私にしかできないこと
フィレーネは、自分だけの聖剣を構えた。
目の前に広がる境界の亀裂は、近くで見るほど不気味だった。縦に裂けた黒い空間の縁を血管のような紋様が幾重にも走り、その奥にはこちら側とは異なる暗い空と、さらに複数の魔物らしき影が蠢いている。
あれが完全に繋がれば、何体の魔物がこちら側へ溢れ出すか分からない。
「フィレーネ、狙う場所を間違えるな」
メフィストが亀裂を指差した。
「黒い空間そのものを斬るんじゃない。縁に走ってる術式を見ろ。あれが境界をこちら側へ固定してる」
「全部、斬ればいいんですか?」
「できればな。ただ、適当に斬ってもすぐ再生すると思う。魔力の流れを見ながら、繋がってる部分を順番に切る必要がある」
フィレーネは目を凝らした。
最初は、ただの黒い模様にしか見えなかった。けれど、おキノコカリバーを握り、聖属性の魔力を強く意識すると、その内側に流れているものが少しずつ見えてくる。
「……見えます。全部同じではありません。何本か太い流れがあって、そこから細いものへ分かれています」
「本当か?」
メフィストの目が僅かに輝いた。
「聖属性で魔性の流れそのものを感じ取ってるのかもしれない。なら話が早い。太いところから潰せ」
「分かりました!」
「ただし、あいつが黙って見てるとは思うなよ」
その言葉通り、傷だらけになったデーモンが翼を大きく広げた。
「させるか!」
両手へ黒い炎を集め、そのままフィレーネへ向けて放つ。アメリアが前へ出ようとしたが、それより早く地面から巨大な石壁がせり上がり、黒炎を真正面から受け止めた。
炎は岩肌へ食らいつき、表面を焼きながら削っていく。そこへメフィストが水属性の魔術を重ねると、急速に熱を奪われた黒炎は大量の蒸気を上げながら勢いを失っていった。
「フィレーネは亀裂だけ見てろ」
「先生は?」
「こいつを止める。役割分担だ。私はあれを安全には閉じられないが、お前が作業してる間にこいつを足止めするくらいならできる」
メフィストはデーモンへ視線を向ける。
「むしろ、そっちの方が得意だ」
「貴様ぁ!」
デーモンが怒声を上げた。
「人間ごときが俺を舐めるな!」
「十分見た。もう研究材料としても大体満足したから、遠慮しなくていい」
その言葉と同時に、メフィストの周囲へ複数の魔法陣が展開される。デーモンの表情が明らかに強張った。
「アメリア」
「はい」
「フィレーネが亀裂へ近づく間だけ援護を頼む。向こうから魔物が出てきたら落としてくれ」
「承知いたしました」
アメリアが剣を抜く。
フィレーネも大きく息を吸った。
「行きます!」
地面を蹴り、亀裂へ向かって走り出す。
距離そのものはそれほど遠くない。だが近づくほど、向こう側から漏れ出す魔力が重くなり、肌が粟立つ。身体そのものが本能的に「近づくな」と訴えているようだった。
それでも、フィレーネは足を止めなかった。
強くなれば境界の亀裂を閉じられる。
強くなれば魔物から人を守れる。
強くなれば、誰かに守られるだけの王女ではなくなる。
長い間、いつかできるようになればいいと思いながら剣を振ってきた。その「いつか」が、ただ今日になっただけなのだ。
亀裂の奥から、小型の魔物が数体飛び出してくる。
翼を持つ獣のような姿をした魔物へ、アメリアが迷わず踏み込んだ。
「フィレーネ様、そのままお進みください!」
最初の1体を斬り落とし、その身体を踏み台にするように跳躍する。空中で身体を捻りながら2体目の翼を切り裂いたものの、3体目だけがアメリアの横をすり抜けた。
「1体抜けました!」
「見えてます!」
フィレーネは走る速度を緩めず、おキノコカリバーを振り上げた。
魔物はまだ通常の剣なら到底届かない位置にいる。だが、もう普通の剣の間合いを基準にする必要はない。
刀身の根元を維持したまま、先端へ流す魔力だけを増やす。白金の光が一気に伸び、フィレーネがそのまま横薙ぎに振り抜くと、長大化した聖剣は飛行する魔物の胴を正確に捉えた。
斬られた魔物の身体から黒い魔力が噴き出し、地面へ落ちるより先に崩れていく。
「できた……!」
「止まるな、フィレーネ!」
メフィストの声に、すぐ意識を戻す。
