誰かへ言い聞かせるのではなく、確認した事実を口にする声だった。


「今のままならな」


 直人が答えた直後、二人の端末が同時に鋭い警告音を発した。


 通常の企業通信ではない。公的ギルドの緊急系統から、周辺の登録冒険者へ送られる救難共有だった。霧による遅延を示す黄色い表示の下に、四人分の登録情報が開く。


《救難信号受信》


《登録冒険者四名/固定チーム》


《発信位置――誤差大》


 続いて表示された名前を見た瞬間、麗華の指が止まった。


 葛城修司。野々村美琴。黒岩大吾。藤宮千秋。


『こちら管制。公的ギルドから追加情報を受信しました。音声記録と自動送信データを統合します』


 真紀の声は、緊急時にも平坦さを失わなかった。端末へ坑道図が表示され、予定経路から外れた複数の区画が橙色で囲まれる。


『葛城チームは局所崩落によって既存ルートを外れた後、複数の《岩殻猪》と接触。黒岩大吾さんが重傷、自力歩行困難。藤宮千秋さんが応急処置を継続中です。葛城修司さんと野々村美琴さんは、最終送信時点では行動可能。ただし以後の状態は確認できていません』


「負傷部位と出血量は?」


 直人がすぐに確認する。


『信号の欠損が大きく、確定できません。位置情報も霧の影響で複数の分岐へずれています』


「最後の通信はいつですの?」


『約四分前です。それ以降は短い自動信号のみ。公的ギルド救助隊の到着見込みは、現時点で四十五分以上です』


 坑道図へ二本の経路が描かれた。一つは、十一分先の第一観測地点へ続く予定ルート。もう一つは、現在位置から南側の分岐へ折れ、遭難地点の推定範囲へ向かう経路だった。


「俺たちからなら?」


『推定十五分前後です。ただし位置誤差があるため、到着後の捜索時間は算出できません』


「救助へ向かった場合、観測地点へ戻れる可能性は」


 麗華の問いには、僅かな震えもなかった。だが端末を持つ指先は、画面の縁を強く押している。


『救助対象へ到達し、安全確保と搬送準備を行った上で第一観測地点へ戻るなら、《霧脈反転》直後の最適観測時間には、ほぼ確実に間に合いません』


 真紀はそこで言葉を切り、二つの経路を同じ色で表示した。


『調査を継続すれば、現状では企画成功の可能性が高い。救助へ向かえば、今回の鉱脈推定は事実上不可能になります。生命への明確な危険が瀬名さんと鷹宮さんへ生じたとの判定ではないため、私から強制撤退は指示しません。調査継続か救助への目的変更かは、契約どおり鷹宮さんの裁量です』


 事実だけが、青白い霧の中へ並べられた。


 麗華は救難者一覧の先頭にある葛城の名を見つめた。鷹宮資源開発からの契約を何度も断り、「現場を知らない会社とは深部へ行けない」と告げた冒険者。その彼を助ければ、会社への見方を変えられるかもしれない――そんな計算が一瞬で頭をよぎる。


 次の瞬間、麗華は唇をきつく結んだ。負傷した人間を前に、将来の契約価値を測った自分の思考が嫌だった。だが計算できてしまうこと自体は、企画責任者として教え込まれてきた習慣でもある。それだけを理由に救助へ向かえば、人命を別の利益へ置き換えただけになってしまう。


 契約には、人命を資源より優先すると自分で明記した。その文言を忘れたわけではない。むしろ、端末を開けばすぐに読めるほど鮮明に覚えている。


 しかし今、その一行の向こうには、初めて任された本格企画があった。最低一年の現場裁量停止、自分を推薦した社員、準備に時間を費やした技術者たち、鷹宮の名で動かした予算と装置。このまま十一分進めば、結果へ手が届く。救助へ向かえば、それらすべてへ失敗という判定が下されるかもしれない。


 人を助けたい気持ちと、任されたものを失敗させてはならないという責任感。そのどちらかが偽物なら、選ぶことはもっと簡単だった。


 直人は答えを急かさず、二つの経路と送信時刻を確認していた。自分ならどうするかは、考えるまでもない。それでも、これは麗華の企画であり、彼女が自分で決める権利を求めて成立させた調査だった。ここで直人が答えを奪えば、結果だけでなく、その責任まで彼のものになる。


 《霧脈反転》までの残り時間が、端末上で一秒ずつ減っていく。


 麗華は何度も言葉を選び直すように唇を開き、やがて直人を見た。強い意志を宿していたはずの瞳が、今だけは自分の判断へ確信を持てずに揺れている。


「……瀬名さんなら、どうします?」


 直人は、すぐには答えなかった。

この小説をお読みいただきありがとうございます。

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完結作品にはなりますが、応援が多ければ第二章突入も考えています!

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