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第1話 魔王を討った勇者、地球へ帰る



 魔王の胸を貫いた聖剣は、黒く変色した骨に食い込み、そこで止まっていた。


 瀬名直人は柄を握ったまま、琥珀色の瞳から光が消えていくのを見届けた。肩口から流れた血が腕を伝い、指の間から柄へ落ちている。左足は着地のたびに軋み、折れた肋骨は呼吸をするたび肺の近くを刺した。それでも、魔王が動かなくなったという理由だけで警戒を解くことはなかった。


 心臓を潰された魔物が自爆したことも、死んだふりをした魔族が仲間の喉を食い破ったこともある。肉体を捨て、魂だけで逃げようとした敵さえいた。四年間の戦場で直人が学んだのは、勝利を信じることではなく、勝利を確認することだった。


 直人は残った魔力を聖剣へ流し込んだ。白い光が魔王の胸の奥で炸裂し、巨体が一度だけ痙攣する。黒い煙を吐きながら膝を折った魔王が玉座の前へ倒れると、ひび割れた床が大きく揺れ、天井から砂と小石が降り注いだ。


 直人は剣を引き抜く勢いのまま後方へ跳んだ。左足に鋭い痛みが走り、視界が白く瞬いたが、膝をつく前に聖剣を構え直す。魔力の循環、呼吸、鼓動、魂の残滓。確認できるすべてを確かめ、魔王の肉体から完全に力が失われた後で、ようやく切っ先を下げた。


「……終わった」


 口にした声は、勝者のものとは思えないほど掠れていた。


 待ち望んでいたはずの瞬間だった。魔王を倒せば、焼かれる村も、徴兵される子供も、明日の食事を心配しながら眠る人々も減る。そのために直人は剣を握り、何度も死にかけ、守れなかった者の顔を覚えたまま戦い続けてきた。


 だが胸に広がったのは歓喜ではなく、これでようやく休めるという鈍い安堵だった。そんな自分を少し恥じた直後、恥じることさえ億劫なほど疲れているのだと気づき、直人は小さく息を吐いた。


 崩れた回廊の向こうから、瓦礫を踏み越える足音が近づいてくる。


「ナオト!」


 仲間の声を聞いた瞬間、直人の頬からわずかに力が抜けた。魔王の死を確認した時よりも、その声が生きて届いたことの方が、ずっと強く胸を揺らした。


 振り返り、無事を知らせようとした直人の視界へ、見慣れない文字が浮かび上がる。


《討伐対象の消滅を確認》


《帰還条件が成立しました》


「帰還……?」


 問い返す間もなく、聖剣からあふれた白い光が腕を伝い、全身を包み込んだ。直人は反射的に柄を手放そうとしたが、指は張り付いたように動かない。痛みはなかった。ただ、自分という存在が世界から切り離されていく感覚だけが、ひどく鮮明だった。


「待て。まだ、別れを――」


 瓦礫の向こうに仲間たちの姿が見えた。誰もが傷だらけで、それでも直人へ向かって走っている。伸ばされた手が届くまで、あと数歩しかない。


 地球へ帰りたいと願った夜は数えきれなかった。父と母の顔を忘れないように思い出し、妹の声を記憶の中で繰り返した。それでも、四年間を共に戦った仲間へ何も告げずに消えたいと願ったことは一度もない。


 帰りたい。だが、こんな帰り方ではない。


「待ってくれ!」


 直人も手を伸ばした。しかし指先が触れる直前、音も光景も白に呑まれ、異世界から勇者の存在が消えた。


     ◇


 頬へ落ちた冷たい水滴で、直人は目を開いた。


 頭上にあったのは魔王城の崩れた天井ではなく、街の明かりを映した灰色の夜空だった。遠くで車が走り、信号機が電子音を鳴らし、雨水が排水溝へ流れ込んでいる。四年間、一度も耳にしなかった日本の生活音が、現実味のないほど鮮明に響いた。