「はい!」
亀裂の目前まで駆け寄ると、固定術式の流れは先ほどよりも明確に見えた。
太い流れと細い流れが複雑に絡み合い、何本もの魔力が網のように境界をこちら側へ縫い付けている。
「右上の太い流れから!」
メフィストが戦いながら叫ぶ。
「私にも見えてる。そこを切れば全体の3割くらいは弱る!」
「分かりました!」
だが位置が高い。
普通の剣なら届かない高さだ。
フィレーネはおキノコカリバーへ魔力を流し、刀身をさらに伸ばしていく。白金の刃が亀裂の上部へ届いた瞬間、思いきり斬り下ろした。
聖剣が黒い紋様へ触れる。
耳障りな音が響き、粘つくような抵抗が刀身へまとわりついた。
「っ……!」
岩を斬った時よりも遥かに重い。
けれど、剣そのものは壊れない。
刃が濁れば魔力を流し直せばいい。フィレーネが聖属性の魔力を注ぐたび、白金の光は強さを取り戻し、黒い術式を少しずつ押し退けていった。
「フィレーネ、力で押すな!」
メフィストの声が届く。
「岩を斬った時と同じだ! 腕力で壊そうとするんじゃなく、魔力の流れに沿って刃を通せ!」
「……はい!」
フィレーネは呼吸を整え、無理やり押し込むのをやめた。
黒い魔力がどこへ流れているのかを感じ、その筋へ白金の刃を滑らせる。すると重かった手応えが僅かに軽くなった。
「今です!」
その瞬間を逃さず、一気に振り抜く。
黒い紋様が断ち切られ、亀裂全体が大きく震えた。
「1本!」
「上手い。そのまま次だ!」
2本目は左下にある。
フィレーネが駆け寄ろうとした瞬間、足元から黒い腕のようなものが伸びてきた。
咄嗟に跳び退いて避ける。
「そんなものまで出るんですか!?」
「たぶん防御機構だ! 固定術式を壊されたから反応してる!」
「それなら――!」
フィレーネは着地する前に、おキノコカリバーの刀身を縮めた。
長いままでは取り回しが悪い。
なら、必要な瞬間だけ形を変えればいい。
短剣ほどに縮めた聖剣で黒い腕を斬り払い、着地すると同時に通常の長さへ戻す。
「……便利です!」
「今さら気付いたのか?」
「名前以外は最高です!」
「そこはまだ言うのか」
こんな状況なのに、思わず笑ってしまった。
その一瞬だけでも緊張が緩んだことで、身体から余計な力が抜ける。
2本目、続いて3本目と黒い術式を断ち切っていく。1つ消えるたびに境界の形は不安定になり、亀裂そのものが大きく波打ち始めた。
「やめろ!」
デーモンが叫ぶ。
「それを閉じたら、魔神様が――!」
「余所見するな」
メフィストが指を鳴らすと、デーモンの頭上に巨大な水塊が生まれ、そのまま押し潰すように落下した。
デーモンは翼を広げて回避しようとしたが、横から叩きつけられた風に姿勢を崩され、その瞬間を狙って地面から伸びた岩が足を拘束する。
「この程度!」
デーモンが炎を放ち、足元の岩を焼き砕く。
けれど、拘束を破るために生み出した炎へ、すぐさま大量の水が覆い被さった。
熱せられた空気が爆発的に蒸気へ変わる。
「ぐっ……!」
デーモンが風を巻き起こし、視界を覆う蒸気を吹き散らす。
その向こうには、すでに次の魔法陣が完成していた。
「遅い」
地面から巨大な岩槍が射出される。
デーモンは闇属性の障壁を作って受け止めたが、その防御へ意識を向けた瞬間、死角から圧縮された風が直撃した。
「ぐぁっ!」
身体が大きく吹き飛ばされる。
フィレーネは一瞬だけその戦いへ視線を向けた。
先生は、自分の役割を果たしている。
なら、自分も自分にしかできないことをやらなければならない。
残る太い流れは2本だった。
「先生、あと2つです!」
「見えてる! 右側はさっきまでより濃くなってる。おそらく主軸だ。最後に回せ!」
「はい!」
もう1本の術式へ向かう。
今度は高いだけではなく、距離もある。
刀身を伸ばしても角度が悪く、直接届かせるのは難しい。
フィレーネは一瞬だけ迷ったが、すぐに第3話の訓練を思い出した。
伸ばせる。
短くできる。
そして、魔力を刀身から解放すれば斬撃を飛ばすこともできる。
「……これなら」
フィレーネはおキノコカリバーを通常の長さへ戻した。
「フィレーネ?」
「試したいことがあります!」
