第29話 霧晶坑道入域
《霧晶坑道》の入口へ着いた時、直人が最初に目にしたのは、岩壁へ口を開けた暗い坑道と、その手前に並ぶ二種類の施設だった。
一方は、入域者を管理する公的ギルドの常設施設。もう一方は、鷹宮総合資源開発が今回の調査のために設けた臨時現地管制所である。企業名の入った灰色の設備棟には探査機器や通信補助装置が運び込まれていたが、坑道へ通じる保安ゲートと受付は、あくまでギルド側の管理下に置かれていた。
「予定時刻どおりですね」
管制所の前で二人を迎えたのは、三十五歳の坂上真紀だった。百六十六センチほどの身体を灰色の企業用フィールドジャケットで包み、肩に届かない黒髪を後ろで簡単にまとめている。細いフレームの眼鏡越しの目には、実務に長く携わってきた者らしい落ち着きがあった。
真紀は挨拶を手短に済ませると、まず麗華へ端末を向けた。
「鷹宮さん、帰還予定時刻をもう一度」
「十五時四十分です」
「超過十五分で確認連絡。三十分でギルドへ状況共有。通信断だけなら、最後に確認できた地点と予定経路から判断します」
「承知しています」
令嬢へ伺いを立てる口調ではなく、企画担当者の認識を確認する声だった。麗華も不快そうな顔はせず、むしろ普段より僅かに肩の力を抜いて答えている。肩書ではなく仕事で扱う真紀を信頼しているのだと、その短いやり取りだけで分かった。
「瀬名さん。今朝の体調に異常は?」
「ない」
「防護装備、携行食、予備光源、緊急発信器を確認してください。撤退はどちらからでも提案可能です。生命への明確な危険があると私が判断した場合、調査の進捗にかかわらず強制撤退を指示します」
真紀は直人の等級にも模擬戦の噂にも触れなかった。装備と通信手順を一つずつ確認し、不足がないと分かれば次へ進む。直人は、彼女を現場の失敗を減らすことに慣れた人間だと評価した。
入域許可は、その後に隣接する公的ギルドの受付で受けた。職員は二人の冒険者証を照合し、企業案件番号、予定ルート、帰還時刻、緊急連絡方法を確認する。二人だけの調査であることには念を押したが、麗華の名を見ても審査の順序は変えなかった。
鷹宮資源開発が用意できるのは、装備と情報、それに外からの支援まで。誰をいつダンジョンへ入れ、事故の際に救助を調整するかは公的ギルドが担う。麗華は当然のように質問へ答え、必要な署名を行った。家の名で手続きを曲げようとしないことを、直人は小さく記憶へ留める。
「入域を許可します。帰還時は必ず記録端末へ冒険者証を通してください」
保安ゲートが開き、冷えた湿気が外へ流れ出した。
数歩入っただけで、外の光は青白い霧に溶けた。天然洞窟を補強した壁の間へ古い坑道が延び、露出した結晶が淡い光を宿している。水滴の落ちる音と二人分の足音は奥で幾重にも反響し、方向の感覚を曖昧にした。
十数メートル先は輪郭さえ怪しい。携行端末の地図が一瞬揺れ、通信機から細い雑音が走る。
『こちら管制。音声に軽度の乱れ。現時点では許容範囲です』
「了解しました」
麗華が返答する隣で、直人は岩床へ視線を落とした。乾きかけた泥に残る蹄の跡、壁際だけ薄くなった霧、鉱石殻が擦れた灰色の粉。それらは端末より広い範囲を示さない代わりに、今ここを何が通ったかを誤魔化さない。
「探査端末を信用していませんの?」
「信用してる。だから、表示が狂った時に比べるものも見てる」
麗華は足元の痕跡へ目を向け、何かを言いかけた。その時、霧の奥から硬いものが岩を叩く音が響いた。
青白い幕を割って現れたのは、《岩殻猪》だった。大型の猪に似た身体の肩と頭部を、歪な鉱石状の外殻が覆っている。こちらを認めた直後、巨体は狭い坑道を塞ぐように頭を下げた。
「事前手順どおりに。わたくしが全体を抑えます」
麗華が一歩前へ出る。岩殻猪が床を蹴った瞬間、その四肢と胴へ地面方向の荷重が加わった。突進の勢いが目に見えて鈍り、蹄が湿った岩床へ深く食い込む。それでも完全には止まらないが、直線上から外れる時間を作るには十分だった。
