第26話 届かなかった一歩
第四試合は、医療班が瀬名直人の左肩と呼吸状態を確認した後に開始された。榊原迅から受けた痺れは残っていたが、動作に支障はない。三戦分の疲労も含めて現在の実力だと直人が続行を選ぶと、監督教員は生体監視を強化することを条件に許可を出した。
対面で待っていた久我玲司は、十八歳の高校三年生だった。身長は百八十一センチほど。目にかからない長さへ整えた濃紺に近い黒髪と、深い灰青色の瞳が端正で冷静な印象を作っている。細身ながら榊原より肩幅があり、真っ直ぐ立つ姿勢には揺らぎがない。白と濃紺を基調とした戦闘服の首元と耳には、気圧変化から呼吸器や鼓膜を守る薄型装備が収まっていた。一定の深さを保つ呼吸と、わずかな重心移動も許さない体幹を見れば、能力へ耐える訓練を重ねてきたことも分かる。
第一印象は、隙のない生徒会長。その視線には威圧も侮りもなく、ただ対戦相手を正確に測ろうとする静かな緊張があった。
「三連勝、おめでとう」
「まだ再評価は終わっていないらしい」
「そうだな。最後が私だ」
「会長自ら試験官か?」
「違う。対戦相手だ。試験官のつもりで立てば、君に負ける」
玲司は社交辞令ではなく、自分が敗れる可能性まで含めて口にした。直人も短く頷き、模擬短剣を構える。
「等級だけで勝敗は決まらない」
「同意する。だからといって、等級差という現実が消えるわけでもない」
「それも否定するつもりはない」
「なら、互いに確かめることは同じだ」
『模擬戦、開始』
直人はすぐには踏み込まず、円を描くように右へ動いた。玲司は開始位置から動かない。それでも直人が間合いを詰めようとした瞬間、周囲の空気が重量を得たように身体へまとわりついた。
胸郭が圧迫され、踏み出した足が鈍る。直人が高圧領域の外へ逃れようとすると、横風が肩を押して進路を曲げた。その先では気圧が急に落ち、呼吸が浅くなり、耳鳴りと共に平衡感覚が揺れる。姿勢を立て直したところへ圧縮された空気が一直線に解放され、直人は腕を交差させたまま数メートル弾き飛ばされた。
模擬戦場の大部分が、半径二十五メートルに及ぶ玲司の能力圏内だった。迅が攻撃と防御を高速で切り替えたのに対し、玲司は複数の圧力差を同時に置き、直人が選べる道そのものを管理している。
相手ではなく、相手が作った戦場と戦わされている。
「君は能力ではなく、それを使う人間を見るそうだな」
「迅から聞いたか」
「聞く必要はない。三試合見れば分かる」
玲司は動かないまま、次の圧力を直人の左右へ配置した。
「なら見てみろ。私はここにいる。その間に、戦場の方が君を倒す」
直人は返事をせず、見る対象を変えた。
玲司の手足ではない。床を転がる埃、戦闘服の裾、頬を撫でる風、耳へかかる圧力、音の遠近、呼吸へ混じる抵抗。圧力射出の直前には周囲の粉塵が一点へ引かれ、高圧と低圧の境界では空気の流れに沿って髪と衣服の揺れ方が変わる。
二度目の圧力射出を、直人は空気が集まり切る前に避けた。続く高圧領域の縁も、床の埃が描く線を踏まないことで抜ける。
「適応が早いな」
「親切に全部見せてくれているからな」
「空気が?」
「お前がだ」
玲司の口元がわずかに緩んだ。直後、直人の退路へ強い横風が走る。直人は逆らわず、身体を傾けて風へ預けた。押し出す力を足運びへ変え、高圧と低圧の境界に生じた気流へ乗り換える。自分の脚だけでは出せない速度で、玲司の正面を横切った。
「耐えてるんやない。会長の風、使い始めたで」
観客席で零士が眼鏡の位置を直し、真壁も厳しい顔で頷いた。紗良は直人の乱れた呼吸から目を離せず、榊原迅だけが、次に直人が要求するものを予測したように目を細める。