「危険じゃないならやれ!」
剣を構え、刀身へ魔力を流していく。
ただし、今回は維持しない。
振り抜く瞬間だけ、先端へ集めた魔力を外へ解放する。
これまで何度も練習した。
まだ完全ではない。
それでも、今ならできる。
「おキノコカリバー……!」
白金の聖剣を横薙ぎに振り抜く。
刀身から三日月状の光が離れ、空中を走った。
白金の斬撃が遠く離れた黒い術式へ直撃する。
一度では切れない。
フィレーネはすぐに魔力を整え、同じ場所へ2発目を重ねた。
黒い紋様に亀裂が入る。
「あと少し!」
3発目。
放たれた白金の斬撃が亀裂へ食い込み、とうとう固定術式そのものを断ち切った。
境界が激しく歪む。
亀裂の奥から暴風のような圧力が噴き出し、フィレーネの身体を後ろへ引っ張った。
「きゃっ……!」
「フィレーネ様!」
アメリアが腕を掴み、踏み止まらせる。
「ありがとうございます!」
「残り1つです!」
最後の術式。
もっとも太く、黒い魔力の大部分がそこへ集中している。
「先生!」
「あれを切れば閉じるはずだ!」
「分かりました!」
「ただし気をつけろ! 固定が弱ったせいで、向こう側からの圧力が全部最後の1本へ集まってる!」
その言葉の意味は、フィレーネにもすぐ分かった。
先ほどまでとは比較にならないほど黒い魔力が濃い。
術式は生き物のように脈打ち、近づいただけでおキノコカリバーの白金の刀身が僅かに揺らぐ。
それでもフィレーネは、1歩ずつ前へ進んだ。
聖剣を両手で握り、最後の術式を見据える。
「無駄だ!」
デーモンが叫んだ。
「お前程度の魔力で、魔神様の術式を切れるものか!」
その言葉に、フィレーネの足がほんの一瞬だけ止まった。
お前程度。
昔なら、きっとよく効いた言葉だった。
王族として役に立たない。
王位も継げない。
政略結婚にも使えない。
誰かに責められたわけではないからこそ、自分自身が一番強くそう思い込んでいた。
自分には何もない。
だから強くならなければならない。
けれど今は、もう違う。
「先生」
「なんだ?」
「私、ずっと勘違いしていたのかもしれません」
フィレーネは黒い術式から目を逸らさずに言った。
「強くなれば、誰かに必要としてもらえると思っていました。強くなれば役割ができて、そうすれば私にも価値があると思えるんじゃないかって」
メフィストは戦いながらも、何も言わずにその言葉を聞いていた。
「でも先生は、私が何もできなかった時から、私の身体を欠陥だと言いませんでした。使えるかもしれない、面白い、調べようって言っただけでした」
自分だけの聖剣を握り直す。
「たぶん、価値があるから力になったんじゃないんですね。私の身体も、私が剣を振ってきた時間も、強くなりたいって願ったことも、全部最初から私だったんです」
「そうだな」
メフィストの返事は簡潔だったが、その声はいつもより僅かに柔らかかった。
「だから、それでいい」
フィレーネは大きく息を吸った。
「はい!」
刀身へ魔力を流す。
根元は濃く、先端へ向かうほど鋭く。
これまで教わってきたことを、1つずつ丁寧に積み上げる。
「おキノコカリバー!」
今では、その名前さえ少しだけ愛おしく思えた。
踏み込む。
白金の刃が、最後の術式へ触れた。
凄まじい抵抗が腕へ返ってくる。
剣は押し返され、白金の刀身が大きく揺らぐ。
それでも壊れない。
刃が濁れば、その都度魔力を流し直す。足元が震えても、身体の軸だけは崩さない。
「はあああっ!」
黒と白金の光がぶつかり合い、激しく火花を散らした。
「フィレーネ、少し右だ!」
メフィストの声が飛ぶ。
「そこが流れの中心じゃない! 右へ半歩、そこから斜めに落とせ!」
「はい!」
右へ踏み込む。
見える。
濃密な黒い魔力の中に、ごく僅かに流れの薄い場所がある。
そこへ刃を滑り込ませると、これまでとは明らかに違う手応えが返ってきた。
「今だ!」
フィレーネは全身を使って剣を振り抜いた。
白金の光が走る。
黒い術式が、真っ二つに裂けた。
一瞬、世界から音が消えたように感じた。
次の瞬間、境界の亀裂が大きく収縮する。
「な……!」
デーモンが振り返った。
「馬鹿な! 境界が……!」