直人は予定どおり左側面へ回り、外殻の薄い前脚の付け根を狙う。麗華の戦術は合理的で、等級3の出力も制御も不足していない。このまま相手が真っ直ぐ来るなら、危険を最小限に仕留められる。
だが岩殻猪は、前脚を踏ん張る代わりに装甲の厚い肩を壁へ叩きつけた。衝突で砕けた岩と霧が視界を塞ぎ、巨体は壁を支点にして予想より鋭く向きを変える。全身を追っていた麗華の重圧が僅かにずれ、その正面へ直人の予定位置が入った。
直人は攻撃を捨て、岩殻猪の鼻先を横切るように逆側へ走った。
「瀬名さん、予定と――」
「敵も予定表を読んでくれれば助かる」
短く返しながら、直人は霧の中で足音を一度強く鳴らした。岩殻猪の頭が音を追い、再び突進の姿勢へ沈む。
「右前脚だけ重くできるか」
「理由は?」
「次にそこへ体重が乗る。全体を追うより、その瞬間だけでいい」
麗華は即答しなかった。霧の向こうにある右前脚と、直人が誘導した進路を見比べる。命令されたからではなく、そこへ荷重を集中する意味を自分で確かめたのだ。
「できます。三歩後です」
岩殻猪が一歩、二歩と加速する。三歩目を踏み込んだ瞬間、右前脚だけが見えない重みに打たれ、関節から床へ沈んだ。巨体が傾き、鉱石殻に覆われていない脚の内側が露出する。
直人はその機を逃さなかった。自己強化で踏み込みを鋭くし、短剣を前脚の付け根へ突き入れる。岩殻猪が苦痛に身を起こそうとするが、今度は麗華の重圧が胴を正確に捉えた。崩れた姿勢のまま押さえ込まれた魔物へ、直人が止めを刺す。
やがて蹄が岩床を掻く音も消え、青白い霧だけがゆっくりと死骸の周囲へ戻ってきた。
「事前の打ち合わせというものは、何のためにあるのです?」
能力を解いた麗華は息を整えながら、倒れた岩殻猪ではなく直人を見た。声は平静だったが、自分の組んだ手順を途中で放棄されたことへの不満は隠していない。
「予定どおりにいく時、早く動くためだ」
「では、予定外なら?」
「役に立たなくなった部分は捨てる」
麗華の眉が僅かに寄る。
「簡単に言いますのね」
「簡単じゃない。どこまでがまだ使えるかは見る。お前が動きを遅くできることも、局所へ重さを集められることも、予定が崩れた後まで変わってない」
計画のすべてを無価値にしたのではなく、敵の動きと合わなくなった手順だけを切り離したのだと告げられ、麗華は岩殻猪の右前脚へ視線を落とした。
「次は、変更する前に意図を伝えてください」
「伝える時間があればな」
「作ってください。わたくしも、その方が早く合わせられます」
直人は僅かに目を細めた。麗華は指摘を感情で拒まず、理由を理解すれば即座に制御を切り替えられる。十分な出力と精密さもある。ただ、準備した形が崩れたと認めるまでに、一拍だけ時間を要する。
一方の麗華も、直人が無計画なのではないと理解し始めていた。彼は予定を軽視しているのではない。予定が現実に役立たなくなった瞬間を、異常なほど早く見切っている。
二人は岩殻猪の討伐記録を端末へ残し、坑道を進んだ。完全に呼吸が合ったわけではない。それでも、互いに何ができ、どこでずれるのかを知った最初の戦闘にはなった。
第一中継地点へ到達した頃、通信の雑音は入域直後より明らかに増していた。
『次の区画では、通信遅延が予測されます。定時確認を優先してください。《霧脈反転》の予測まで、残り二時間あまりです』
真紀の声が一瞬途切れ、それから復帰する。麗華は端末へ確認を返し、青白い霧の奥に続く経路を見据えた。
「ここからが本調査です」
「ああ。時間も、向こうから待ってはくれない」
二人は第一中継地点を離れ、《蒼脈晶》の反応が示された深部へ歩き出した。目的地点は近づき、残された時間は静かに減り始めていた。
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