# 第106話 まだ生きている
「まだ生きてる」
天城の声を聞いた綾乃は、灰色の車両を金属隔壁の六メートル手前で停止させた。エンジンは切らず、車載端末も帰投状態のまま残す。ここで接続を失えば、隔壁の向こうにいる一人だけでなく、その先へ続く経路まで閉ざされる可能性があった。
「位置と状態を」
「壁の向こう、床より一メートル下だ。横になってる。胸は動いてるが、間隔が長ぇ」
《領域掌握》が捉えているのは、思考や詳しい傷病ではない。金属と機械の振動を除外した後に残る、僅かな呼吸と身体の存在だった。
『外向きの通信は増えてへん。けど、その隔壁は電気錠だけやないで』
零士は車両の前照灯と携帯検査器から得た情報を重ね、隔壁脇の配線を確認した。扉の駆動部とは別に、壁の向こうへ伸びる有線回路が三本ある。
『一つは開閉確認。残りは中の何かに直結しとる。無理やり開けたら、何が動くか分からん』
「だったら中から見ればいいよね」
先行していたミナが傾斜路の曲がり角から戻ってきた。金茶色の髪を揺らしながら隔壁へ手を当てるが、すぐには《位相透過》を使わない。
「厚さは?」
『外板と内板の二層。間に配線と補強材がある。右上は比較的空いとるけど、抜けた先の足場までは見えへん』
「じゃあ、カメラを先に出す。私まで壁と重なったら笑えないし」
ミナは細い観測棒の先端だけを右上部から透過させた。手元の画面へ暗い室内が映り、床面と障害物の位置を確かめてから、自分の身体を壁の向こうへ滑り込ませる。
数秒後、共有映像が切り替わった。室内には、傾斜した固定台と、その上へ手足を拘束された一人の人物がいた。腕には透明な管が繋がれ、脇に置かれた注入器の中には薬液が半分近く残っている。
『意識なし。呼吸、かなり浅い。外傷は見える範囲だと少ない』
「管へ触るな」
天城が車両を降り、隔壁の前へ立った。自分で中を見ているわけではない。それでも、ミナの手が注入器へ伸びるより先に言葉が出ていた。
「さっきより胸の動きが遅くなった」
『小春、あと何分や』
『二分です。救出者の引き渡しは完了しました』
小春は収容車両を安全圏へ渡し、別の支援車両で地下入口まで戻ってきていた。共有映像を確認しながら、ミナへ注入器本体ではなく対象者の腕に近い位置で管を挟むよう指示する。
『薬液を止めます。ただし針は抜かないでください。何が入っているか分からない状態で動かす方が危険です』
「了解。挟んだ」
注入は止まったが、隔壁はまだ開けられない。零士が壁内の有線回路を追うと、開閉確認線の一つが固定台の下へ入り、注入器の駆動部へ戻っていた。
『扉を規定外で動かすと、残りの薬液を一気に押し込む構造や。外への警報は止められる。でも中の有線処理は、俺の能力だけじゃ止まらん』
「趣味が悪いね」
ミナの声から普段の軽さが消えた。救出される者が自分で扉を開けることも、外から誰かが壊して助けることも、最初から罰するように作られている。
「線を切ればいいのか」
「順番を誤れば同じです」
綾乃は天城へ視線を向けた。隔壁を破る力があっても、今必要なのは破壊ではなく、ミナが内側の回路へ手を届かせる隙間を正確に作ることだった。
「天城、隔壁を十二センチだけ持ち上げてください。零士が駆動部を止め、ミナが開閉確認線を外すまで、その位置を維持」
「十二センチで足りるんだな」
「足りるように使います」
「なら失敗すんな」
天城は隔壁の下端へ指を掛けた。力を入れれば金属板ごと天井まで吹き飛ばせるが、持ち上げたのは指示どおり十二センチだけだった。
内側で小さな作動音が鳴り、注入器の押し板が動こうとする。だが透明な管はすでに挟まれ、薬液は対象者へ流れない。
『位置そのまま! あと五秒!』
「五秒も掛かんのか」
「喋らせないで。今、二本目」
ミナは床へ伏せ、開いた隙間から壁内の端子へ手を伸ばした。零士が指定した開閉確認線を外し、代わりに携帯回路を接続する。
『駆動停止。注入器との接続も切れた。もう開けてええ』
天城が隔壁を押し上げた。速さはあるが、壁を天井へぶつける音も、金属を歪ませる軋みもない。逃げ道を塞いでいた重量だけが消え、小春と奏が固定台へ駆け寄った。
「触れます。返事はしなくて大丈夫です」
小春は意識のない人物にも断り、首筋と胸元へ手を当てた。《生体調律》で乱れた心拍と呼吸を支えながら、薬物によって抑え込まれた身体を搬送に耐えられる範囲へ戻していく。
「薬物の影響が強いです。完全には戻せません。でも今すぐ呼吸が止まる状態からは外せます」
「運べるか」
「三分ください」
天城は固定台の拘束具へ手を伸ばしかけ、止めた。小春が生命維持を行い、奏が腕輪と台の周囲に残る反応を確認している。自分が先に外せば、二人が必要とする位置や痕跡を崩すだけだった。
「三分だ。過ぎたら俺が運ぶ」
「三分以内に終わらせます」
奏は拘束具に残る反応と、灰色車両の右端席から採取した痕跡を比較した。細部は薬物や経過時間に紛れているが、同じ人物が車両からこの固定台へ移されたと判断できる。
「車にいた人で間違いない。ここへ入った後、能力を使った痕跡はない」
「能力者かどうかも未確定ですね」
「未確定。でも別の痕跡がある」
奏が視線を向けたのは、室内奥にある小型貨物昇降機だった。扉の前には固定台とは異なる複数の反応が重なり、そのうち一つは今夜のものと見られるほど新しい。
零士も内側の制御盤へ接続し、外部通信を行わない局所記録だけを読み出した。氏名も行き先も残されていないが、昇降機が四十一分前に下層へ動き、その後は戻っていない。
『ここは帰り先やない。積み替え場所や』
「下に何人いる」
『分からん。記録に人数はない。今夜動いたんが人か物かも断定できへん』
天城は昇降機の扉を睨んだが、すぐに手を掛けなかった。背後では小春が拘束を外し、搬送布へ移された被害者の呼吸を支えている。
被害者の指が僅かに動き、近くに立つ天城の上着を掴んだ。開いた目は焦点が合わず、声も息に近い。
「置いて……いかないで……」
天城はその指を振り払わなかった。怯えを宥める言葉も、もう安全だという保証も口にしない。
「勝手に死ぬな。お前を運んだ奴まで引きずり出す間、生きて証人をやれ」
被害者の指から力が抜ける。小春は眠っただけだと確認し、搬送布をミナと奏へ預けた。
昇降機の制御盤には、外部へ接続されていない次回作動の待機表示が残っていた。残り三十七分。どこへ下りるのか、誰が待っているのかは分からない。
綾乃は救出者を先に支援車両へ渡し、灰色車両と昇降機の双方を監視する配置へ班を組み直した。天城も今度は急かさず、閉じた扉の向こうへ意識を集中させる。
救い出した一人は、帰り先にいた最後の人間ではなかった。
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