# 第119話 基準個体
『第三再評価を開始します』
無機質な音声と同時に、天井の測定器が三方向へ開いた。固定台の周囲へ青白い光が走り、三本の黒い床線を越えて天城の足元まで伸びてくる。
天城は避けなかった。拳を握ったまま、光が靴から膝、胸元へ這い上がるのを見下ろしている。幼い頃にも同じような光を浴びた記憶はあったが、当時の自分が何を考えていたかまでは残っていなかった。
『外部送信が起動。遮断しとるけど、室内記録への書き込みは止まらへん』
「止めればどうなる」
『新しい計測は止まる。古い《基準個体》の記録も一緒に消える可能性が高い』
零士の指が携帯端末の上を滑る。外へ伸びようとする通信だけを《電磁静域》で押さえているが、測定設備と保存装置は有線で直結されていた。片方へ強引に干渉すれば、記録消去機構まで動きかねない。
「天城さん。床線の外へ出られますか」
「出られる。だが、こいつは追ってくるぞ」
天城が右足を半歩引くと、天井の測定器が同じ角度だけ動いた。出力を上げたわけでもないのに、室内の機械は《領域掌握》を一つの能力としてではなく、戻るべき対象として捉えている。
小春が固定台の脇へ膝をつき、伸びてきた細い採取管を手袋越しに押さえた。管の先端には血液や組織を採るための針がある。新しい設備でありながら、対象の同意を確認する装置はどこにもなかった。
「生体採取まで自動です。天城さんへ刺さる前なら外せますが、その時点で再評価中止と判定されるかもしれません」
「構わねぇ。俺の今の血までくれてやる気はない」
「では、記録を抜くまで三十秒だけください」
綾乃は即座に役割を分けた。零士が外部送信と消去命令を隔離し、奏が保存装置へ残る能力痕跡を追う。小春は採取管を止め、ミナは奥へ退いた担当者の経路を確認する。天城には、設備を壊さず測定線の内側へ残るよう求めた。
「俺を囮にする気か」
「現在の反応を外へ渡さず、過去の記録を取るためです。嫌なら中止します」
命令ではなく、選択が返される。天城は綾乃の顔を一度見た後、天井から降りてくる採取管へ視線を戻した。
「三十秒で済ませろ。遅れたら全部潰す」
「十分です」
奏が操作席の下へ手を差し入れた。《残留解析》は電子情報を読む能力ではない。しかし、どの記録部へ誰が触れ、何を繰り返し動かしていたかは追える。
「右から二番目の保存器が古い記録です。現在対象の測定では触れられていません。左端は、先ほど退いた一名が操作しています」
『ほな、古い方だけ複製する。あまぎっち、あと二十二秒や』
「数えるな。うるせぇ」
天城の肩口へ細い光が集まり、画面に数値が並び始めた。出力、耐久、適応。その全てが測定上限を越え、赤い警告へ変わる。
『基準個体・現在値の再取得を継続』
『旧記録との差分を検出』
差分という言葉の下に、年齢ごとの記録が展開された。名前はない。同じ識別番号と、測定を受けた時期、投薬量、負荷回数だけが並んでいる。数値が伸びなかった期間には食事量が減らされ、適応が上がった直後には試験回数が増えていた。
その行の脇には、《生存》《継続》《基準採用》という判定がある。別の識別番号には、《停止》《搬出》という二文字が繰り返されていた。
奏が古い保存器へ指を当てる。記録には複数の能力反応が年代を隔てて重なり、同じ管理者が継続して扱ったものではなかった。何度か別の媒体へ移され、そのたび一部の期間だけが抜け落ちている。
「原本ではありません。意図的に省いたのか、移動時に失われたのかは分かりません。ただ、現在の設備へ持ち込まれる前にも、少なくとも二度は別の場所で使われています」
『今の事件だけのために掘り出した記録やない、っちゅうことやな。昔から何かの比較に回され続けとる』
天城は画面の端に残る空白を見た。数値の下がった者が翌日から消えることは知っていたが、その先を考えたことはなかった。自分が生き残ったのは強かったからで、消えた者は弱かった。それが閉じた施設で与えられた全てだった。
今さら同情する気はない。だが、名前を消した記録が現在の人間まで同じ床へ運んでいるなら、放置する理由もなかった。
「あの時と同じか」
綾乃の問いに、天城は画面を見たまま答えた。
「似てる。だが、こんな記録は見せられてねぇ」
「自分が基準に選ばれたことは?」
「知らねぇ。数値が上がれば次が来た。それだけだ」
声に怒りも悲しみも乗らない。何度も起きた日常を説明する時と同じ調子だった。その平坦さを、小春は何も言わず受け止め、天城の皮膚へ触れる寸前だった採取管を指先で固定する。
「十秒です」
奥の壁から短い振動が伝わった。ミナが戻り、継ぎ目のない白い壁の一点を指す。
「向こうに通路がある。さっきの人が一人と、運ばれてる人が一人。壁の先で扉が閉まり始めてる」
「運ばれている人の状態は」
「固定台に乗せられてる。意識はあるけど、自分では動けないみたい」
ミナはさらに、壁の先に熱源と薬液管が集中していると報告した。通路自体に罠は見つからないが、奥の固定台へ六本以上の配管が入り、担当者はその制御卓から離れていない。追跡者を撒くより、工程を終わらせることを優先している動きだった。
追えば担当者を捕らえられる。しかし今動けば、過去の記録と現在の被害を繋ぐ証拠を失う可能性がある。綾乃は天城ではなく、零士の端末を見た。
『複製完了。外部送信もゼロ。切ってええで』
「小春さん」
「外します」
小春が採取管を固定台側へ折り返し、零士が測定処理だけを閉じた。天城が床線から一歩出ると、追従しようとした装置が急停止し、室内へ低い警告音が満ちる。
『現在値の取得に失敗』
『旧基準値を適用します』
画面が切り替わった。天城の古い三項目を中央に置き、その周囲へ現在の被験者らしい識別番号が並ぶ。三十二件の候補のうち、実際に搬入された者は六名。そのうち三名は救出済み、二名は受入室から救出、残る一名が壁の向こうへ運ばれている。
そして最後の一件には、名前の代わりに新しい処理名が表示されていた。
『基準再現率、最終確認』
『再現工程へ移行します』
過去を測るだけだった記録が、今度は別の人間を同じ形へ削る基準として動き始める。白い壁の奥で、機械の起動音が重く響いた。
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