向こう側から伸びかけていた魔物たちの腕や翼が、閉じていく亀裂へ飲み込まれていく。黒い空間はみるみる細くなり、世界と世界の繋がりが急速に断たれていった。
「待て! 俺まで――!」
デーモンが亀裂へ向かおうとする。
だが、その進路にはすでにメフィストが立っていた。
「どこへ行く?」
「どけ!」
「嫌だ。弟子がちゃんと仕事を終えたんだ。師匠が残りを片付けないと格好がつかないだろ」
メフィストが片手を上げる。
その周囲へ、複数の魔法陣が一斉に展開された。
「ま、待――」
最初に炎が逃げ道を塞ぎ、続いて大量の水がデーモンの動きを鈍らせる。そこへ風が姿勢を崩すように叩きつけられ、最後には地面から伸びた岩が身体を完全に固定した。
異なる属性を一度に重ねられたデーモンが、必死に闇属性の魔力を放とうとする。
しかし、それより早くメフィストが純粋な魔力を圧縮した光を叩き込んだ。
爆音が響く。
アメリアがフィレーネを庇い、メフィストが張っていた防護膜が衝撃波を受けて大きく波打つ。
やがて光が収まった時、そこにデーモンの姿は残っていなかった。
地面に落ちていたのは、黒い魔石が1つだけ。
それとほぼ同時に、最後まで残っていた境界の亀裂も糸のように細くなり、やがて完全に消滅した。
静寂が戻ってくる。
フィレーネはしばらくその場から動けなかった。
「……閉じたんですか?」
「ああ」
メフィストは黒い魔石を拾い上げ、残留魔力を確かめるように眺めた。
「境界側の魔力反応も消えてる。完全に閉じたと見ていい」
「私が……閉じた?」
「フィレーネが、だ」
メフィストは当然のことのように答えた。
「私には安全にできなかった。お前が閉じたんだ」
その言葉が、胸の奥へゆっくりと落ちていく。
フィレーネは手の中のおキノコカリバーを見つめた。
白金の光は、まだ静かに揺らめいている。
「私、本当に境界を閉じたんですね」
「そうですね」
アメリアが歩み寄ってくる。
いつもと変わらない穏やかな顔だったが、その目には隠しきれない喜びが浮かんでいた。
「ご立派でした、フィレーネ様。剣を握り始めた頃から、ずっとおっしゃっていましたものね。いつか境界へ向かえるほど強くなりたいと」
「アメリア……」
フィレーネは何も言えなくなった。
7歳の自分が、ひたすら木剣を振っていた姿を思い出す。
王女として役割がないのなら、強くなればいい。
強くなれば何かできる。
その思いだけを頼りに、何年も剣を振り続けた。
その答えが、今ここにある。
「先生」
「なんだ?」
「ありがとうございました」
メフィストが僅かに首を傾げた。
「私が教えたのは使い方だ。斬ったのはフィレーネだろ」
「それでもです。先生が来てくださらなかったら、私は今でも自分の呪躯を消したいと思っていたはずです」
メフィストは少し考えてから、肩を竦めた。
「まあ、研究対象としてかなり面白かったからな。私としても来て損はなかった」
「そこは最後まで変わらないんですね」
「嘘を言っても仕方ないだろ」
思わず笑ってしまう。
アメリアも隣で小さく微笑んでいた。
その日の夕方、王城から騎士団が到着した頃には、亀裂は跡形もなく消えていた。
現場に残っていた巨大な爪痕や砕かれた岩柱、そしてメフィストが回収したデーモンの魔石を見た騎士たちは、何度も報告内容を聞き直した。
特に、
「境界を閉じたのはフィレーネ王女殿下です」
とアメリアが説明した時には、誰もが驚いた顔をした。
フィレーネ自身も、その言葉を聞くたびに落ち着かなかった。
自分の名前と「境界を閉じた」という言葉が並んでいる。
少し前までなら、考えられなかったことだった。
数日後には父王も離宮を訪れた。
「フィレーネ!」
姿を見るなり抱きしめられ、そのまま長々と無事を喜ばれた。最後には「危険なことをするなら、せめて先に父に言いなさい」と叱られたので、フィレーネとしては少し複雑だった。
それでも、父の目に以前とは僅かに違うものが混じっていることには気付いた。
「お前が境界を閉じたと聞いた」
「はい」
「……立派になったな」
その一言だけで、十分だった。
王族としての政策に組み込まれるようになったわけではない。