直人は右へ走り、急に左へ切り返した。玲司が高圧と横風で塞ぐと、床の訓練用短棒を蹴り上げる。飛来物を逸らす圧力壁が生まれた瞬間、その裏へ低圧領域が置かれた。玲司へ複数地点の精密制御を要求し、一地点へ集中できる出力を削っていく。
短剣を投げる。玲司が圧力壁で速度を奪った瞬間、直人は押し戻すための気流へ斜めから飛び込んだ。真正面から壁を破るのではない。高圧と低圧の境界を滑り、玲司自身が作った流れに加速を借りる。
玲司の灰青色の瞳が、初めてわずかに見開かれた。
直人は落下する短剣を掴み直し、左手で玲司の腕を取った。刃の先端が戦闘服の胸元へ迫る。
「捕まえた」
「そうだな」
玲司は避けなかった。短い沈黙の後、静かに告げる。
「だから、ここからは出力の話だ」
戦場を満たしていた複数の圧力差が、一斉に消えた。横風も、壁も、物体移動を捉えていた感知の網も解除される。玲司は技巧のすべてを捨て、能力の全出力を自分中心の全周高圧領域へ集中した。
何が来るかは分かっていた。逃れる方向も見えている。だが勝つためには、退くのではなく、残る数十センチを前へ進まなければならない。
空気が直人の全身を押し潰した。耳の奥が軋み、呼吸が止まり、短剣を握る指から力が抜ける。視界が揺れ、耐え切れなかった膝が床へ落ちた。
直人は《魔力循環》を最大まで回し、脚と体幹へ残る力を集めた。一度落ちた腰を持ち上げ、一歩を踏み出す。さらにもう一歩。玲司の表情から余裕が消え、整っていた呼吸にも初めて乱れが生じた。
それでも、刃は届かない。
攻略法は正しい。玲司の判断も能力構造も読み切っている。足りないのは答えではなく、その答えを実行するための肉体と出力だった。
あと数十センチを残して直人の意識が揺らぎ、短剣が指から落ちる。
『危険判定。試合終了』
『勝者、久我玲司』
圧力が消え、直人は床へ座り込んだ。敗北は悔しい。だが、偶然でも判断の誤りでもない。現在の自分に足りないものが、これ以上なく明確になっただけだった。同時に、今の力でも学園最上位の一人へ、あと一歩まで届いた手応えも残っている。
玲司も呼吸を整えながら近づき、直人へ手を差し出した。
「立てるか」
「少し待ってくれ」
「そうしてくれ。立たれても困る。私も余裕がない」
「最後は力押しか」
「不満か?」
「いや。俺に足りなかった」
「違うな」
玲司は差し出した手を下ろさず、深い灰青色の目で直人を見る。
「出力がもう少し高ければ――負けていたのは私だ」
「勝った人間が慰める必要はない」
「慰めていない。事実を言っている」
「なら覚えておく」
「何を?」
「次は足りるようにしておく」
玲司は一瞬黙り、それから初めて生徒会長ではない、十八歳の青年らしい小さな笑みを見せた。
「そういう返事をすると思った」
直人がその手を取って立つと、迅が戦場の端から玲司へ声をかけた。
「会長。やっぱり面倒だったでしょう」
「ああ」
「勝ったのに?」
「勝敗と、危険だったかどうかは別だ」
その言葉を、観客席の一角にいた黒髪の少女が静かに聞いていた。長い黒髪と和風の整った顔立ち、財閥令嬢らしい品のある佇まいを持つ鷹宮麗華は、直人の等級表示ではなく、久我をあと一歩まで追い詰めた戦いを見つめている。
学内戦闘適性再評価が終了し、生徒たちが席を立ち始めても、麗華は端末へ直人の公開プロフィールを表示したまま動かなかった。
「瀬名直人……」
その指が、公開情報の範囲で今後のダンジョン活動予定を調べるための照会欄へ触れる。
敗北によって終わった学内戦は、直人の知らないところで、次の出会いを動かし始めていた。




