第2話 ただいま、そしてレベル1
河川敷の表示板に映った魔物を見た瞬間、直人の頭には戦い方が浮かんでいた。異様に長い腕は見た目ほど自在には曲がらず、懐へ入れば爪を振り下ろせない。赤黒い目は暗所に適応している反面、強い光に弱い。今の地球でどこまで知られているのか確かめる必要はあったが、レベル一へ戻った身体で追える相手ではなかった。
何より、今は家族の無事を自分の目で確かめる方が先だった。
直人は雨の中を歩き、見慣れた住宅街へ入った。街灯の下には能力事故を監視する機器が追加され、交差点の表示板には無許可の能力使用を禁じる警告が流れている。十一か月前まで存在しなかったものばかりだったが、自宅の門と二階の窓は記憶のままだった。
窓には明かりがついていた。それだけで胸の奥が熱くなったものの、玄関まで来ると指が動かなくなる。魔王へ剣を突き立てた時でさえ迷わなかったのに、呼び出しボタンを押すだけのことがひどく恐ろしかった。
十一か月もの間、家族は自分を捜し続けたはずだ。目の前に現れた血まみれの少年を、本当に息子だと信じられるのか。帰還を喜ぶより先に、何をしていたのかと責められても当然だった。それでも、ここで背を向ければ帰還した意味がない。
直人が呼び出しボタンを押すと、間を置かず母の声が返ってきた。
『はい。どちら様ですか?』
四年間、忘れないよう何度も思い出した声だった。答えようとした喉が詰まり、戦場で指示を飛ばす時より小さな声しか出ない。
「……俺だよ。直人だ」
受話器の向こうで何かが落ち、慌ただしい足音が近づいてきた。鍵が外れ、扉が勢いよく開く。
室内履きのまま飛び出してきた母は、直人を見るなり足を止めた。目を見開き、口元を震わせながらも、すぐには近づいてこない。期待して違っていた時に耐えられない――そんな怯えが、記憶より痩せた頬に浮かんでいた。
「直人……なの?」
直人が頷くと、母は雨の中へ飛び出し、その身体を強く抱きしめた。何度も名前を呼ばれながら、直人はしばらく腕を返せなかった。剣を受ける方法も、負傷者を運ぶ方法も覚えているのに、母親に抱きしめられた時の応え方だけが、すぐには思い出せなかった。
やがて震える背へ手を回すと、記憶より小さくなった母の身体が掌へ伝わった。
「ごめん、母さん」
自分の意思で消えたわけではない。それでも十一か月が母へ残した痕跡を見れば、謝罪以外の言葉は出なかった。
物音を聞いた父と妹も玄関へ現れた。父は直人の顔を見たまま口を結び、妹は裸足で駆け出して胸へぶつかるように抱きついた。
「お兄ちゃん……本当に?」
「ああ。俺だ」
「遅いよ……!」
三歳年下の妹は、怒っているような声で泣いた。直人の破れた服を強く握り、また消えることを防ごうとするように離さない。直人がその頭へ触れると、四年間で変わった自分と、十一か月分だけ成長した妹との時間の差が急に現実味を帯びた。
「もう、いなくならない?」
直人はすぐには答えられなかった。地球に何が起きているのかも、再び異世界へ送られない保証があるのかも分からない。安心させるためだけの約束は、守れなかった時に相手を傷つける。
「勝手にはいなくならない。何かあるなら、今度は必ず話す」
妹が望んだ言葉とは少し違っただろう。それでも彼女は直人の目を見て、やがて小さく頷いた。できない約束で慰めるより、守れる言葉を選んだことが伝わったのかもしれない。
父はようやく近づき、直人の肩へ手を置いた。その視線が血の染みた外套と胸当てを追い、表情が硬くなる。
「その怪我は、どうした」
「説明する。ただ、今は――」
答えかけた直人の膝から力が抜けた。母と父が左右から身体を支え、妹が悲鳴を上げる。直人は大丈夫だと言おうとしたが、戦場で使ってきた「動けるなら問題ない」という基準が、家族には通じないことを思い出した。
「救急車を呼ぶ」
父の決断に、直人は抵抗しなかった。自分の状態を正確に知る必要があり、地球の医療と能力に関する情報を得る機会にもなる。何より、拒めば家族をさらに不安にさせるだけだった。