王位継承権が戻るわけでもないし、政略結婚をする予定もない。
けれど、もうそれを「役割がない」とは思わなかった。
道は1つではない。
与えられないのなら、自分で作ればいい。
それを教えてくれた人がいる。
さらに数日後。
いつもの中庭で、フィレーネはおキノコカリバーを振っていた。
岩柱を1本斬り、刀身を縮める。そのまま離れた標的へ斬撃を飛ばし、最後は大きく伸ばした刀身で複数の標的をまとめて切断した。
「どうですか、先生!」
「悪くない。ただ、2発目の斬撃が少し右へ流れた。撃った後に剣を戻すことを考えるのが早すぎるんだと思う」
「なるほど……もう1度お願いします!」
「少し休め。前から思ってたけど、フィレーネは放っておくとずっと剣を振るな」
「もっと強くなりたいですから」
そう答えてから、フィレーネは自分の言葉に少しだけ違和感を覚えた。
以前とは意味が違う。
誰かに必要としてもらうためではない。
役割を作るためだけでもない。
「先生」
「なんだ?」
「私、もっと強くなったら、色々な場所へ行けますか?」
「行けるだろ。少なくとも王都の離宮にいるよりは、外の方が魔物も遺跡も亀裂も多い」
そう答えたメフィストの声が、少しだけ弾んだ。
「未知の術式もあるし、まだ分類されてない呪躯もあるかもしれない。地方ごとに魔術体系が違う可能性もあるな」
「先生、私より楽しみにしてませんか?」
「外へ出れば研究対象が増えるからな」
フィレーネは笑った。
「では、一緒に行きませんか?」
メフィストがフィレーネを見る。
「どこへ?」
「まだ決めてません」
「目的地もないのか?」
「はい。でも、それも楽しそうです」
フィレーネは白金の剣を消した。
「私、冒険者になってみたいです」
それは、ずっと考えてきたことだった。
強くなれば、自分で生きられる。
強くなれば、世界を見に行ける。
そして今は、もう1つ理由がある。
「先生とアメリアと一緒に、色々な場所へ行ってみたいです」
メフィストはしばらく考えたあと、少しだけ頷いた。
「悪くないな。冒険者なら境界の亀裂にも入れるし、各地の遺跡調査もできる。研究許可を取るより早い場合も多い」
「やっぱり研究なんですね……」
「でも、フィレーネも強くなれる。目的は両立してるだろ」
確かにそうだった。
「では、決まりですね!」
「父親の許可は?」
「……そこからでした」
急に現実へ引き戻され、フィレーネは肩を落とした。
メフィストが僅かに笑う。
「まずそこを何とかするか」
「先生も一緒に説得してくださいね?」
「私が言うと余計に反対されないか?」
「先生が原因でもあるんですから、責任を取ってください!」
「分かった分かった。説明くらいはする」
少し離れた場所で見守っていたアメリアが、小さく息を吐いた。
「でしたら、わたくしも準備を始めておきましょう」
「アメリアも来てくれるんですか?」
「フィレーネ様をお一人で行かせるわけにはまいりませんので」
フィレーネの顔が一気に明るくなる。
「はい!」
かつて、自分だけには進む道がないと思っていた。
兄姉には役目があり、同年代の令嬢たちには婚約や家の仕事があり、自分だけが王家の政策から外されていた。
けれど、それは道がないという意味ではなかった。
用意された道がなかっただけだ。
なら、自分で選べばいい。
呪われた身体だと思っていたものは、自分にしかない力になった。
役割がないと思っていた王女は、誰にも閉じられなかった境界を自分の剣で閉じた。
そして今度は、自分の意思で世界へ出ていく。
「先生!」
「今度はなんだ?」
「おキノコカリバーって、少しだけいい名前かもしれません!」
メフィストが珍しく満足そうに頷いた。
「やっと分かったか」
「少しだけです!」
笑い声が、離宮の中庭へ響いた。
こうして、役割を持たなかった王女フィレーネは、自分だけの剣と、自分で選んだ道を手に入れた。
そして彼女はまだ知らない。
12歳の変人賢者と、母親代わりのエルフを連れて始める旅が、どれほど騒がしく、どれほど楽しく、どれほど遠くまで続いていくことになるのかを。
それはまた、別のお話である。




