第20話 異世界で過ごした四年間
旧河川防災施設から救出された瀬名家の三人は、その日のうちに学園都市医療棟の保護区画へ移された。
直人自身も肩と脇腹を負傷しており、裂けた傷の縫合と能力使用後の検査を受けることになったが、処置が終わると休息を勧める医師を説得し、家族が待つ個室へ向かった。今までなら、自分が動ける以上は軽傷だと判断していたところだ。しかし今日は、扉の向こうにいる三人が、自分の知らないところでどれほど恐怖を味わったのかを理解していた。
個室へ入った直人を最初に迎えたのは母だった。救出後に着替えは済ませていたものの、肩までの黒髪はまだ少し乱れ、記憶にある穏やかな顔には疲労が濃く残っている。母は直人の前まで来ると、傷へ触れないよう慎重に両手で頬を包み、その顔が本当に目の前にあることを確かめるように見つめた。
「……無事でよかった。本当に、それだけはよかった」
安堵を口にした直後、その目に別の感情が混ざった。
「でもね、直人。もう『大丈夫だったからいい』では済ませたくないの。私たちは今日、自分たちが何に巻き込まれているのかさえ分からなかった。あなたが何を知っていて、どうして狙われているのか……話せることだけでも、ちゃんと聞かせて」
父も母の後ろから直人を見ていた。短く刈った髪には失踪前より白いものが増え、普段なら感情を強く表へ出さない顔にも険しさが残っている。妹はベッドへ腰掛け、膝の上で毛布を握り締めていた。薄茶色の髪の隙間から覗く目は泣き腫らしており、それでも一度も直人から逸らされなかった。
家族を危険から遠ざけたい。その考え自体が間違っていたとは、直人も思わない。知ることで狙われる秘密も、知らない方が安全な情報も確かに存在する。
だが今回は、何も知らなかった家族が偽の避難命令を信じ、そのまま敵の用意した場所へ誘導された。秘密を抱え込むことと誰かを守ることが、必ずしも同じではない。その現実を突きつけられた以上、これまでと同じやり方を続けるつもりはなかった。
「分かった。俺がいなくなっていた間に何があったのか、話せる範囲は全部話す」
妹がわずかに身を乗り出した。
「また『危険だからそこから先は駄目』って言わない?」
「俺にも分かっていないことはある。それを分かったように話すつもりはないし、他人の秘密まで勝手に話すこともできない。でも、家族の安全に関わることで俺が知っていることは、もう黙らない」
そう前置きしてから、直人は十一か月前の失踪について語り始めた。
気がついた時には地球とは異なる世界にいたこと。地球では十一か月しか経過していなかったが、自分の体感では約四年間をそこで過ごしたこと。その世界には、今の地球でダンジョンから現れているものと酷似した魔物が存在し、自分も生き延びるために戦う力を身につけたこと。
そして最後には、多くの仲間と共に、魔王と呼ばれる存在と戦った。
「……魔王って、あの魔族が言ってたのと同じ?」
妹が恐る恐る尋ねた。
「少なくとも、無関係とは思えない。俺が向こうで戦った魔王と、今地球へ来ようとしているものが同じなのかまでは分からないけどな」
「その魔王を、お兄ちゃんが倒したの?」
「最後に剣を届かせたのは俺だ。ただ、俺一人で倒したなんて言ったら、向こうに残った連中に殴られる」
直人の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。だが、その言葉と共に思い出した顔の中には、最後まで生き残れなかった者もいる。母はその一瞬の表情の変化を見逃さなかったようだが、無理に問いただすことはしなかった。
「俺が魔王のところまで辿り着けたのは、何人もの仲間が道を作ってくれたからだ。俺一人なら、そのずっと前に死んでた」
部屋に沈黙が降りた。
母の視線は、直人の腕や首元に残る古い傷へ向いていた。十一か月行方不明だった息子が、本人にとっては四年という時間を戦場で生き、その傷の一つ一つを自分たちの知らない場所で負った。その事実をどう受け止めればいいのか分からないのだろう。
やがて妹が、小さく息を吸った。
「でも……魔王を倒したなら、もう終わったんじゃないの?」
その問いに、直人はすぐには答えられなかった。
「地球にも、向こうと同じ魔物がいる。それに今日の奴は、明らかに異世界から来ていた。ダンジョンと向こうの世界がどう繋がっているのかも分からない。このまま放っておけば、次に誰が巻き込まれるかも分からない」
「だから、また戦うの?」
「必要なら戦う」
「また、お兄ちゃん一人で?」
妹の声が少しだけ強くなった。
直人は反射的に、状況によってはその方が安全だと答えそうになった。しかし、その言葉を口へ出す前に、今日の防災施設で交わした約束を思い出す。家族だけではない。真壁や紗良たちにも、自分だけで危険を抱え込まないと約束したばかりだった。
父が、そんな直人の迷いを見抜いたように椅子を引き寄せた。
「直人。お前に戦うなと言って、やめられるのか」
「……無理だと思う」
「なら、俺も無理に止めるとは言わない。ただし一つだけ勘違いするな。家族を守るという言葉を、お前が一人で傷つくための言い訳にはするな」
声を荒らげているわけではなかった。それでも直人には、その言葉が強く響いた。
「お前が一人で全部抱えれば、俺たちが安全になると思っているのかもしれない。でも、お前が死んで帰ってこなければ、俺たちが無傷で済むわけじゃない。今日それくらいは分かっただろう」
異世界でも、同じことを言われたことがあった。
自分だけが危険を背負えば被害を減らせる。そう考えて前へ出て、後ろに残された者が何を思うかまで考えられなくなったことは一度ではない。経験を積み、物事を冷静に判断できるようになったつもりでも、守りたい相手が危険に晒されれば、結局同じところへ戻りそうになる。
直人はしばらく父を見つめた後、静かに頷いた。
「危険が分かったら話す。一人で動く前に、誰かに相談する。ただ……絶対に危険なことをしないとは約束できない」
「それでいい」
父は迷わなかった。
「守れない約束をして安心させようとするより、よっぽど信用できる」
母も直人の手を取り、包帯の巻かれていない場所を強く握った。
「あなたが向こうで何をしてきたとしても、ここでは私たちの息子なの。それだけは忘れないで。戦うことがあっても、ちゃんと帰ってくる場所があるってことも」
「ああ。忘れない」
今度の返事には、迷いはなかった。すべてを理解し合えたわけではない。それでも、何も知らせず遠ざけるしかなかった昨日までと比べれば、家族との距離は確かに一歩縮まっていた。
ただし、直人にはまだ話していないことがある。自分が勇者として選ばれたことも、魔物を倒すことで成長するレベル制度も、守る選択に応じて戻り始めた固有の力も、家族へは伏せたままだ。今夜交わした約束は、秘密をすべて捨てることではない。誰かを守るという名目で、秘密の重さまで一人で抱え込まないための最初の約束だった。
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