『現在、周辺地域に能力事故の発生情報はありません。市民の皆様は、公式端末から配信される警戒情報をご確認ください』


 聞き慣れない内容の日本語アナウンスが流れる中、直人は濡れたアスファルトへ手をついて起き上がった。そこは河川敷へ続く歩道で、自動販売機の白い光も、川向こうに並ぶ住宅も、失踪する前に何度も見たものだった。


「……日本だ」


 言葉にした途端、帰ってきたという実感が胸へ押し寄せた。笑おうとした唇が震え、目の奥が熱くなる。だが直人は反射的に周囲の気配を探り、視界を塞ぐ前に涙を止めた。安全な場所へ戻ったはずなのに、感情より警戒を優先する癖は身体から抜けていなかった。


 破れた外套も、血の染みた胸当ても残っている。しかし聖剣は消え、腰へ伸ばした手は空を掴んだ。


 直人は立ち上がろうとして、すぐに膝をついた。受け身だけは正確だったが、身体があまりにも遅い。先ほどまでなら折れた足でも跳べたはずなのに、筋肉へ力を巡らせる魔力そのものが見つからなかった。


 動揺を押し殺して意識を集中させると、半透明の表示が現れる。


《瀬名直人》


《レベル:1》


《筋力:初期値》


《耐久:初期値》


《敏捷:初期値》


《魔力:初期値》


《感知:初期値》


《精神:初期値》


《習得スキル:なし》


 直人は表示を閉じ、もう一度開いた。結果は同じだった。


 魔王を討った時、直人のレベルは九十九だった。剣術や戦術の知識、戦場での判断力は頭に残っている。掌には剣を握り続けた痕跡もある。それなのに、四年間をかけて積み上げた肉体と魔力だけが、十六歳の少年の初期値へ戻されていた。


 力を失った恐怖より先に浮かんだのは、なぜ地球でもレベルが表示されるのかという疑問だった。すべてが消えたのではなく、レベル一として残っている。ならば、この仕組みは異世界だけのものではないのかもしれない。


 直人は柵を支えに立ち上がり、歩道脇の情報表示板を見た。そこに示された日付は、彼が地球から消えてから約十一か月後。異世界で過ごした約四年とは、大きく食い違っている。


 父と母、三歳下の妹にとっては、理由も分からないまま直人が消えていた十一か月だ。今も捜しているのか、すでに最悪の可能性を受け入れ始めているのか、それすら分からない。すぐに家へ向かいたいという思いが胸を突き上げたが、直人は数秒だけ足を止め、まず周囲の異変を確認した。何も知らないまま家族の前へ危険を持ち込むことだけは避けたかった。


 その時、画面が切り替わり、巨大な金属扉のような構造物と、その周囲を警備する武装隊が映し出された。


《国内ダンジョン扉周辺における立入規制について》


 続いて現れた若い男は、掌から炎を噴き出して訓練標的を焼いた。画面下には「能力等級」という、直人が知らない言葉が流れている。


 わずか十一か月の間に、地球には超常の力とダンジョンが現れていた。映像の隅には負傷者数と資源回収量が並び、ダンジョンが一時的な怪事件ではなく、すでに社会の制度や産業へ組み込まれ始めていることまで読み取れた。


 直人は情報を記憶しながら、雨に濡れた自分の手を見下ろした。レベル一の肉体で何ができるかは分からない。それでも家族のいる地球へ同じ戦火を持ち込ませないという一点だけは、力を失う前と何も変わらなかった。


 そして次に表示された映像を見た瞬間、直人の表情から帰還の安堵が消えた。暗い洞窟の中を進む調査隊。その背後で、異様に長い腕と赤黒い目を持つ怪物が身を起こしている。


 地球の人間には未知の魔物なのだろう。


 だが直人は、その名も、習性も、どこを斬れば最も早く殺せるかも知っていた。


 魔王との戦いは終わった。


 それでも戦いの種は、直人より先に地球へ帰っていた。


この小説をお読みいただきありがとうございます。

よければ★★★★★マークとブックマークで応援していただけると嬉しいです!

完結作品にはなりますが、応援が多ければ第二章突入も考えています!

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