第25話 等級4の壁
第三試合の開始前、瀬名直人が模擬戦場へ戻ると、対面の入場口にはすでに榊原迅が立っていた。
十七歳の高校三年生で、身長は百七十九センチほど。黒に近い灰色の短髪は、やや長い前髪だけを右へ流している。暗い青灰色の瞳は鋭く、直人を観察する時だけ静かに細められた。黒と灰色の軽量戦闘服に包まれた身体は細身に見えるが、床を踏む両脚と、わずかな重心移動にもぶれない体幹には鍛錬の跡がある。薄い能力制御グローブと、振動の伝達と遮断に適した専用靴まで含め、すべてが《振動制御》を扱うために整えられていた。
第一印象は、静かで少し怖い先輩だった。しかし迅は威圧するでもなく、直人の右手と足運びを見て口を開いた。
「相馬と如月に勝った試合は見た。お前は能力を攻略しているようで、実際には使う人間を見ている」
「見られるのは嫌か」
「いや。見た上で届かないと理解させる方が、制圧訓練としては有効だ」
生徒会の執行担当として、能力暴走や対人事故を想定した訓練の中心を任されている。その言葉には、等級を誇る響きではなく、現場で結果を出してきた者の確信があった。
「等級だけでは勝敗は決まらない」
「同意する。ただし、等級4になった奴は大抵、それを理解した上で強い」
「なら、確かめる」
「期待には応える」
『模擬戦、開始』
直人は右手の模擬短剣を低く構え、斜め前へ踏み込んだ。
靴底が床へ触れた瞬間、足場が横へ逃げた。
競技場全体が揺れたのではない。右足の下だけへ集中した振動が踏み込みを崩し、腰と肩の軸をずらした。直人が転倒を避けて左足を出すと、今度は着地点が逆方向へ跳ねる。迅はその場からほとんど動かず、床そのものを武器にして接近経路を奪っていた。
それでも直人は倒れず、崩れた姿勢を回転へ変えて短剣を振るう。迅は半歩だけ入り、制御グローブで刃の腹へ触れた。
甲高い震えが柄まで走った。指の骨へ無数の針を打ち込まれたような痺れに握力を奪われ、短剣が床へ落ちる。拾おうとした直人の胸元へ迅の掌が迫り、空気が破裂したような衝撃が叩き込まれた。
直人は数メートル押し戻され、片膝をついた。肺から息が抜け、右手の感覚も戻らない。
「相馬と如月には、近づけば勝てた」
迅は追撃せず、淡々と告げた。
「俺にも同じことをするなら、少し楽観的すぎる」
直人が距離を取って立ち上がると、迅は今度は床へ力を流さず、空気振動を短く撃ち出した。見えない衝撃が肩を打ち、視線を定めようとするたび頭を揺らす。横へ逃げれば着地点だけが波打ち、前へ出れば空気の壁に押し戻された。
接近しても、離れても不利だった。
直人は床へ落ちた短剣を蹴り上げ、左手で掴んだ。踏み込みを囮に刃を振るったが、迅は腕で受けると同時に逆位相の振動を重ねた。衝撃が吸い取られたように弱まり、刃は戦闘服へ届く前に止められる。直後には床振動へ切り替わり、直人の身体が再び傾いた。
床、空気、武器、防御。同じ攻撃を繰り返さず、直人が観察した情報を次の瞬間には古くする。相馬や玲奈と同じ等級3ではない。出力だけでなく、作用範囲と処理の精度が一段違っていた。
「どうする。経験で出力差まで消せるか?」
「消す必要はない」
「強がりにしては、息が切れている」
「お前が一度に全部できるなら、そうだったかもな」
迅の目がわずかに細くなった。
直人は後退しながら踵で床を蹴り、短剣の先を壁へ当てた。次の着地では歩幅を半分に変え、反対側の床を刃の柄で叩く。空気振動を避け損ねて肩を打たれながらも、不規則な音と衝撃を競技場の各所へ残していった。
「直人君、動きが乱れてない?」
観客席で透子が不安そうに身を乗り出す。紗良は立ち上がりかけたが、真壁だけが直人の足元を見て首を横へ振った。
「違う。あいつは、同じ場所を二度叩いていない」
迅は直人の着地を振動感知で捉え、危険なものから順に抑えている。床を攻撃へ使う時には空気の衝撃が遅れ、防御へ振動を回した瞬間には足元への妨害が薄くなる。能力に単純な穴があるのではない。榊原迅という一人の人間が、一瞬ごとに何を優先するか選んでいた。
そして、選択には必ず順番が生まれる。
直人は短剣を右手へ戻し、正面から間合いへ入った。迅が迎撃のため刃へ触れた瞬間、痺れが掌へ届くより早く柄を放す。
弾かれた短剣が迅の胸元へ回転し、床へ落ちる。同時に直人は左足で床を強く蹴った。それまで壁と床へ流していた異なる周期の振動が反射して重なり、迅の足元、飛来する短剣、接近する直人という三つの脅威が同時に生まれる。
迅の視線が初めて揺れた。
短剣の軌道を逸らし、足元の振動を減衰させ、直人の踏み込みを崩す。その制御が切り替わる、ほんの一瞬。
直人は《魔力循環》を脚と腰へ集中し、公的には自己強化能力として映る加速を最大まで引き出した。
間合いが消える。
迅の掌が直人の左肩へ触れ、近距離振動が骨まで突き抜けた。腕が痺れ、激痛と共に平衡感覚が傾く。直人は受け止めず、身体の軸を外して衝撃を脇へ逃がしたが、完全には殺せない。それでも足だけは止めなかった。
動く右腕で迅の手首を取り、痺れた左腕は肘を添えるだけにする。迅が振動を防御へ切り替える前に腰を密着させ、鍛えられた体幹ごと重心を浮かせた。
二人の身体が床へ落ちる。迅は衝撃を分散したが、関節の向きまでは変えられない。直人は腕を極め、傍らへ落ちた模擬短剣を拾うと、その切っ先を迅の首元へ止めた。
数秒の沈黙の後、迅が息を吐いた。
「……降参だ」
『勝者、瀬名直人』
直人が拘束を解くと、迅は床へ座ったまま悔しそうに自分の手を見つめ、それから短く笑った。
「なるほどな」
「何がだ」
「お前の能力が変なんじゃない。お前自身が、戦うことに慣れすぎてる」
言い訳はなかった。能力性能では最後まで迅が上だったからこそ、その評価は観客席へ重く残った。
直人も立ち上がろうとして左膝をついた。腕の痺れと肩の痛みは消えず、魔力もほとんど残っていない。紗良が医療担当を呼ぶ声の向こうで、戦場の端末が次の情報を表示する。
《戦闘適性再評価・第四試合》
《対戦者――久我玲司》
《能力等級4》
《能力――《気圧支配》》
等級4の壁を越えたわけではない。ただ、その壁を構成する一人へ、すべてを使って勝っただけだ。
そして次に待つ名前は、その壁のさらに上から直人を見下ろしていた。
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