◇
搬送先の病院では、傷の処置と同時に本人確認が行われた。指紋もDNAも瀬名直人本人と一致した一方、失踪前の記録と比べて肉体の成長がほとんど見られないことだけが、医師と警察を困惑させた。
検査結果は、肋骨のひび、左足首の損傷、複数の裂傷、重度の疲労と栄養不足。異世界で受けた傷としては軽い部類だったが、今の肉体にとっては十分に危険だった。治療の途中で何度も意識が沈みかけたことで、直人はレベル九十九だった頃の感覚を捨てなければならないと改めて理解した。
点滴を受けながら、直人は警察と両親へ最低限の事実だけを話した。気づいた時には知らない場所におり、帰る方法を探して長期間さまよったこと。地球では十一か月でも、自分の感覚では約四年が経過していること。魔王や異世界という言葉は伏せた。嘘を重ねるつもりはなかったが、証拠もないまま全てを話せば、家族まで監視や研究へ巻き込まれる可能性がある。
父は何度か質問しかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。母も知りたいことは山ほどあったはずだが、今は帰ってきたことだけでいいと言って直人の手を握った。二人の信頼へ隠し事で応えることに胸が痛んだものの、守るためには話さない方がよい情報もある。それも異世界で学んだことだった。
事情聴取が一段落した頃、白衣の医師が別の端末を持って病室へ入ってきた。
「瀬名君。現在は原因不明の外傷患者に、能力反応検査を行うことになっている。君の失踪時にはなかった制度だから驚くと思うが、痛みはないよ」
父が警戒する一方、直人は検査を受け入れた。掌を薄い測定板へ置くと、端末上の波形が激しく乱れ、その後、低い数値で安定する。
医師は結果を見て眉を寄せた。
「能力反応あり。出力は低いが、自己強化系で間違いない。ただし、既存の型と一致しないな……」
直人は表情を変えず、画面へ表示された文字を読み取った。
《暫定登録能力:成長型自己強化能力・仮》
《推定能力等級:1》
レベルという言葉はどこにもない。地球の検査機器は、直人だけが見られる仕組みを超能力の一種として解釈したらしい。少なくとも、この場でレベル九十九だった過去まで見抜かれた様子はなかった。
「未登録の未成年能力者は、専門教育と定期検査の対象になる。通学圏内にも対応校はあるが、君のような分類不能例は、学園都市で精密検査を受けるよう勧められるだろう」
医師が端末へ資料を映すと、高層校舎、能力訓練施設、ダンジョン攻略装備を身につけた学生たちが現れた。都市の周囲には複数のダンジョンの扉が存在し、学生も許可を得れば実習として内部へ入るという。
母の手に力がこもった。帰ってきたばかりの息子が、また家を離れるかもしれない。その不安が言葉にされる前に伝わってきたため、直人はすぐに返事をせず、資料の最後まで目を通した。
学園都市へ行けば、能力の正体を調べられる。ダンジョンへ入る正規の資格も得られる。そして、画面の下部に表示された都市管理機構の名称が、直人の目を引いた。
《超巨大演算機構ATLASによる能力・ダンジョン活動データの統合管理》
便利な管理システムに見える一方、どこまで個人を観測するものなのかは分からない。直人が警戒を強めた時、端末へ新たな通知が届いた。
《瀬名直人を学園都市特別編入候補として仮登録》
《精密能力測定および面談予定を調整します》
検査を終えてから、まだ数分しか経っていなかった。
直人は通知を見つめ、学園都市が未知の能力者を迎えるための手続きを、驚くほど早く整えていることを理解した。
そこへ行けば、地球に現れた魔物と自分のレベルについて調べられる。
同時に、自分もまた調べられることになる。
直人が学園都市へ抱いた最初の印象は、希望ではなく、巨大な観測者だった。
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